15―令嬢の仮面③
シャンパングラスの触れ合う音と、優雅なピアノの調べ。その美しい旋律を切り裂くように、紗奈の耳には周囲からの「毒」が容赦なく注ぎ込まれてくる。
透也と向き合いながら、紗奈はただその身をさらした。
「……ねえ、あの娘。透也様の何なのかしら?」
「噂だと血の繋がらない妹だとか。拾われた孤児だとか……。どちらにせよ、城瀬様の温情でしょう」 「信じられないわ。あんな……出自も知れないような方が、透也様の隣に立つなんて」
わざと聞こえるように、口元を手で隠しながら放たれる品のない囁き。
「透也様はお優しいのね」「お気の毒に」という同情を装った嘲笑が、紗奈の神経を逆撫でする。
彼女たちは、紗奈が何者であるかを知らない。紗奈が透也の傍らで、どれほどの訓練をつみ、どれほどの覚悟で彼を護ってきたのかなど、想像すらしていないのだ。
(優しい……?)
紗奈は内心で、皮肉な笑みを噛み殺した。 透也が自分を前に出したのは、決して慈悲などではない。
彼女たちの視線が、針のように突き刺さる。
「身の程を知らない」という無言の罵倒が、ドレスの生地を貫いて皮膚まで届くようだった。
(いいわ、それなら……)
「お、お兄様。もう許して……」
震える唇から絞り出されたのは、懇願という名の呪いの言葉だった。
透也の瞳が、驚愕に開かれる。
紗奈の絞り出した「お兄様」という呼びかけは、社交界の雑音を瞬時に塗り替えるほどの破壊力を持っていた。
それは、彼女にとって長年かけて積み上げた牙城を自ら崩すような、魂を削る一行だった。
周囲の令嬢たちの息がつまる。
先ほどまで紗奈へ向けられていた嘲りは、瞬く間に別の色へと塗り替えられていく。
「あんなに心配されているなんて」
「年の離れたかわいい妹君ですものね……」
透也の瞳が、わずかに揺らぐ。
彼は常に紗奈を「紗奈」と呼び、決してその名を家庭内の呼称で呼ぶことはなかった。兄妹という関係性は、あくまで社会的な仮面に過ぎなかったからだ。
しかし、紗奈の瞳は、演技のそれではない。
そこには、自分を公衆の面前で晒し者にした城瀬家への、静かな、しかし確実な復讐の光が宿っていた。
「……紗奈」
透也の低い声が漏れる。彼は咄嗟に、苦笑を装いながら紗奈の腰を抱き寄せた。周囲からは、奔放な妹に振り回される「甘い兄」の姿として映っているはずだ。
「……もう、いい加減にしろ。皆が困惑しているぞ」
透也の囁きは、甘い響きを纏いながらも、その実、紗奈の暴走に対する警告だった。
しかし、紗奈はさらに一歩、透也の懐へと踏み込む。わざとらしく肩を震わせ、今にも泣き出しそうな表情を作り上げた。
「だって……お兄様が、私のことばかり見てくださるから。皆さんが、私を怖がって……」
会場中の視線が、今度は紗奈の純真さと、透也の過保護な愛情の交錯に釘付けになる。
紗奈は透也のジャケットの胸元を強く掴んだ。
(見ていて、透也)
紗奈は、胸の中で毒を吐き捨てる。 和馬が「城瀬家の妹」という檻に閉じ込めるなら、いっそ「妹を盲愛する兄」という名に置き換える。
これは私と城瀬家の、どちらの仮面が先に砕けるかの賭け。
「……ねえ、お兄様。今夜は、ずっと私を離さないでくださるのでしょう?」
紗奈の唇から零れたその言葉は、招待客たちには「甘える妹の無邪気な願い」として届いた。しかし、透也の耳には、鋭利な刃物のように深く突き刺さったはずだ。
透也の抱く腕に、力がこもる。 彼は、紗奈が自分の支配を逆手に取り、社交界という戦場で自分自身を「最強の毒」に変えたことに気づいたのだ。
「……ああ。離さない」
透也は、逃げ場のないほど甘く、そして重い声で応えた。 周囲の感嘆と好奇の視線の中、二人は「理想の兄妹」を演じながら、互いを縛り合う鎖をさらに強く締め上げた。
この一部始終を透也の父親は見ていた。
会場の喧騒から少し離れた上層階の階段の踊り場。そこから会場を俯瞰していた社長、和馬の眼差しは、慈父のそれではなく、冷徹な観察者のものだった。
彼が目にしたのは、美しい令嬢と若き実業家の微笑ましい一幕ではない。 血を拭い、呼吸を整え、互いの狂気を補完し合う「二人の獣」の共犯関係だった。
(第三幕――完)




