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『White Cage――透明な献身――』  作者: 長谷川鈴凪
3 Obedient Heart  従順な心

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16/20

15―令嬢の仮面③

 シャンパングラスの触れ合う音と、優雅なピアノの調べ。その美しい旋律を切り裂くように、紗奈の耳には周囲からの「毒」が容赦なく注ぎ込まれてくる。

透也と向き合いながら、紗奈はただその身をさらした。

「……ねえ、あの娘。透也様の何なのかしら?」

「噂だと血の繋がらない妹だとか。拾われた孤児だとか……。どちらにせよ、城瀬様の温情でしょう」 「信じられないわ。あんな……出自も知れないような方が、透也様の隣に立つなんて」

わざと聞こえるように、口元を手で隠しながら放たれる品のない囁き。

「透也様はお優しいのね」「お気の毒に」という同情を装った嘲笑が、紗奈の神経を逆撫でする。


彼女たちは、紗奈が何者であるかを知らない。紗奈が透也の傍らで、どれほどの訓練をつみ、どれほどの覚悟で彼を護ってきたのかなど、想像すらしていないのだ。

(優しい……?)

紗奈は内心で、皮肉な笑みを噛み殺した。 透也が自分を前に出したのは、決して慈悲などではない。

彼女たちの視線が、針のように突き刺さる。

「身の程を知らない」という無言の罵倒が、ドレスの生地を貫いて皮膚まで届くようだった。


(いいわ、それなら……)


「お、お兄様。もう許して……」

震える唇から絞り出されたのは、懇願という名の呪いの言葉だった。

透也の瞳が、驚愕に開かれる。

紗奈の絞り出した「お兄様」という呼びかけは、社交界の雑音を瞬時に塗り替えるほどの破壊力を持っていた。


それは、彼女にとって長年かけて積み上げた牙城を自ら崩すような、魂を削る一行だった。

周囲の令嬢たちの息がつまる。

先ほどまで紗奈へ向けられていた嘲りは、瞬く間に別の色へと塗り替えられていく。

「あんなに心配されているなんて」

「年の離れたかわいい妹君ですものね……」

透也の瞳が、わずかに揺らぐ。

彼は常に紗奈を「紗奈」と呼び、決してその名を家庭内の呼称で呼ぶことはなかった。兄妹という関係性は、あくまで社会的な仮面に過ぎなかったからだ。

しかし、紗奈の瞳は、演技のそれではない。

そこには、自分を公衆の面前で晒し者にした城瀬家への、静かな、しかし確実な復讐の光が宿っていた。

「……紗奈」

透也の低い声が漏れる。彼は咄嗟に、苦笑を装いながら紗奈の腰を抱き寄せた。周囲からは、奔放な妹に振り回される「甘い兄」の姿として映っているはずだ。

「……もう、いい加減にしろ。皆が困惑しているぞ」

透也の囁きは、甘い響きを纏いながらも、その実、紗奈の暴走に対する警告だった。

しかし、紗奈はさらに一歩、透也の懐へと踏み込む。わざとらしく肩を震わせ、今にも泣き出しそうな表情を作り上げた。

「だって……お兄様が、私のことばかり見てくださるから。皆さんが、私を怖がって……」

会場中の視線が、今度は紗奈の純真さと、透也の過保護な愛情の交錯に釘付けになる。

紗奈は透也のジャケットの胸元を強く掴んだ。

(見ていて、透也)

紗奈は、胸の中で毒を吐き捨てる。 和馬が「城瀬家の妹」という檻に閉じ込めるなら、いっそ「妹を盲愛する兄」という名に置き換える。

これは私と城瀬家の、どちらの仮面が先に砕けるかの賭け。


「……ねえ、お兄様。今夜は、ずっと私を離さないでくださるのでしょう?」

紗奈の唇から零れたその言葉は、招待客たちには「甘える妹の無邪気な願い」として届いた。しかし、透也の耳には、鋭利な刃物のように深く突き刺さったはずだ。


透也の抱く腕に、力がこもる。 彼は、紗奈が自分の支配を逆手に取り、社交界という戦場で自分自身を「最強の毒」に変えたことに気づいたのだ。

「……ああ。離さない」

透也は、逃げ場のないほど甘く、そして重い声で応えた。 周囲の感嘆と好奇の視線の中、二人は「理想の兄妹」を演じながら、互いを縛り合う鎖をさらに強く締め上げた。


 この一部始終を透也の父親は見ていた。

会場の喧騒から少し離れた上層階の階段の踊り場。そこから会場を俯瞰していた社長、和馬の眼差しは、慈父のそれではなく、冷徹な観察者のものだった。

彼が目にしたのは、美しい令嬢と若き実業家の微笑ましい一幕ではない。 血を拭い、呼吸を整え、互いの狂気を補完し合う「二人の獣」の共犯関係だった。



(第三幕――完)

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