14―令嬢の仮面②
透也が立ち去った直後、会場の熱は一気に紗奈へと集中した。氷のような無表情と、先ほど彼が見せたあの異常なまでの献身。社交界のハイエナたちは、獲物を見つけたかのように紗奈の周囲を囲み始めた。
「あなたが噂の岩瀬社長のご令嬢でしたか?」 「こちらへ。一杯どうですか?」
甘ったるい香水の匂いと、下卑た探りを入れる視線。紗奈は彼らの言葉を耳から耳へと通り抜けさせていた。今の彼女には、ナイフを抜かなかった理性を維持するだけで精一杯だった。
その中のひとりが、馴れ馴れしく紗奈の左手を掴もうと手を伸ばした。
「……ッ」
紗奈が反射的に身を引こうとした、その瞬間だった。
「おっと。あぁ、悪いね」
軽やかな、しかし絶対的な拒絶を含んだ声とともに、一人の影が男と紗奈の間にシャンパンのグラス片手に割り込んだ。
タキシードを着こなし、完璧な笑顔を張り付けた洸樹だ。
洸樹はインカムに手を当て、周囲を警戒しながらボソリと呟いた。
「チーフは今、社長に呼び止められてる。あと数分は戻れない。……悪いけど、もう少しだけ俺たちが守るから。耐えてくれ」
紗奈は、会場中央にある階段の踊り場にいる透也と和馬を視界に入れた。
「洸樹、私を連れ出して」
紗奈の声は極めて冷静だったが、その瞳は暗く濁っていた。
「はっ。無茶言うな。お前は、チーフどころか社長の命令でここにいるんだろう」
「……そうね。ならせめて、私に協力して」
紗奈は、洸樹がさっきテーブルに置いたグラスのシャンパンを飲み干した。
「お、おい!それアルコール」
洸樹が反射的にグラスを奪い返そうと手を伸ばす。その手を利用して、紗奈は流れるような動作で洸樹の右腕を掴み、その手首を鋭くひねり上げた。
「これでも?」
洸樹は苦悶の表情を浮かべながらも、即座に紗奈の自由な方の手を制し、彼女の身体を背後から抱きすくめるようにして、その両手を背中で交差させ、強く絞り上げた。
紗奈の背中が、洸樹のタキシードの硬い生地越しに密着する。二人の距離は、周囲から見れば「親密な二人」のように見えるが、実際には極限の力比べだった。
「そうよ。……私は、城瀬家の飾りじゃない」
紗奈の吐息が荒い。彼女が本気で「崩壊」を望んでいることを悟り、洸樹の顔から余裕が消えた。
その瞬間、冷徹な低音が二人の背後に降ってきた。
見下ろしていた透也の瞳から、理性という名の膜が一瞬で剥がれ落ちた。
透也は紗奈があえて「彼以外の男」の体温を利用し、この場を乗り切ろうとしたことに戦慄と激昂を同時に感じていた。
彼はすべての社交を中断し、ここまで戻ってきた。
彼は紗奈の目の前で足を止め、その瞳を奈落のような漆黒に染め上げた。
「……そうやって、俺の神経を逆撫でるのが、今夜のお前の任務か」
透也の声は掠れていた。彼はあえて洸樹を睨むこともせず、ただ紗奈の顔だけを見つめている。だが、その手は彼女の二の腕を砕かんばかりの強さで掴み、洸樹から彼女を引き剥がした。
紗奈の身体が、透也のタキシードの硬い生地へと乱暴に引き寄せられる。
「洸樹、今のうちに消えろ。……紗奈、お前は少し頭を冷やす必要があるな」
透也は紗奈の手首を掴んだまま、人目をはばからず、会場の喧騒から彼女を引きずり出すようにして歩き出した。
紗奈の身体にはまだ、洸樹のタキシードの温かさと、香水の匂いが残っている。透也はそれが許せなくてたまらないというように、彼女の首筋に顔を近づけた。
周囲には誰にも聞こえない声で、しかし逃げ場のないほど冷徹に囁いた。
「他の男の匂いを纏って俺の前に立つなんて……お前も、随分と度胸がついたものだ」
紗奈は、自分の血で汚れた手を透也のジャケットに押し付けたまま、恍惚とすら言える微笑を浮かべた。彼を激昂させ、独占し、引きずり回されること。
その全てが、今夜彼女が彼から受け取った、何よりも甘美な『罰』だった。
だが、地獄のパーティーは、ここからが本番だった。




