13―令嬢の仮面①
会場の入り口で、洗練されたタキシードを纏った洸樹が紗奈たちを待っていた。
髪をオールバックに流し、いつもの戦闘服とはまるで別人のような彼の姿に、紗奈は一瞬、現実感を失いそうになる。
「お、ふたりとも良いじゃん。っかし、本物の令嬢に見えるぜ。女の子ってすごいな……」
「何言ってんの? 紗奈は『本物』よ」
澪が呆れたようにそう言って、紗奈のドレスの裾を整えた。
「いや、まぁ、そうなんだけどさ」
気まずそうに頭を掻く洸樹。二人のやり取りの最中、インカムに梶からの冷徹な命令が響いた。
『――配置につけ。定刻だ』
「じゃあ頑張ってね、紗奈」
二人は軽やかな足取りでそれぞれの持ち場へと消えていった。たった一人残された紗奈は、深く息を吸い込み、華やかな光の渦の中へと足を踏み入れた。
すでに会場は七十名のVIPたちの談笑で熱を帯びていた。シャンパングラスが触れ合う軽快な音、高価な香水の匂い、そして偽りの賞賛が重なり合う。
その喧騒の中、一角でひときわ人目を集めている影があった。
透也だ。 タキシードに身を包んだ彼は、周囲の女性たちからの熱っぽい視線を一身に受けながらも、完璧な社交の仮面を被っている。
ふと、彼の視線が会場の入り口に向けられた。 紗奈の姿を捉えた瞬間、透也の瞳が一瞬だけ細められた。彼の手元で選ばれた、肌馴染みの良いレースドレス。その布面積のすべてを計算し尽くした男が、今の紗奈の姿を満足げな目で眺めているのが分かった。
(……見ないで)
紗奈はあえて視線を逸らした。
ここで彼と目が合えば、自分が着せられたドレスも、身につけたダイヤも、すべてが彼に「所有」されている証拠だと周囲に晒すことになる。 どうせ、この場で二人が言葉を交わすことも、物理的な距離を詰めることも許されない。
私たちは今、同じ空間にいながら、別々の次元で生きているのだから。
紗奈は感情を押し殺し、人混みを縫うようにして、透也とは反対側の壁際へと向かった。心臓の鼓動だけが、彼がそこにいるという事実を告げていた。
会場の喧騒が、紗奈の耳には水中から聞く音のようにくぐもって聞こえた。
視界の端、数メートル先には常に透也がいる。彼が誰と話し、誰に微笑み、どの程度まで踏み込ませているのか――。
無意識のうちに、紗奈の目は獲物を追う獣のように彼を追い続けていた。
その時だった。
「透也様…、私少し酔ってしまったかもしれません」
甘ったるい声とともに、一人の女性が透也の胸元にその身を預ける。透也の仕立ての良いタキシードに、自分以外の女の指先が触れ、その重みが彼にかかる。
紗那の視界が、一瞬で赤く染まった。 内左ふともものガーターベルトに仕込んだ、あの白いタクティカルナイフ。
それを抜き放ち、その不遜な指先を、その喉元を、一息に切り裂きたいという彼女の本能が、ドレスの下で猛り狂う。
紗耶は、ナイフを抜きそうになる衝動を自分の手に爪を立てて耐えた。
背中の後ろで組んだ自分の右手に、左手の爪を深く、肉に食い込むほどに立てた。
掌に走る鋭い痛みが、沸騰した脳を辛うじて現実に繋ぎ止める。ナイフを抜けば、ここで全てが終わる。透也のキャリアも、自分の「盾」としての資格も。彼女の表情は氷のように無機質だが、見開かれた瞳の奥には、人知れず狂気が宿っていた。
透也がその女性を支えるために手を添える。そのごく自然な、社交上の仕草さえも、紗奈にとっては自分の肺から空気を力ずくで引き抜かれるような苦痛だった。
(その場所は、私のもの)
彼に触れること、彼を支えること、彼のために盾になること。
それらはすべて、血の滲むような訓練と、絶望の淵で彼に拾われた自分だけに許された、聖域のはずだった。
紗奈の掌からは、爪が食い込んだ痕から一筋の血が滴り、レースのドレスの生地に吸い込まれていく。
透也は、女性を支えながらも、その視線は一瞬たりとも紗那から外さなかった。
彼女が背後で拳を握りしめ、自分自身の肉を傷つけてまで衝動を抑えている。
それを彼は、愉しむように見つめている。
「……大丈夫ですか。少し、風に当たったほうがいい」
透也の口から発せられる、他者への偽りの慈悲。 紗那は、噛み締めた奥歯が軋む音を聞いた。
(透也、お願い。その女を、私から引き離して)
もし彼がそのまま女性を連れて会場を後にするなら……?
紗那の手のひらの傷口はさらに深く裂け、滴る血は彼女の足元に小さな、けれど確かな拒絶の印を刻んでいた。白いナイフはまだ鞘の中にある。
周囲の視線が集中する中、透也は取り囲んでいた令嬢たちを冷然と退ける。彼は、迷いのない足取りで紗那へと歩み寄った。
彼は無言のまま、紗奈の背後に回る。そして、ドレスの背後で自らを傷つけていた彼女の両手を、強引に、けれど壊れ物を扱うような繊細さで引き寄せた。
「……何をしている」
耳元で囁かれる声は、低く、重い。
それは叱責であると同時に、自分以外の何者にも傷つくことを許さないという、極限の独占欲の表れだった。
タキシードのポケットチーフを抜く。
透也は丁寧に、指先についた血を拭い去っていく。
白いチーフが赤く染まるたび、紗奈の荒い呼吸が、彼のタキシード越しに伝わる体温によって少しずつ整えられていった。
(ああ、やっぱり……私の呼吸を支配するのは、この人だけ)
先ほどまで自分を焼き尽くそうとしていた殺意が、彼の指が触れるたびに、甘美な服従へと書き換えられていく。
彼は冷ややかな瞳で紗奈を射抜いた後、血に染まったそのチーフを、表情一つ変えずに自らのジャケットのポケットへと押し込んだ。
「……馬鹿な真似はするな。ここがどこだと思っている」
囁きは、叱責というよりは、紗奈の暴走を封じ込めるための重い呪文のようだった。
彼の手が離れる。
その瞬間、紗奈の指先に残った微かな体温が、血の匂いとともに彼女の理性を激しく揺さぶった。
彼は何事もなかったかのように、再び社交の渦へと戻っていった。 紗奈は、血の滲む左手をドレスの影で隠し、震える呼吸を必死に整える。
会場の熱気が、先ほどよりもさらに濃密に、彼女の息を奪い始めていた。




