11―トレーニングルーチン②
洸樹が実力が足りてないのでも、ふざけているのでもない。紗奈の技術が、一般的な暴漢を想定した「護衛・制圧」の枠を完全に逸脱し、相手を確実に屠るための戦術に特化しすぎているのだ。そして、その恐るべき技術を最初に彼女に仕込んだのは、紛れもなく目の前の梶だった。
衣服の擦れる音が、激しく、重く連続してエリアに響き渡る。かわし、いなし、隙あらば首を、目を、頸動脈を狙う紗奈の容赦ない猛攻。そのすべてを、梶は自衛隊上がりの泥臭くも圧倒的な実戦技術でねじ伏せていく。
バチッ、と肉と肉がぶつかる硬い音が響き──次の瞬間、紗奈の突きの軌道が強引に巻き取られ、その身体の自由が完全に封じられた。
二人の距離はゼロ。梶は荒い息を吐く紗奈の耳元で、他には聞こえない低い声で、そっと告げた。
「ナイフがなくても、戦えるようになれ紗奈。ここで成果を出したいなら」
淡々と梶は言った。
その言葉の裏にある、梶の真意を紗奈は瞬時に察した。だが、その言葉の奥にある真意を、紗奈は瞬時に理解した。
――それに頼るな。
――お前のそれは、護衛の技術として危うすぎる。
ナイフを握った瞬間、自分がどう変わるのか。梶は、きっと気づいている。
紗奈はふっと笑った。
「……善処します」
大人の男の胸の中で、形の良い唇に、どこか冷酷で自嘲的な弧が結ばれる。
「ナイフの使い方を一から仕込んだあなたがそれを言うんですか?」
「……」
梶は答えなかった。ただ、その沈黙だけで十分だった。
十三歳の春、血の匂いの残る少女に、最初に刃を握らせたのは自分だ。
その事実だけが、喉に刺さった棘のように残り続けている。
紗奈は、反対側のベンチへ向かい無造作に白いシャツを脱ぐと、ペットボトルに口をつけた。口から溢れた水滴が紗奈の白い首筋を伝う。先ほどの洸樹の決意など一瞬で吹き飛ぶような、扇情的な姿にどうしても目を逸らせない。
その時だった。無機質な電子音と共に、エリアの自動ドアが静かに滑り開く。
入ってきたのは、完璧なスーツ姿のまま、ジャケットのボタンを一つ外しただけの男──チーフ・城瀬透也だった。
「──チーフ」
梶がすぐに直立不動の姿勢を取る。
透也はポケットに片手を入れたまま、ゆっくりと中央へ歩み寄ってきた。その冷徹な、すべてを見透かすような切れ上がった瞳が、防弾チョッキ一枚でペットボトルを持つ紗奈の姿を捉え、次に、まだ息を荒らげている洸樹へと向けられた。
(……しまった、見られてたか……!?)
洸樹の背筋を、生酷い冷や汗が駆け抜けた。
だが、透也は洸樹を責める言葉を、一言も口にしなかった。責めないこと自体が、「お前など最初から敵ではない」という、残酷なまでの回答だった。
「チーフ……!」
先ほどまで死神のような目をしていた紗奈の顔に、一瞬で「本物の熱」が宿る。
彼女は脱ぎ捨てていたシャツを拾い上げることも忘れ、吸い寄せられるように透也の前へと歩み寄った。
「水分補給が終わったら、全員上のブリーフィング室に来るように」
透也はそれだけを淡々と告げると、自然な動作で右手を伸ばした。
そして、紗奈の首筋に、まるで自分の持ち物の感触を確かめるかのようにごく自然に、けれど深く指先を滑らせ──彼女の襟足に絡んでいた黒髪を、丁寧に、優しく整えてやった。
溢れた水滴が、その冷たい指先に触れて、かすかに弾ける。その指先の冷たさに、紗奈は至福そうに目を細め、完全に服従した子犬のように頭を垂れる。
透也は最後まで洸樹を睨みつけることすらせず、ただ、その「当然の所有権」を空気のように匂わせたまま、踵を返してエリアを去っていった。
残された洸樹が、二人の不可侵の重力に圧倒され、拳を握りしめて立ち尽くす中──。
梶だけは、腕を組んだまま、静かに去りゆく透也の背中を見つめていた。
かつて、透也と紗奈のパーソナルトレーナーとして、二人の私邸(城)に唯一出入りを許されていた梶。十二歳の紗奈が笑うことをやめ、二十二歳の透也がその細い首筋に「俺のためだけに呼吸をしろ」と狂気の呪いを刻みつけていく、あの歪な共依存のすべてを、梶は誰よりも間近で、特等席で見届けてきた。
(……相変わらずだな、チーフ。あの頃から、一ミリもその娘を外に出すつもりはないわけだ)
すべてを知るベテランの瞳に、動揺はなかった。あるのは、城瀬透也という男の底無しの執着に対する、冷徹なまでの理解だけだった。




