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『White Cage――透明な献身――』  作者: 長谷川鈴凪
3 Obedient Heart  従順な心

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11/20

10―トレーニングルーチン①

 どれだけこの身体を酷使すれば、あなたを護る最強の盾になれるの?

訓練を重ねるたび、感覚は鈍り、傷は増えていく。

それでも足りない。

透也を失うことに比べれば、この程度の痛みなど、存在しないのと同じだった。

終わりのない迷宮を歩き続けているような感覚。

それでも、立ち止まることだけはできない。

――あの人を、二度と失いたくない。


 S/F社三十六階には、TSO専用タクティカル・トレーニングエリアやジムエリアといった、先鋭メンバーのための訓練施設が整然と並んでいる。

全面に衝撃吸収素材が敷き詰められたそのトレーニングエリアにSFの先鋭メンバーがいる。実質TSOのナンバーツー。チーフである透也が全体の指揮系統を決め、それを実際に現場の肉体として動かすのがこの梶勇人かじゆうとだ。元陸上自衛隊上がりの経験を積んだ三十七歳の武闘派。この梶だ。チーフの冷徹な命令を瞬時に噛み砕き、メンバーを的確に動かす圧倒的な瞬発力と状況判断が、彼には備わっていた。


紗奈はジャケットを脱ぎ捨てる。白シャツとスーツのズボン姿という、その華奢な肢体で、七歳年上の萩原洸樹はぎわらこうきとスパーリングを行っていた。

二人の間には、激しい打撃音ではなく、衣服が擦れる微かな音と、極限まで張り詰めた殺気だけが流れていた。


「シッ──!!」

鋭い呼気とともに、洸樹こうきの長い足が紗奈の側頭部を狙ってしなる。紗奈はそれを、まるで踊るような最小限のステップでかわした。それどころか、かわした勢いをそのまま利用し、流れるような所作で洸樹の懐へと滑り込む。

その動きには、力みが一切ない。紗奈は細い両手で、洸樹の突き出された腕の「支点」を正確に捉えた。古流柔術の理合に基づいた、寸分の狂いもない体重移動。次の瞬間、洸樹の巨体がまるで重力を失ったかのように空中を舞い、そのまま関節を完全にロックされた状態で床へと叩きつけられていた。

──バチ、と静かに首の骨が鳴る一歩手前で、紗奈の動きがピタリと止まる。

「っ……降参、降参! マジで動けねえ!」

冷や汗を浮かべながら、洸樹が慌ててタップする。

紗奈が静かに拘束を解いた洸樹は痛む肩を押さえながら、乱れた黒髪をかき上げる。

「制圧までが早ぇんだよ……。つーかお前、毎回ほんとに俺を殺す気だろ。急所しか狙ってこねぇじゃん」

紗奈は、わずかに首を傾げた。

「急所が空いているのが悪いのでは?」

「怖ぇよその返し」

「ほんと、それ」

リング外から声を挟んだのは、都月澪つづきみおだった。洸樹より二歳年上の二十六歳。

ベンチに腰掛け、プロテインボトルを片手に呆れたように息を吐く。


「本当、その華奢な体格のどこにそんな技術が隠されてるわけ? 清楚なお嬢様のフリして、裏では一切の無駄なく人の壊し方をトレースしてるなんて誰が信じるかしら」

「澪さん。周りが勝手に決めた私の理想像に何の意味があるんですか?」

声音には、どこまでも平坦な虚無が混ざっていた。

「おいおい、やめとけって澪」

紗奈の肌を刺すような殺気の変化を敏感に察知し、洸樹が慌てて止めに入る。

そこへ、エリアの奥から重厚な足音が近づいてきた。


「お前たち無駄口を叩いている暇があるなら、身体を動かせ」

低く響いた声に、空気が張り詰める。

「げっ。梶リーダー。これ小休憩っすよ」

「洸樹。俺が直々に鍛え直してやろうか?」

「すみませんでした」

 即座に背筋を伸ばす洸樹を横目に、紗奈は静かにシャツの袖を折った。

「梶さん。私と組んでください。洸樹は真面目に相手をしてくれないので」

「いいだろう。──来い、紗奈」

梶の低く、一切の情を排した声がエリアに響く。再び冷徹な「刃」の構えに戻る紗奈の横顔を、洸樹は床に座り込んだまま、じっと見つめていた。


 学校では、おっとりした令嬢を演じる少女。 だがここでは、一切の無駄なく人を壊すSF(先鋭メンバー)になる。


汗に濡れた前髪の隙間から覗く、凍てついた瞳。白シャツの下に覗く、漆黒の薄型防弾チョッキ。命を護るための重々しい装備と、あまりにも華奢な少女の輪郭──その危うい均衡が、洸樹の呼吸を乱していた。

組み合った瞬間に手のひらから伝わってきた、彼女の線の細い熱を思い出し、洸樹は小さく奥歯を噛み締める。  

だが、紗奈の視界に映るのは、ここにはいない城瀬透也だけだ。彼女の瞳には、最初から透也以外の男など映る余地すら残されていない。

二人の間には、他者の侵入を一切許さない、歪で閉鎖的な空気が横たわっている。

洸樹は、それを嫌というほど理解していた。


(……だから、せめて“兄貴分”でいろ)

心の中でそう強く言い聞かせなければ、今すぐその白い頬に触れてしまいそうになる──自分の中に芽生えかけた、分不相応な執着に呑まれそうだった。

「……はぁ。そりゃ、紗奈の眼中にも入らないわけだわ。良かったわね、紗奈が同僚で」

澪は、酷く憐みの混ざった目で洸樹を見た。

(同僚じゃなかったら、口も聞いてもらえなかったでしょうね)という辛辣な言葉を、澪はかろうじてプロテインと一緒に飲み込む。

「なっ、なんだよそれ!」

(──なんで俺が紗奈のこと気になってること、ばれてんだよっ!)

思わず上がった洸樹の大きな声に、リング中央で再び対峙した二人が、冷ややかに彼をねめつける。

「……洸樹。私語を慎め」

梶の鋭い一喝に、洸樹は「ひえっ」と肩を竦めた。


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