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 王立魔法学園の教頭による国宝窃盗事件、および本庁地下牢での不審死事件から数日が経過した。


 王都警視庁の地下にある特命資料室の重厚な鉄扉が、今朝はひどく軽快なノックの音と共に開かれた。


「王室御用達・高級菓子店『銀の砂糖亭』からのお届け物です!」


 やってきた配達員が台車に乗せて運び込んできたのは、高く積まれた幾つもの豪奢な化粧箱だった。

 箱には王室の紋章が誇らしげに輝いており、中からは芳醇なアーモンドとバター、そして甘い果実の香りが漂ってくる。


「……ついに来ましたね。俺の正当なる労働対価が」


 ソファーで書類の山に埋もれていたレオンが、死んだ魚のようだった目をカッと見開いて立ち上がった。


 学園長からの事件解決の報酬。

 約束通りに手配された『高級マカロン一生涯無料パスポート』の、記念すべき第一回目の定期配送便である。


「す、すごいですわね……。箱の中、全部マカロンですの?」


 セシリアが目を丸くして化粧箱の蓋を開けると、そこには宝石箱のように色鮮やかなマカロンが、信じられないほどの数で敷き詰められていた。

 フランボワーズ、ピスタチオ、ショコラ、シトロン。王都の貴族たちでさえ、特別な日にしか口にできない最高級の品だ。


「お嬢様、これ全部食べたら間違いなく太るニャ……」


 ルナが尻尾を垂らして呟くが、レオンはすでに一番大きな箱を抱え込み、いつもの定位置であるソファーへと沈み込んでいた。


「カロリーとはすなわち、脳を駆動させるための絶対的なエネルギー源です。太るという概念は、運動量と基礎代謝の計算式が破綻している素人が気にするノイズに過ぎません」


 レオンは気怠げな声で理屈をこねながら、鮮やかなピンク色のフランボワーズのマカロンをヒョイと口に放り込んだ。


 サクッ、という軽快な音の後に、濃厚な甘さが彼の口内に広がる。

 ここ数日、教頭の死体の検死と成分分析で徹夜続きだった彼の顔に、みるみると生気が戻っていく。


「……素晴らしい。糖度、食感、香りのバランス。すべてが黄金比で構成されている。この一口で、俺の失われた脳細胞が数万個単位で再生していくのを感じます」


「大袈裟ですわね。でも、あなたが少しは元気になってくれて安心しましたわ」


 セシリアはふっと微笑むと、キッチンから淹れたてのダージリンティーを運んできて、レオンの前のローテーブルに置いた。


 事件解決後、彼女の公爵家からの「勘当取り消し」の申し出は正式に特命資料室レオンによって握り潰され、セシリアは名実ともにこの地下室の「専属助手」として働き続けている。


「……セシリア。少しこちらへ」


 ソファーに深く腰掛けたまま、レオンが手招きをした。


「なんですの? お茶ならそこに置きましたわよ」


 セシリアが不思議そうに身をかがめて顔を近づけた、その瞬間。


「あーん、してください」


「……へ?」


 セシリアが間抜けな声を出して少し口を開いた隙を突き、レオンは自分の手に持っていたピスタチオのマカロンを、ポイッと無造作に彼女の口の中へと放り込んだのだ。


「むぐっ!?」


「……っ!?」


 突然口内に侵入してきた極上の甘さと、レオンの指先が微かに唇に触れた感触に、セシリアは目を白黒させた。


「レ、レ、レオン!? あなた、何を急に……っ!」


「咀嚼してください。君もここ数日、俺の無茶な要求に応えて、脳のデータベース(記憶)をフル回転させていたでしょう。君の脳が糖分不足でクラッシュしたら、俺の書類のファイリングが滞って非常に困るんです」


 レオンは相変わらずロマンチックの欠片もない、極めて合理的な『インフラのメンテナンス』としての理屈を平然と並べ立てた。


「だからといって! 人の口に直接お菓子を放り込むなんて、は、はは、はしたないですわ! 令嬢に対する扱いではありません!」


 セシリアは顔を耳の先まで茹でダコのように真っ赤に染め上げ、口の中のマカロンを必死にモグモグと咀嚼しながら抗議した。

 だが、その美味しさと、彼から「直接食べさせてもらった」という破壊的な事実が、彼女の心拍数を危険な領域まで跳ね上げさせている。


「はしたない? 手に持たせるタイムロスを省き、ダイレクトにカロリーを摂取させた極めて効率的なアプローチですが。……それに、君のその赤い顔を見る限り、血流も良くなって副交感神経も刺激されているようだ。完璧な疲労回復メソッドですね」


「このっ、絶望的な朴念仁!! デリカシーという言葉を辞書で百回引いてきなさい!」


「お嬢様に何するニャァァッ!! このセクハラ変態公務員! 今すぐその指を切り落とすニャ!」


 ルナが激怒して箒を振り回し、レオンがそれを気怠げに片手で躱す。


 特命資料室に響き渡る、いつも通りの騒がしくも平和な、甘いティータイムの光景。

 マリアの陰謀も、学園のテロ未遂も、すべてが過去のものとなり、平穏な日常が戻ってきたかのように見えた。


 だが。

 セシリアが怒りながらふと部屋の奥に視線をやった時、彼女の表情は一瞬にして凍りついた。


「……レオン。これ、は」


 セシリアの視線の先。

 特命資料室の壁一面を覆う巨大な黒板には、隙間もないほどにびっしりと、複雑な地図と数式が書き殴られていた。


 それは、セシリアの『映像記憶』から引き出した王都の地下水路の構造マップに、レオンが独自の『魔力波長のスペクトル分析』のデータを重ね合わせた、巨大な相関図だった。


「気づきましたか」


 レオンはソファーから立ち上がり、マカロンの甘さが完全に消え去った、冷徹な犯罪心理学者の顔で黒板の前に立った。


「この数日間、俺が教頭の死体の解剖と並行して進めていた分析結果です。教頭が落とした『黒い魔石』が受信していた魔力波の周波数と、王都の地下水脈の構造……その二つを照らし合わせた結果、一つの恐るべき『終着点』が浮かび上がりました」


 レオンはチョークを手に取り、黒板の中央に描かれた巨大な施設を丸で囲んだ。


「王都の中枢、第一浄水施設。そして、それに隣接する王宮の一部。……黒い魔石に指令を送っていた『親機』の魔力波長は、間違いなくこのエリアから発信されています」


「第一浄水施設……王都のすべての民衆と貴族の飲み水を管理している場所ですわね。そこに、盗まれた国宝『星の涙』が持ち込まれていると?」


 セシリアがゴクリと唾を呑み込む。


「ええ。教頭の裏帳簿にあった『大いなる浄化』という言葉。彼らは、あの超高密度の魔力結晶体である国宝を動力源にして、大規模な『精神干渉薬(洗脳薬)』を精製し、王都の水道管に直接流し込む気です」


 レオンの言葉が、地下室の空気を氷点下まで冷え込ませた。


「もしそれが実行されれば、水を飲んだ王都の数百万人の人間が、一瞬にして組織の操り人形と化す。権力者も、騎士団も、すべてが彼らの意のままになる」


「なんて恐ろしい……。教頭の地下牢での毒殺も、警察の捜査の手がその浄水施設に及ぶ前に、完全に口を封じるためだったのですね」


「そういうことです。警察内部の地下牢にまで毒を仕込めるほどの権力と財力。そして国宝の魔力を完全に制御できるだけの、圧倒的な魔法の知識を持った存在」


 レオンは黒板の隅に書かれた『第一魔法卿』という文字を、チョークで強く叩いた。


「敵は、王国の最高権力の中枢にいる。もはや警察という組織の枠組みだけで対抗できる相手ではありません」


「……どうしますの、レオン。すぐにでも浄水施設に乗り込みますか?」


 セシリアが、真剣な琥珀色の瞳でレオンを見つめる。

 相手は国家のトップに君臨する巨大な陰謀だ。平民のモブ捜査官と勘当された悪役令嬢、そして獣人のメイドというたった三人の特命資料室が立ち向かうには、あまりにも絶望的な戦力差である。


 だが、レオンは伊達眼鏡のブリッジを押し上げ、静かに首を横に振った。


「いいえ。闇雲に突入しても、最高レベルの結界と私兵に阻まれて蜂の巣にされるだけです。それに、敵の計画が実行されるまでには、まだ少しだけ『時間』があります」


 レオンは黒板に天文学の軌道計算式を描き足した。


「国宝の莫大な魔力を増幅し、王都全域に拡散させるためには、惑星の引力と魔力場が完全に同調する天体配置が必要です。俺の計算と過去の気象データが正しければ、その条件が揃うのは……一ヶ月後に訪れる『皆既日食』のタイミングだ」


「一ヶ月後……。それが、王都が乗っ取られるタイムリミットというわけですのね」


「ええ。それまでの間、俺たちはこの地下室で徹底的に準備を整えます。奴らの計画の綻びを探し出し、結界を物理的に破壊する装備を整え、最強のカウンターを用意しなければならない」


 レオンは黒いコートを羽織り、積まれたマカロンの箱を軽く叩いた。


「この甘い燃料が尽きる頃には、国家を乗っ取ろうとする害虫を論理的に駆除する準備が整うはずです。ここからしばらくは、激務になりますよ、助手さん」


「……ええ。どこまでも付き合って差し上げますわ、この不良債権。私たちのファクトで、最高権力の嘘を必ず暴いてみせましょう」


 セシリアもまた、誇り高き悪役令嬢の笑みを浮かべ、彼の隣に並び立った。


 科学と論理の刃が、ついに王国の最高権力の闇へと向けられた瞬間。

 決戦までの猶予は一ヶ月。嵐の前の静かな準備期間が始まろうとしていた。


 ***


 時を同じくして。

 王都の喧騒を遥か眼下に見下ろす、王宮の最深部――空に最も近いバルコニーに、一人の男が立っていた。


 豪奢な法衣に身を包み、周囲の空間そのものを歪ませるほどの、圧倒的で禍々しい魔力のオーラを放つ男。

 王国の魔法省を束ねる最高権力者、『第一魔法卿』である。


「……フ、フフフッ。美しい。この腐りきった王都の夜景も、一ヶ月後にはすべて私の思い通りに生まれ変わるのだ」


 彼の右手には、青白く、そして時にどす黒く脈打つ巨大な魔力結晶体――盗まれた国宝『星の涙』が握られていた。


「愚かな人間どもよ。感情に流され、非論理的な争いを繰り返す脆弱な生き物たちよ。私が、絶対的な『秩序』という名のシナリオを与えてやろう」


 第一魔法卿は国宝を高く掲げ、一ヶ月後に訪れる皆既日食の空に思いを馳せた。


「太陽の光が完全に遮られ、地上の魔力が最も陰に傾くその時。星の涙の力が極限まで高まるその瞬間に、王都のすべての水路は『浄化の薬』で満たされる」


 彼の瞳には、マリアや教頭とは次元の違う、神にでも成り代わろうとする純粋で狂気的な『支配欲』が渦巻いていた。


「せいぜい足掻くがいい、特命資料室の虫ケラども。皆既日食までのわずかな猶予、束の間の日常を楽しむことだ。絶対的な魔法の力の前では、お前たちの小賢しい理屈など、何の意味もなさないことを教えてやろう」


 夜風が彼の法衣を激しく揺らす。

 王都を滅亡の危機に陥れる、史上最大の精神干渉テロ。

 その引き金が引かれるまで、静かな秒読みが始まった。


 平民の捜査官と悪役令嬢のバディが挑む、科学と魔法の最終決戦。

 本当の絶望のシナリオが幕を開ける前の、最後の静寂(幕間)が訪れようとしていた。


【第一部・完】


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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