29
王都警視庁本庁舎の最深部に位置する、第零区画。
ここは王都で最も凶悪な犯罪者を収容するための特別な地下牢であり、壁も床もすべて魔法を無効化する『封魔の石』で造られている。
外部からの魔法干渉を一切遮断し、内部からの魔法の発動も完全に封じる、絶対的な物理的・魔術的密室であった。
鉄格子と分厚い防音ガラスで仕切られた面会室の奥。
椅子に手錠で縛り付けられた学園の教頭は、昨日までの威厳ある姿が嘘のように憔悴しきっていた。
だが、その窪んだ目には、未だに狂信的な光が宿っている。
「……現在時刻、午前九時。取り調べを開始します」
分厚いガラス越しのマイクに向かって、レオンが淡々とした声で告げた。
その隣には、バインダーを手にしたセシリアが、氷のように冷ややかな視線を教頭に向けて立っている。
「教頭。あなたが学園の地下で闇組織と取引を行っていたことは、裏帳簿と数々の物理的ファクトによって完全に立証されています。これ以上の黙秘は、あなたの量刑を重くするだけですよ」
レオンの言葉に、教頭は血の気のない唇を歪め、不気味な笑い声を漏らした。
「フ……フフフッ。量刑だと? 愚かな。この国そのものが間もなく『浄化』されるというのに、人間の作った法などに何の意味がある」
教頭は虚ろな目で天井を見上げ、うわ言のように呟き始めた。
「星の涙はすでに『あのお方』の元にある。すべては計画通りだ。私という小さな犠牲など、大いなるうねりの中では塵に等しい……」
「あのお方、とは誰のことですの?」
セシリアがマイク越しに鋭く問い詰める。
「盗まれた国宝をどこへやったのか。この王都で、一体何を企んでいるのか。洗いざらい吐きなさい!」
「……教えてやろうか、生意気な小娘」
教頭が首をギギギと不自然な角度で曲げ、セシリアを睨みつけた。
「あのお方は、この腐りきった王都のすべてを清めるおつもりだ。上層部も、民衆も、お前たちのような目障りな虫ケラどもも、すべてを等しく……ッ!?」
その時だった。
教頭の言葉が、唐突に途切れた。
「教、頭……?」
セシリアが怪訝に眉をひそめる。
「ガ、アァァ……ッ!! ゴバッ……!!」
教頭の目が見開き、眼球が白目を剥いて裏返った。
そして、彼が大きく口を開けた瞬間、ドス黒い鮮血が、噴水のように勢いよく吐き出されたのだ。
「なっ……!?」
「ガハッ……ヒュ……ッ!」
教頭は椅子に縛り付けられたまま激しく痙攣し、目、鼻、耳という顔中のあらゆる穴から血を流し始めた。
手錠がガチャガチャと狂ったように鳴り響き、防音ガラスの向こう側が、瞬く間に地獄絵図と化す。
「お、おい! どうした! 中で何が起きている!」
見張りに立っていた制服警官たちがパニックになり、慌てて牢の鍵を開けようとする。
「待て! 中に入るな!」
レオンの制止も虚しく、警官が扉を開けて牢の中へ飛び込んだ。
だが、警官が駆け寄った時には、教頭の体はピクリとも動かなくなっていた。
その顔は苦痛に歪み、口の周りは吐き出した大量の血と泡でまみれている。
「し、死んでいる……っ!」
警官が青ざめた顔で振り返り、悲鳴のような声を上げた。
「ば、馬鹿な! この第零区画は、結界で完全に外界から遮断されているんだぞ! 食事もまだ出していないし、服毒自殺なんて絶対に不可能だ!」
「呪殺だ……! 外部から、恐ろしい高位魔法で呪い殺されたんだ!」
警官たちが恐怖に駆られ、見えない敵に怯えて後ずさる。
『完全な魔法の密室』での、不審すぎる突然死。
誰もが、正体不明の恐るべき魔法使いによる遠隔呪殺だと信じて疑わなかった。
「……セシリア」
騒然とする面会室の中で、レオンは冷徹な声を発した。
「え、ええ……っ。レオン、これは一体……」
教頭の凄惨な死に様に息を呑んでいたセシリアが、震える声でレオンを見上げる。
その瞬間、レオンの大きな手が、彼女の顔を横から包み込むように塞ぎ、自分の胸元へと強引に引き寄せた。
「ひゃっ……!? レ、レオン!?」
視界を完全にレオンの手とコートで塞がれ、セシリアは暗闇の中でパニックになりかける。
「見ないでください。後ろを向いて、俺のコートの背中でも掴んでいなさい」
レオンはセシリアの視線を死体から物理的に遮断したまま、いつもの平坦な、しかしどこか早口な声で言い含めた。
「君の『映像記憶』は、見たものを写真のように脳に刻み込んでしまう。こんな凄惨な死体のノイズデータを、君の美しい記憶のデータベースに保存させるわけにはいきません」
「ノ、ノイズデータって……っ」
「いいから、俺が『よし』と言うまで絶対に振り向かないこと。これは業務命令です。俺のインフラ設備にトラウマというバグが発生したら困りますからね」
レオンは相変わらずデリカシーのない理屈で彼女を壁際に立たせると、ようやく死体の方へと向き直った。
だが、セシリアの心臓は、死体の恐怖よりも、先ほど顔を覆われた彼の手の温もりと、不器用すぎる過保護な『気遣い』のせいで、早鐘のように打ち鳴らされていた。
「さて……。騒ぐのはやめなさい、本庁の皆さん」
レオンは懐からゴム手袋を取り出してはめながら、パニックに陥る警官たちの間を縫って、教頭の死体へと歩み寄った。
「呪殺? 魔法の遠隔攻撃? 非論理的ですね。この封魔の石の密室を貫通する魔法など、物理的に存在しません」
「だ、だが! 現に彼は急死した! 毒を飲む隙などなかったはずだ!」
「隙なら、いくらでもありましたよ。……数日前からね」
レオンは死体の顔を無造作に掴み、無理やり口をこじ開けた。
そして、吐き出された血液と胃液の混ざった匂いを、直接鼻を近づけて嗅ぐ。
「……特有の、アーモンドのような苦い匂い。そして、この急激なチアノーゼ(皮膚の青紫色の変色)。青酸系化合物の特徴ですが、何か別の成分が混ざっている」
レオンの目が、法医学者の冷たい光を放つ。
「死因は魔法による呪殺ではありません。極めて科学的で、そして恐ろしく計算し尽くされた『毒殺』です」
「ど、毒殺だと!? しかし、彼は逮捕されてから本庁の厳重な監視下に置かれていた! 誰がいつ毒を盛ったというんだ!」
警官が食ってかかるが、レオンは死体から手を離し、手袋を外してゴミ箱へ捨てた。
「逮捕された後ではありません。逮捕される『前』ですよ」
レオンの言葉に、警官たちは目を丸くした。
壁際に背を向けて立っていたセシリアも、思わず振り返りそうになるのを我慢して耳を澄ませる。
「教頭は数日前、おそらく国宝を組織に引き渡した際か、密会をした時に、すでに『毒』を飲まされていたんです。栄養剤か、あるいは組織への忠誠を誓うための儀式の杯とでも偽られてね」
「数日前だと? ならば、なぜ今になって突然死んだのだ!」
「『遅効性のマイクロカプセル』です」
レオンは懐からメモ帳を取り出し、図解を描いて見せた。
「毒の成分を、特殊なポリマー(高分子化合物)の被膜で何重にもコーティングしてカプセル化する。この被膜は、胃酸では溶けず、人間の腸内にある特定の『消化酵素』にのみ反応して、一定の時間をかけてゆっくりと分解されるように設計されている」
レオンの口から飛び出す、この魔法世界には存在しないはずの高度な科学用語に、警官たちはポカンと口を開けている。
「例えば、コーティングの厚みを調整することで、『飲んでから正確に七十二時間後』にカプセルが溶け、中の劇毒が腸から血中に一気に放出されるように時限設定を組み込むことができる。……前世のドラッグデリバリーシステムの応用ですね」
レオンの冷酷な説明が、地下牢の空気を凍りつかせた。
つまり、組織は最初から教頭を切り捨てる気だったのだ。
もし彼が警察に捕まり、尋問にかけられる事態に陥ったとしても、自白する前に『体内にある時限爆弾』が作動し、自動的に口封じが完了するように。
「なんて恐ろしい……。彼は自分が殺される薬を、それとは知らずに飲まされていたというのですか」
壁際に立ったまま、セシリアが震える声で呟いた。
「ええ。魔法の呪殺などよりも、よほどタチが悪く、確実な暗殺手法です。魔法の探知にも引っかからず、結界も意味を成さない。……敵の黒幕は、人間の消化器官のメカニズムと、化学合成の知識を完全に熟知している」
レオンはメモ帳をパタンと閉じ、天井を見上げた。
「この王都で、これほど高度な化学兵器を密かに開発し、運用できる施設と知識を持った組織。それは、裏社会のチンピラなどでは絶対に不可能だ」
レオンの脳裏で、これまでのすべての事件が一本の線で繋がっていく。
マリアが使った洗脳薬。
闇市に流れる違法鉱石。
国宝の窃盗。
そして、この高度な遅効性毒殺。
「……敵は、王国の最高権力の中枢にいます。国家予算レベルの資金と、魔法省の技術研究施設を私物化できるほどの、圧倒的な権力を持った存在が、このテロを指揮している」
レオンの断言に、警官たちは青ざめ、誰も一言も発することができなかった。
学園の教頭という大物を、ただのトカゲの尻尾切りとして容易く毒殺できる相手。
自分たちは今、王国の歴史上最も巨大で、最も危険な陰謀の深淵を覗き込んでしまったのだ。
「レオン……」
「……もう振り返っても大丈夫ですよ、セシリア。死体には布をかけさせました」
レオンの許可が出て、セシリアがゆっくりと振り返る。
彼女の目は、教頭の死へのショックよりも、目の前に立ちはだかる巨大な見えない敵に対する、強い警戒の色を帯びていた。
「どうやら、俺たちの一生分のマカロンの代償は、とてつもなく高くつきそうですね」
レオンが気怠げにため息をつく。
「後悔していますの?」
「まさか。相手がどれほど強大な権力を持っていようと、俺の労働環境を脅かし、俺の優秀な助手に毒を向ける可能性のある害虫は、すべて論理的に駆除するだけです」
レオンは伊達眼鏡の奥の瞳に、決して揺るがない絶対的な自信と、冷徹な闘志を宿していた。
「本庁の皆さん、死体の解剖と胃内容物の分析の手配を。……さあ、セシリア。特命資料室に帰りますよ。ここからが、本当の『残業』の始まりです」
「ええ。どこまでも付き合って差し上げますわ、私の無鉄砲な上司殿」
二人は教頭の死体が転がる地下牢を後にし、足早に廊下を歩き出した。
魔法の密室で起きた、完全なる科学的毒殺。
教頭の死は、王都全域を巻き込む巨大なテロの、ほんの序章に過ぎなかった。
警察権力すら及ばない強大な黒幕へと立ち向かうため、特命資料室のバディは、科学と論理という最大の武器を手に、次なる戦いの準備へと取り掛かるのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。
次回お楽しみに。




