幕間
王都を揺るがす巨大な陰謀が動き出してから、数日が過ぎた。
深夜二時。
王都警視庁の地下にある特命資料室は、分厚い鉄扉によって外界の音から完全に切り離され、シンとした静寂に包まれていた。
普段なら獣人のメイドであるルナが奥の小部屋で寝息を立てている時間だが、彼女は現在、情報収集のために王都の裏社会(夜の街)へと潜入捜査に出ている。
そのため、この薄暗い地下室には今、レオンとセシリアの二人きりだった。
「……計算式に〇・二パーセントの誤差がありますね。これでは広域散布の際、風圧で中和剤の粒子が相殺されてしまう。流体力学のパラメーターから見直しだ」
部屋の中央にある作業机。
レオンはスリーピーススーツのジャケットを脱ぎ捨て、ベストのボタンも外し、ネクタイを緩めきっただらしない姿で、羊皮紙の図面と睨み合っていた。
彼が徹夜で書き上げているのは、一ヶ月後の皆既日食の日に、第一魔法卿の魔法を物理的に打ち破るための『対魔法用・科学装備』の設計図だ。
極低温の吸熱反応を引き起こす特殊弾や、広域中和剤を散布する機械の構造。この魔法世界には存在しない概念を、錬金術の素材でどうにか代用・実現させるための、途方もない計算作業である。
「……レオン。少し、休憩になさいな」
カリカリという羽ペンの音だけが響く部屋に、ふわりと甘いダージリンティーの香りが漂ってきた。
セシリアが、銀のトレイにお茶と、先日届いた高級マカロンの残りを乗せて歩み寄ってくる。
「……現在時刻、午前二時十五分。君の睡眠時間を削ってまで、俺のインフラ設備であるデータベースに負担をかけるわけにはいきません。先に休んでいてください」
レオンは図面から目を離さず、目の下に濃い隈を作ったまま気怠げに答えた。
「私が休んだところで、あなたが倒れてしまっては元も子もありませんわ。ほら、温かいうちに飲んでくださいませ」
セシリアは半ば強引に、図面の横にティーカップとマカロンの皿を置いた。
その強気な態度とは裏腹に、彼女の視線はレオンの疲労しきった横顔を痛ましそうに見つめていた。
国家の最高権力という絶望的な敵を前にして、平民のモブ捜査官である彼が、自分たちを守るためにどれほど無茶な激務をこなしているか、隣にいるセシリアが一番よくわかっているのだ。
「……ありがとうございます。確かに、血中のブドウ糖濃度が極限まで低下し、脳のニューロンの結合が鈍っていました」
レオンは観念したようにペンを置き、マカロンを一つ口に放り込んでから、紅茶を一口啜った。
「……ふう」
温かく甘い液体が胃の腑に落ちていくのを感じ、レオンはソファーの背もたれに深く体を預け、長い息を吐いた。
「美味しいですか?」
「ええ。君の淹れる紅茶は、抽出時間と温度管理が常に完璧に一定している。俺の乱れた自律神経を整えるのに最適な処方箋です」
相変わらずのロマンチックの欠片もない理屈だったが、その声は普段よりもずっと穏やかで、棘がなかった。
セシリアも自身のカップを手に取り、レオンの向かい側のソファーに静かに腰を下ろした。
時計の針が時を刻む音と、二人の静かな呼吸だけが、地下室の夜の空気に溶けていく。
「……魔法なんてなくても」
不意に、レオンが薄暗い天井を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「え?」
「俺がかつて知っていた……ある場所では、魔法なんていう非論理的なオカルトは存在しなかった」
レオンの黒い瞳が、遠い過去――この世界ではない『前世の現代社会』の光景を思い描くように、微かに細められた。
「魔法がなくても、人間は流体力学とベルヌーイの定理を用いて、鉄の塊で空を飛んだ。電子を捕まえて、魔法のランタンよりもずっと明るい光で夜を真昼のように照らし出した。科学と論理の力で、人間は神の領域にすら物理的に到達しようとしていたんです」
「……鉄の塊で、空を? そんな国が、どこかにあるんですの?」
セシリアが目を丸くする。
王立魔法学園のトップの成績を誇った彼女でさえ、聞いたこともない御伽噺のような話だった。
「ええ。ですが、科学がどれほど発展して世界が便利になっても、絶対に計算式で解けないものがありました」
レオンは視線を天井から下ろし、自身の両手を見つめた。
「人間の『悪意』です。どんなに監視システムが発達しても、どんなに豊かな社会になっても、他者を陥れ、奪い、傷つける犯罪は決してなくならなかった。人間の感情というバグだけは、論理で完全に制御することはできなかったんです」
その言葉の奥に、かつて彼が前世の警察組織で見てきた、数多の理不尽な死や悪意の残骸に対する、深い虚無感が滲んでいた。
「……だから、俺は事実だけを信じることにしたんです」
レオンはゆっくりと顔を上げ、セシリアの琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「感情は嘘をつく。魔法は認知を歪める。だが、物理法則と科学的証拠だけは、決して揺るがない絶対的な真実だ。……俺は、その揺るぎない真実だけを武器にして、この非論理的な世界の悪意を論破してやりたいんですよ」
彼がなぜ、これほどまでに理屈っぽく、デリカシーに欠け、そして誰よりも真摯に事件と向き合うのか。
その根底にある「孤独な哲学」に触れ、セシリアの胸の奥がキュッと締め付けられた。
彼が語る『かつていた場所』がどこなのか、彼女にはわからない。
だが、彼が抱えている孤独と、不器用すぎる優しさは、痛いほどに伝わってきた。
「……どこのお伽噺かは存じませんが、とても素敵な国ですわね」
セシリアはティーカップを両手で包み込み、悪役令嬢としての仮面を外し、ただの一人の少女として、心からの微笑みを向けた。
「人間の悪意が計算できないのは、この世界でも同じですわ。マリアも、教頭も。……ですが、私は今のあなたの論理を信じています」
セシリアの美しく透き通るような声が、夜の静寂に響く。
「あなたがファクトを追い求める限り、私はあなたの『優秀なデータベース』として、どこまでも付き合って差し上げますわ。だから……たった一人で世界を背負い込もうなんて、思わないでくださいませ」
それは、彼女なりの最大限の肯定であり、不器用な上司への深い愛情の裏返しだった。
「……」
レオンは少しだけ目を瞬かせ、やがて、困ったように微かに口角を上げた。
「……本当に、君という人は。俺の計算式を容易く狂わせてくる」
レオンの瞼が、重力に負けるようにゆっくりと落ちていく。
極限の疲労感と、セシリアの言葉による絶対的な安心感が、張り詰めていた彼の交感神経を一気にオフへと切り替えたのだ。
「……三十パーセント。計算式の修正は、明日の朝に……」
うわ言のように呟きながら、レオンはソファーの背もたれに体を預けたまま、静かに寝息を立て始めた。
「レオン?」
セシリアが小声で呼びかけても、返事はない。完全に深い眠りに落ちてしまっている。
「……もう。本当に、無理ばかりして」
セシリアは小さく息を吐き、自分のカップをテーブルに置いた。
そして、少し肌寒い地下室の空気を気遣い、自分が羽織っていたカシミアのショールをふわりと外し、レオンの肩にそっと掛けた。
「おやすみなさいませ、私の優秀な上司殿」
彼を起こさないように、爪先立ちでその場を離れようと、セシリアが背を向けた、その瞬間だった。
ガシッ。
「……ひゃっ!?」
不意に、セシリアの右の手首が、強い力で掴み止められた。
驚いて振り返ると、眠っているはずのレオンの大きな手が、彼女の細い手首をしっかりと握りしめていたのだ。
「レ、レオン……? 起きているんですの?」
セシリアが小声で尋ねるが、レオンの目は閉じられたままだ。
だが、その手はセシリアの手首から指先へと滑るように移動し、彼女の小さな手を、自分の大きな掌で完全に包み込んで、ギュッと指を絡め合わせてきた。
いわゆる『恋人繋ぎ』のような状態だ。
「〜〜〜〜ッ!!?」
セシリアの顔が、瞬時に沸騰したヤカンのように真っ赤に染まり上がった。
「ちょっ、れ、レオン!? 手、手が……!」
セシリアが慌てて引き抜こうとするが、大人の男の握力には到底敵わない。
しかも、彼は完全に無意識の睡眠状態でありながら、セシリアの手を自分の胸元……ちょうど心臓の鼓動が伝わる位置へと引き寄せ、抱き込むようにしてしまったのだ。
「……最適な、温度……。熱伝導率が……維持されている……」
寝言でさえも、ロマンチックの欠片もない理屈を呟いている。
先日、彼が疲労で仮眠をとった際に、セシリアの手を湯たんぽ代わりに握ったことを、彼の脳が『最適な疲労回復メソッド』として無意識に実行しているのだ。
「こ、のっ……! 絶望的な朴念仁! 寝ている時までセクハラをするなんて、どういう神経をしていますの!?」
セシリアは顔から火が出るほどの羞恥に襲われながら、彼の寝顔に向かって小声で抗議した。
だが、彼の手から伝わる心地よい温もりと、一定のリズムで打つ心音が、セシリアの抵抗する気力を徐々に奪っていく。
(……ズルいですわ、本当に)
繋がれた手から逃げることを諦め、セシリアはソファーの肘掛けにそっと腰を下ろした。
至近距離にある彼の寝顔は、普段の気怠げで皮肉屋な捜査官の顔とは違い、年相応の青年らしい無防備さに満ちていた。
「……一ヶ月後の皆既日食。必ず、あの教頭たちの陰謀を止めましょうね」
セシリアは空いている方の手で、レオンの額にかかったボサボサの黒髪を、そっと優しく撫でた。
「私が、あなたの背中を完璧に守ってみせますわ」
深夜の特命資料室。
国家の存亡をかけた巨大な戦いを前にした、嵐の前の静けさ。
二人の間にあるのは、魔法の強制力でもシナリオでもない、共に戦い、共に事実を積み重ねてきた確かな『絆』だった。
繋がれた手の熱が、冷たい地下室の空気をどこまでも甘く溶かしていく。
セシリアの心臓の高鳴りが収まることは、この夜が明けるまで決してなかった。
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次回お楽しみに。




