25
王立魔法学園の地下深く、忘れられた旧水路の迷宮。
凶悪な物理トラップを抜け、レオンが自らの血を代償にして安全を確保したその先に、重厚な鉄格子の扉が不気味に沈黙していた。
「……ルナ。この奥から、人間の気配はしますか」
レオンが血で汚れた左腕を軽く庇いながら、小声で尋ねる。
ルナは鉄格子に鼻を近づけ、周囲の空気を深く吸い込んだ。
「しないニャ。マンドラゴラや古い金属の匂いは充満してるけど、生き物の匂いや足音は完全に絶えてる。今は誰もいないはずニャ」
「了解しました。では、少しお邪魔させてもらいましょうか」
レオンは右手だけで懐から細い金属製のピックを取り出し、鉄格子の巨大な南京錠の鍵穴へと差し込んだ。
「レ、レオン。左腕がまだ痛むのでしょう? ピッキングくらい、私やルナが……」
セシリアが心配そうにレオンの腕を覗き込む。
ルナの回復薬のおかげで傷は塞がっているが、失った血液と破れたスーツの痛々しさは残ったままだ。
「不要です。鍵の構造の把握とシリンダーの回転には、指先の極めて繊細な感覚が必要だ。俺の脳からの電気信号をダイレクトに伝えるこの右手の方が、圧倒的に速くて正確です」
カチャリ、カチッ。
レオンが器用にピックを操ると、数秒も経たないうちに重金属の錠が外れ、ガチャンという音と共に鉄格子が開かれた。
「相変わらず、鮮やかな手口ですわね。本職の泥棒が泣いて謝りますわよ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
三人はランタンの光を頼りに、鉄格子の奥の部屋へと足を踏み入れた。
そこは、かつて地下水路の管理室として使われていたであろう、広大な石造りの空間だった。
しかし、現在は無数の木箱や麻袋が乱雑に積み上げられ、薄暗い倉庫と化している。
「お嬢様、見てニャ。この木箱のマーク……王都の闇市で見た、あの怪しい商人のテントにあったマークと同じニャ」
ルナが一つの木箱を指差す。
その蓋を開けると、中には王都で厳しく流通が制限されている『空間歪曲鉱石』の粗悪な破片や、違法なポーションの瓶がぎっしりと詰まっていた。
「……やはり。マリアに違法薬物を流していた闇の組織の密輸ルートは、この学園の地下迷宮を経由していたんですのね」
セシリアが顔をしかめ、倉庫内を見渡す。
「生徒たちが安全に学ぶべき神聖な学園の地下が、犯罪組織の隠し倉庫に使われていたなんて。しかも、学園の結界の内側に……」
「灯台下暗し、というやつです。王宮や本庁の監視が厳しい市街地よりも、結界という絶対的な安全網がある学園の地下の方が、彼らにとっては都合のいい『聖域』だったのでしょう」
レオンはランタンを片手に、整然と並べられた木箱の間を歩き回り、ある一つの空の台座の前で立ち止まった。
そこには、他の粗雑な木箱とは明らかに違う、豪奢なベルベットの布が敷かれた小さなケースが開け放たれていた。
「ルナ。このケースから、何か匂いはしますか」
「……んん? すっごく純度の高い、澄んだ魔力の残り香みたいな匂いがするニャ。でも、その匂いの元はもうここにはないニャ」
「おそらく、ここに国宝『星の涙』が一時的に保管されていたのでしょう。学園の禁書庫から盗み出された後、一度この倉庫に運ばれ、そして……すでにどこかへ持ち出された後だ」
レオンの推測に、セシリアが悔しそうに唇を噛む。
「一足遅かったというわけですの……! 国宝を取り戻さなければ、あの一生分のマカロンの報酬が……」
「マカロンの心配は後回しです。星の涙が持ち出されたということは、犯人たちは次のフェーズに移行した証拠。ですが、焦る必要はありません」
レオンはケースの横に置かれていた、古びた木製の事務机に目を向けた。
机の上には、蝋燭の燃えカスと、何冊かの分厚い革張りの手帳が無造作に積まれている。
「どんなに狡猾な組織でも、必ず『記録』を残す。これだけの規模の密輸と国宝の窃盗を管理するには、人間の脳の記憶容量だけでは不可能ですからね」
レオンは引き出しを開け、その中から一冊の黒い手帳を取り出してページを捲った。
「……やはり。裏帳簿ですね。日付と、暗号化された品目、そして莫大な金額の動きが記録されています」
レオンがランタンの光を手帳に当てると、セシリアも横から身を乗り出して覗き込んだ。
「暗号化されていますわね。『白き砂が30』『黒の滴が50』……それに、この一番新しい日付の項目」
セシリアの細い指が、手帳の最後のページを指し示す。
「『星の落とし物、受領完了。大いなる浄化への供物とする』……。間違いありませんわ、国宝の窃盗記録です」
「ええ。そして最も重要なのは、このページの下部に書かれた『サイン』です」
レオンはルーペを取り出し、そのサインの筆跡を拡大して観察した。
サインは意図的に崩された文字で書かれており、一見しただけでは誰の名前か判別できないようになっている。
「偽名か、あるいは組織内のコードネームでしょう。ですが、人間の無意識の癖は、どんなに文字を崩しても完全に隠し通すことはできない」
レオンの瞳が、冷徹なプロファイラーの光を帯びる。
「文字の書き出しの強い筆圧。右上がりの極端なクセ。そして、『t』や『r』といった文字の跳ね上げ部分に見られる、特徴的なかすれ。これは、長年にわたって膨大な量の公文書や書類にサインをしてきた人間の、手に染み付いた職業的な筆跡です」
「つまり……この学園の内部にいる、それなりの地位を持った教職員ということですか?」
「その可能性が極めて高い。この学園の内部構造と結界の盲点を熟知し、地下の立入禁止区域を自由に操作でき、かつ組織と裏で取引ができる権限を持った人間……」
レオンは手帳をパタンと閉じ、セシリアの琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「セシリア。君の優秀な『映像記憶』のデータベースにアクセスします。君が学園に在籍していた頃から現在に至るまで、目にしたことのあるすべての教職員のサインや板書の筆跡を、俺が今挙げた特徴と照合(検索)してください」
「……」
セシリアは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
彼女の脳内で、膨大な記憶の引き出しが高速で開閉していく。
学園からの通知書、黒板に書かれた文字、回覧板のサイン、講師たちの採点の赤ペン……。
右上がりの強いクセ。
書き出しの鋭い筆圧。
特有の跳ね上げのかすれ。
それらの条件に完全に合致する『一つの筆跡』が、彼女の脳裏に鮮明に浮かび上がった。
「……見つけましたわ」
セシリアがゆっくりと目を開ける。
その瞳には、驚愕と、そして拭いようのない怒りの色が渦巻いていた。
「該当者は一名。……この学園のナンバー2。すべての教職員を束ね、学園長を補佐する立場にある……『教頭』ですわ」
その名前が口に出された瞬間、地下倉庫の冷たい空気がさらに一段階冷え込んだように感じられた。
「教頭、か。なるほど」
レオンは全く驚いた様子もなく、納得したように顎を撫でた。
「学園の予算管理、警備ゴーレムの巡回ルートの設定、そして旧棟の立ち入り禁止区域の管理。教頭の権限があれば、すべて裏で操作することが可能です。国宝が保管されていた禁書庫の結界の構造を、学園長から聞き出すことも容易だったはずだ」
「信じられませんわ……!」
セシリアが怒りで震える声で叫ぶ。
「教頭は、厳格で生徒思いの素晴らしい教育者だと評判でしたのよ! それが、裏では犯罪組織と結託し、あんな危険な薬品や爆弾にもなる国宝を、生徒たちの足元に隠していたなんて!」
かつて、彼女自身が『悪役令嬢』という濡れ衣を着せられ、学園から追放された時、冷酷に退学を言い渡したのもあの教頭だった。
「学園の風紀と安全を守るためだ」と、正義を振りかざして。
その裏で、彼自身が最も学園を汚し、危険に晒していたのだ。
「人間の表の顔ほど、当てにならないものはありません。特に、教育者という権威の皮を被ったサイコパスは、己の欲望を『大義』にすり替えるのが得意ですからね」
レオンは裏帳簿を証拠品として革のトランクに収め、パチンと留め具を閉めた。
「ですが、これで役者は揃いました。犯人は教頭。動機は組織との裏取引。そして証拠はこの裏帳簿と、彼の筆跡という絶対的な物理的ファクトです」
「……このまま本庁に報告して、教頭を逮捕しますの?」
セシリアの問いに、レオンは首を横に振った。
「いいえ。国宝『星の涙』の行方がまだわかっていません。帳簿に書かれていた『大いなる浄化への供物』という文言。組織は国宝を使って、王都規模の何か巨大なテロを引き起こそうとしている」
レオンの眼差しが、スリーピーススーツの左腕に滲む血の赤よりも冷酷に研ぎ澄まされる。
「教頭を単なる窃盗で逮捕するだけでは終わらせない。奴を公の場に引きずり出し、逃げ道のない論理で完全に包囲して、国宝の隠し場所と組織の目的をすべて吐かせます」
「公の場……?」
「ええ。明日、学園の大講堂で月に一度の全校集会が開かれますよね。教頭が全生徒の前で、偉そうに訓示を垂れる最高の舞台だ」
レオンは口角を吊り上げ、極悪人よりも恐ろしい、不敵な笑みを浮かべた。
「そこで、俺たちの特別講義の『実践編』を見せてやりますよ。権威を笠に着た悪党が、ファクトという暴力でどうやって社会的に抹殺されるのかをね」
「……ふふっ。本当に、性格の悪い上司ですこと」
セシリアもまた、先ほどまでの怒りを冷たい闘志へと変換し、悪役令嬢特有の美しくも残酷な笑みを浮かべた。
「ええ。ですが、最高に胸のすく舞台になりそうですわ。私の脳裏に刻まれたあの男の偽善の顔を、徹底的に剥がして差し上げましょう」
「お嬢様もレオンも、悪い顔してるニャ……。でも、私もあのクソ教頭の顔を引っ掻いてやる準備はできてるニャ!」
ルナが鋭い爪をシャキッと立てて見せる。
血と泥に汚れた地下の隠し倉庫で、特命資料室のバディは次なる反撃のシナリオを完璧に構築し終えた。
「さて、目的の証拠は手に入れました。長居は無用です、地上へ戻りましょう」
レオンが身を翻し、再び暗い通路へと歩き出そうとした時だった。
「……待ってニャ」
ルナの猫耳がピクッと動き、彼女の琥珀色の瞳が極限まで見開かれた。
「どうしました、ルナ」
「……匂いがするニャ。さっきまではなかった、強烈な腐敗臭みたいな……魔力の焦げる匂い。それに」
ルナが倉庫の入り口の鉄格子を振り返り、震える声で告げた。
「……足音ニャ。大勢の重い足音が、こっちに向かってきてるニャ!」
その直後、鉄格子の向こう側の暗闇から、松明の赤い光が無数に浮かび上がった。
「……ネズミが罠にかかったようだな」
通路に響き渡ったのは、低く、陰湿な男の声。
先ほどまで彼らが話題にしていた、学園のナンバー2――教頭その人の声だった。
彼の背後には、黒いローブを目深に被った組織の暗殺者たちが、鈍く光る刃を構えて無言で立ち並んでいる。
「教頭……!」
セシリアが息を呑む。
「まさか、本物のネズミが王都警視庁の特命資料室だとは思わなかったがね。結界を物理的に破るような真似をする輩は、お前たちくらいだろうと思っていたよ、レオン捜査官」
教頭は鉄格子の向こう側で、醜く歪んだ笑みを浮かべた。
「この倉庫の床には、微弱な魔力感知式の感圧板を仕掛けておいたのだ。誰かが侵入すれば、私の元へ直通で警報が届くようにな。……ご苦労だったね、そこで死んでくれたまえ」
教頭が杖を振り上げると同時に、暗殺者たちが一斉に鉄格子に向かって突進してきた。
さらに、教頭の杖の先から、緑色の不気味な煙――致死性の毒ガスが、倉庫内に向けてシューシューと噴出し始めたのだ。
「……チッ。逃げ道を塞がれた上に、毒ガス攻撃ですか。古典的ですが、殺意が高くて厄介ですね」
レオンは舌打ちをしながらも、全く慌てることなく、セシリアを背中に庇うようにして前に出た。
「レオン! 毒ガスが……!」
「息を止めてください、セシリア! ルナ、扉に近づくな!」
絶対絶命の地下密室。
国宝の行方と組織の陰謀を握る教頭との、血で血を洗う直接対決が、今まさに始まろうとしていた。
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次回お楽しみに。




