24
月明かりが分厚い雲に隠れた深夜。
王立魔法学園の敷地内は、静寂と深い暗闇に包まれていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った旧棟の廊下を、三つの影が音もなく進んでいく。
「……現在時刻、午前二時。学園の警備用ゴーレムの巡回ルートは、完全にやり過ごしました」
漆黒のコートを羽織ったレオンが、懐中時計をパチンと閉じて囁く。
その隣には、動きやすい乗馬服に着替えたセシリアと、キャスケット帽を目深に被ったルナが控えていた。
三人は昼間に発見した『旧魔導具研究室』の備品室へと忍び込み、重い本棚の裏に隠された地下階段の前に立っていた。
「ここから先は、王都の地下水路に繋がる未知の領域です。ルナ、ナビゲーションを頼みますよ」
「任せるニャ。私の鼻から逃げられる悪党なんて、この世にいないニャ」
ルナが自信満々に胸を張り、階段の奥から吹き上がってくるカビと泥の匂いを深く吸い込んだ。
「……マンドラゴラ抽出液の溶剤の匂い、まだハッキリ残ってるニャ。かなり大勢の人間が、重いものを引きずってこの階段を降りていった痕跡があるニャ」
「大勢の人間と、重い荷物……。盗まれた国宝『星の涙』だけでなく、闇の組織の密輸品もここを通って運ばれている証拠ですね」
レオンは懐から特殊な魔石のランタンを取り出し、青白い光で足元を照らしながら、冷たく湿った石段をゆっくりと降り始めた。
階段を下りきった先に広がっていたのは、学園の華やかな地上とは似ても似つかない、広大な地下空間だった。
「……これは、古い時代の地下水路ですの?」
セシリアがランタンの光に照らされた空間を見回し、息を呑む。
苔むした巨大な石積みの壁と、淀んだ水が流れる水路。天井には無数の鍾乳石のようなものがぶら下がり、迷路のように複雑に道が入り組んでいる。
「ええ。数百年前、王都の区画整理で放棄された旧水路の跡でしょう。今は学園の地下という誰の目にも触れない『完璧な隠れ家』として、闇の組織に利用されているというわけです」
レオンが水路の縁を歩きながら、周囲の壁をルーペで観察する。
「ルナ。匂いはどちらへ?」
「右の通路ニャ。でも、その先で三つに道が分かれてるニャ」
ルナの案内で進む迷宮は、まさに蟻の巣のように複雑だった。
似たような景色が続き、少しでも気を抜けば二度と地上には戻れなくなりそうな不安が付きまとった。
「セシリア。今のルート、頭に入っていますか」
「愚問ですわ。入り口の階段からここまでの歩数、曲がった角の角度と回数、すべて私の頭の中に三次元のマップとして構築されています」
セシリアが自身のこめかみを指差し、誇り高き令嬢の笑みを浮かべる。
彼女の『映像記憶』の能力は、一度見た光景を写真のように脳内に保存し、いつでも正確に引き出すことができるのだ。
「素晴らしい。君のその完璧なキャッシュ処理能力のおかげで、マッピングの手間が省けます。やはり君は、俺の特命資料室における最高の『外部記憶装置』ですね」
「……っ、だから、人を便利な機械のように呼ぶのはやめてくださいと言っているでしょう!」
セシリアが顔を赤くして抗議するが、その足元は水路の苔でひどく滑りやすくなっていた。
「きゃっ!?」
不意にヒールが滑り、セシリアの体が冷たい水路の方へと傾く。
「危ない」
ガシッ、という力強い感触と共に、レオンの大きな手がセシリアの細い腕を掴み、強引に自分の胸元へと引き寄せた。
「……っ!」
セシリアの顔が、レオンのコートの胸板にピタリと押し付けられる。
彼の規則正しい心音と、仄かに香るインクの匂いが、暗い地下水路の中でやけに鮮明に感じられた。
「……重心の移動予測が甘いですね。この苔の摩擦係数は通常の石畳の半分以下です。俺のインフラ設備が水没してショートしては困る。もう少し足元に注意を払ってください」
レオンは相変わらずデリカシーの欠片もない理屈を並べながらも、セシリアの腕を引く手は優しく、彼女が完全に体勢を立て直すまでしっかりと支え続けていた。
「わ、わかっていますわ……! ありがとうございます……」
セシリアは心臓の大きな跳ね上がりをごまかすように、そっぽを向いてレオンの胸から離れた。
腹立たしいほどに理屈っぽい男だが、その大きな手から伝わる体温が、冷え切った地下の恐怖を確実に和らげてくれている。
「……イチャイチャしてないで進むニャ。匂いがどんどん強くなってるニャ。もうすぐ、組織の隠し部屋みたいな場所に出るはずニャ」
前を歩いていたルナが、ジト目で二人を振り返りながら警告した。
「了解しました。……足音を殺してください」
レオンの目が、冷徹な捜査官のそれへと切り替わる。
三人は壁伝いに身を潜めながら、さらに迷宮の奥深くへと進んでいった。
やがて、水路の幅が狭くなり、人工的に作られたような一直線の通路に行き当たった。
「この奥から、強い薬品の匂いと……複数の人間の匂いがするニャ」
ルナが小声で囁く。
その通路の突き当たりには、頑丈そうな鉄格子の扉が見えた。
「ビンゴですね。あそこが密輸品の隠し倉庫でしょう」
レオンがランタンの光を絞り、慎重に通路へと足を踏み出そうとした、その時だった。
「……待ってニャ!」
ルナの獣耳がピクッと大きく跳ね上がり、全身の毛が逆立った。
「壁の中から、変な金属の擦れる音が……!」
ルナの警告と、レオンが異変に気づいたのはほぼ同時だった。
通路の床、一見普通の石畳に見える部分の一部が、レオンの体重によって数ミリだけ『沈み込んだ』のだ。
カチッ。
という無機質な起動音。
「……物理トラップ!」
レオンの叫びと同時だった。
通路の両側の壁に偽装されていた石が弾け飛び、暗闇の中から、無数の鋭い『鋼鉄の刃』が振り子のように飛び出してきたのだ。
魔法の探知結界をすり抜けるための、極めて古典的で、それゆえに凶悪な物理的殺戮機構。
「お嬢様ッ!!」
ルナが叫ぶが、彼女の位置からは間に合わない。
刃の軌道は、レオンのすぐ後ろを歩いていたセシリアの華奢な体を、正確に真っ二つに両断するコースを描いていた。
(……え?)
暗闇の中で鈍く光る刃が迫り来る。
セシリアの映像記憶の脳が、その死の軌道をスローモーションのように認識する。
避けられない。そう悟った瞬間。
ドンッ!!
強い衝撃と共に、セシリアの体は冷たい石畳の上へと激しく突き飛ばされていた。
「レ、レオン……!?」
セシリアが床に転がりながら目を見開く。
彼女がいたはずの空間には、代わりに黒いコートを翻したレオンが飛び込んでいた。
ガシャンッ!!
という重い金属音と共に、振り子の刃が交差して壁に激突する。
間一髪で刃の直撃は避けたものの、レオンの体を庇いきることはできなかった。
「……ッ!」
レオンの口から、短い苦悶の声が漏れる。
刃の先端が、彼の左肩から二の腕にかけてのコートを深々と切り裂き、鮮血が空中に舞った。
「レオン!!」
セシリアの悲鳴が地下迷宮に響き渡る。
トラップの刃は一度交差した後、カシャカシャと音を立てて壁の中へと引っ込んでいった。
「お前っ……!」
ルナが慌てて駆け寄る中、レオンは血を流しながらも、右手で壁に手をつき、荒い息を吐きながら立ち上がった。
「……っ、ハァ……。セシリア、ルナ。動かないでください。まだ第二の感圧式トラップが起動する可能性があります……」
レオンの左腕の袖は、溢れ出る血でべっとりと赤く染まっていた。
スリーピーススーツの下の白いシャツが、見る見るうちに鮮血を吸って変色していく。
「レ、レオン! 血が……! あなた、どうして私を……!」
セシリアは恐怖とパニックで顔を真っ青にしながら、這うようにしてレオンの元へ駆け寄った。
震える手で自分のブラウスの裾を引き裂き、咄嗟に彼の左腕の傷口を強く圧迫する。
「……っ。痛いですよ、セシリア。止血の基本は圧迫ですが、もう少し優しくしてくれないと、別の神経がイカれます」
レオンは顔をしかめながらも、いつもの気怠げな、平坦なトーンで文句を言った。
「こんな時に減らず口を叩かないでくださいっ! 自分の身を挺して私を庇うなんて……! あなたは捜査の責任者でしょう!? もしあなたに何かあったら、私は……っ」
セシリアの琥珀色の瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ち、レオンの黒いコートを濡らした。
彼女はかつて悪役令嬢として大勢の人間から憎まれ、裏切られてきた。
だからこそ、自分の命を投げ打ってまで自分を守ろうとしてくれる人間の存在が、どれほど奇跡的で、どれほど恐ろしい喪失感をもたらすのかを、痛いほど理解していたのだ。
「……なぜ泣くんですか。ひどく非論理的な反応ですね」
レオンは血塗れの左腕をセシリアに預けたまま、痛みを堪えるように小さく息を吐いた。
「傷の深さは筋膜に達していない。大動脈も逸れている。失血量もまだ生命活動に支障をきたすレベルじゃありません。ただの軽傷です」
「軽傷なわけないでしょう! こんなに血が出ているのに……っ!」
「聞いてください、セシリア」
レオンの右手の手のひらが、涙で濡れたセシリアの頬を、そっと不器用に拭った。
「……っ」
「君の顔面筋が極度の緊張で硬直しています。パニックによる交感神経の暴走は、君の最大の武器である脳の処理速度を著しく低下させる。俺の助手がポンコツになっては困るんですよ」
レオンは至近距離で、彼女の震える瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「なぜ君を庇ったか? 簡単なリスク管理の話です」
レオンは相変わらず、ロマンチックの欠片もない理屈を並べ始める。
「俺の肉体は、ただの現場作業用のモジュールに過ぎない。多少の物理的破損なら、数日の休息と栄養で修復可能です。だが、君のその頭脳に詰まった映像記憶と、論理的思考力。それはこの特命資料室において、二度と再構築できない『唯一無二のデータベース』だ」
レオンの真剣な眼差しが、セシリアの心臓の奥底を真っ直ぐに射抜く。
「取り替えの利く部品(俺)が少し傷つくのと、代えの効かないデータベース(君)が破壊されるのなら、前者を犠牲にして後者を守るのは、労働環境を維持する上で『当然のコスト』でしょう」
「……っ、〜〜〜っ!」
セシリアの胸の奥で、カァァッと熱い感情が爆発した。
この男は、いつもそうだ。
自分の身を挺して誰かを守るという、本来なら最も自己犠牲的で尊い行為を、極限までデリカシーのない『生理学と業務効率の言い訳』でコーティングして正当化する。
そんな理屈が本心であるわけがない。
彼はただ、セシリアという一人の人間を、何が何でも傷つけたくなかっただけなのだ。
(本当に……っ、ズルくて、不器用で、どうしようもない男ですわ……!)
「……一生、ポンコツのままでいなさいな。この不良債権」
セシリアは涙を拭い、顔を真っ赤にして怒ったように言い放ったが、その手はレオンの左腕の止血を、先ほどよりもずっと優しく、そして丁寧に巻き直していた。
その震える指先からは、彼への底知れぬ信頼と、隠しきれない深い愛情が滲み出していた。
「……お嬢様。その変態公務員の言う通り、傷は浅いニャ。私の持ってる回復薬をかければ、すぐ血は止まるニャ」
ルナが呆れたような、しかしどこかレオンの覚悟を認めたような顔で、懐から小瓶を取り出して傷口に振りかけた。
淡い光と共に、裂けた肉が急速に塞がっていく。
「助かります、ルナ。……さて」
痛みが引いたのを確認し、レオンは壁から手を離して立ち上がった。
「無駄なカロリーと血液を消費しましたが、これでトラップの機構は完全に解除されました。犯人どもの隠し倉庫は、もう目の前です」
レオンの瞳に、再び冷徹な犯罪心理学者としての鋭い光が宿る。
「俺の貴重なスーツを切り裂き、助手の心拍数を無駄に跳ね上げさせた代償……。一括で、利子をつけて支払ってもらいましょうか」
「ええ。徹底的に論破して、完膚なきまでに叩き潰してやりましょう」
セシリアもまた、血のついた手を強く握り締め、誇り高き悪役令嬢の笑みを浮かべてレオンの横に並び立った。
流した血と理屈で結ばれた最強のバディ。
二人は暗闇の奥で不気味に沈黙する鉄格子の扉へ向けて、迷いのない足取りで進んでいった。




