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 旧魔導具研究室の備品室で、重い本棚の裏に隠された『地下迷宮への階段』を発見した特命資料室の三人。


 暗く冷たい風が吹き上がってくるその深淵を前に、レオンは静かに本棚を元の位置へと押し戻した。


「……レオン? 中を調べないんですの?」


 セシリアが不思議そうに尋ねると、レオンは乱れたスリーピーススーツの埃を払いながら、懐中時計を取り出した。


「現在時刻、午後一時四十五分。これから俺の、特別講師としての午後の講義が始まります。ここで俺たちが姿を消せば、学園長や生徒たちに不審に思われ、せっかくの潜入捜査の隠れ蓑が台無しになりますからね」


 レオンは本棚の隙間に、目印となる極細の糸を仕掛けた。


「あの地下への突入は、学園が寝静まる今夜決行します。それまでは、善良で優秀な講師とその助手として、完璧な『日常』を演じ切りますよ」


「……相変わらず、スイッチの切り替えが極端な男ですわね。わかりましたわ」


 セシリアが呆れたようにため息をつき、三人は旧棟を後にして、午後の講義が行われる大講義室へと向かった。


 午後の講義は、魔法の基礎理論に関する『小テスト』の時間だった。

 レオンが教壇で気怠げに監督し、セシリアが通路を歩いて生徒たちの解答用紙を回収して回る。


 大講義室には、午前中の騒動を見ていた生徒たちも多く、彼らはセシリアが横を通るたびに、気まずそうに視線を逸らしていた。


 だが、すべての人間が彼女の有能さを認めたわけではない。


「……きゃっ!」


 セシリアが教室の後方、窓際の席を通りかかった瞬間だった。

 一人の女子生徒が、わざとらしく悲鳴を上げて立ち上がったのだ。


「どうしましたの?」


 セシリアが冷静に問いかけると、その女子生徒――縦ロールの髪を揺らす、派手な魔法ローブを着た伯爵令嬢は、憎悪に満ちた目でセシリアを指差した。


「白々しい! 先生! 今、この性悪な助手が、私の机の上に『カンニングペーパー』を落としていきましたわ!」


 伯爵令嬢の言葉に、静まり返っていた教室がにわかにざわめき始めた。


 彼女の名前は、エレナ・フォン・クラウス。

 かつてセシリアが公爵令嬢として学園に君臨していた頃、金魚のフンのように彼女の取り巻きとして媚びへつらっていた下位貴族の令嬢だ。

 セシリアが没落した途端に手のひらを返し、今度はセシリアを貶めることで自身の承認欲求を満たそうとする、典型的な権力志向の塊のような女だった。


「カンニングペーパーですって?」


 教壇にいたレオンが、伊達眼鏡の奥の目を細めてゆっくりと歩み寄ってくる。


「ええ、そうです! 見てください、この小さな羊皮紙を!」


 エレナは自身の机の上に落ちていた、数式がびっしりと書き込まれた小さな紙切れを摘み上げた。


「この女は、私にカンニングの罪を被せて、学園から追放しようとしたんです! 自分が没落したからって、かつての友人に逆恨みをして罠にかけるなんて、本当に恐ろしい悪役令嬢ですわ!」


 エレナが嘘の涙を浮かべて悲痛な声を上げると、周囲の生徒たちも「やはりあの女は……」「没落しても性根は腐ったままだ」と、ヒソヒソと囁き合い始めた。


「お嬢様がそんなチンケな嫌がらせをするわけないニャ! お前、自分で用意した紙を……!」


 後ろで控えていたルナが牙を剥くが、セシリアはスッと右手を上げてそれを制止した。


 セシリアの顔には、怒りも焦りも微塵もなかった。

 ただ、路傍の石ころを見るような、徹底的に冷ややかな悪役令嬢としての視線でエレナを見下ろしていた。


「……随分と三流の芝居ですわね、エレナ。私があなたごときに、わざわざそんな手間をかけると本気で思っていますの?」


「なっ……! まだシラを切る気!? この紙があなたの手から落ちるのを、私ははっきりと見たわ!」


 顔を真っ赤にして喚くエレナ。

 その時、レオンが二人の間に割って入り、エレナの手からカンニングペーパーを無造作に奪い取った。


「……なるほど。見事なまでに正解の数式が書き込まれたカンニングペーパーですね」


 レオンは紙切れを光に透かし、気怠げな声で呟いた。


「でしょう!? 先生、早くその女を……!」


「ですが、ひどく非論理的な主張だ。俺の助手がこれを落としたという証拠はどこにあるんですか」


 レオンの冷たい視線に射抜かれ、エレナは一瞬怯んだが、すぐに強気な態度を取り繕った。


「証拠なら、その紙に書かれた『インク』ですわ! 見てください、その文字は学園の購買部で売られている一般的な黒インクです! 私が普段使っているのは、実家から取り寄せた高級な『青薔薇のインク』。私が書いたものではないという、何よりの証拠ですわ!」


 エレナは自身の机の上に置かれた、美しい青色のインク瓶と、それで書かれた自分の解答用紙を指差した。

 確かに、カンニングペーパーの文字は黒く、エレナの解答用紙の文字は青い。


「なるほど。一見すると、別の人間が書いたように見えますね」


 レオンはカンニングペーパーの黒い文字をルーペでじっと観察した。


「でも、残念ながら君のその浅知恵は、科学の前では三秒で論破されるレベルの子供騙しです」


「は……?」


 レオンは懐から、一本の白い『チョーク』と、小瓶に入った透明な液体(無水エタノール)を取り出した。


「セシリア。少し水を持ってきてください」


「ええ、わかりましたわ」


 セシリアが教卓から水の入ったコップを持ってくると、レオンはカンニングペーパーの黒い文字の一部をピンセットで小さく切り取り、それをチョークの先端に貼り付けた。

 そして、そのチョークをエタノールと水を混ぜたコップの底に、そっと立てて置いたのだ。


「な、何をしているんですの……?」


 エレナが怪訝そうに覗き込む中、教室中の生徒たちの視線も、その奇妙な実験に釘付けになった。


「『ペーパークロマトグラフィー』という、混合物を分離する科学的な分析手法です。インクというのは、一色に見えても様々な色素が混ざり合ってできている」


 レオンが説明している間に、コップの中の液体が、毛細管現象によってチョークを静かに吸い上がっていく。

 すると、チョークの先端にあった『黒いインク』の染みが、液体と共に上へと広がり始め……。


 やがて、その黒い染みは、見事な『青色』と『赤色』と『黄色』の三つの色素の帯に分離して、チョークの表面に鮮やかに浮かび上がったのだ。


「なっ……! 黒いインクが、青色に……!?」


 エレナが驚愕に目を剥く。


「学園の標準的な黒インクは、すすをベースにした炭素インクです。成分が分離することはありません」


 レオンは冷徹な声で事実ファクトを突きつける。


「しかし、このカンニングペーパーのインクは分離した。しかも、最も強く出ている色素は、君が愛用しているという『青薔薇のインク』と全く同じ成分波長を持った青色だ。……もうわかりますね?」


 レオンはチョークをコップから引き上げ、エレナの目の前に突きつけた。


「君は、自分が疑われないように、愛用の青インクに、赤と黄色のインクを混ぜて『即席の黒インク』を作り、それでカンニングペーパーを書いた。だが、ベースとなる青の色素が強すぎたせいで、科学の目を通せば一発で君のインクだとバレる仕掛けになっていたんですよ」


「あ……あ……っ」


 エレナの顔から、一気に血の気が引いていく。


「それに、もう一つ決定的な証拠があります」


 レオンは今度、エレナの机の上に置かれていた『授業用のノート』を無造作に取り上げた。


「返して! それは私の……!」


「セシリア。教室のカーテンを閉めてください」


 セシリアが魔法で素早く窓のカーテンを閉め、教室が薄暗くなる。

 レオンは懐から特殊な魔石のランタンを取り出し、エレナのノートの『何も書かれていない白紙のページ』に対し、真横から極端に低い角度で光を当てた。


「人間の筆圧というものは、想像以上に強い。紙に文字を書けば、その下にある数枚の紙にも、必ず物理的な『凹み』が刻み込まれます」


 斜めから当てられた光の影によって、白紙のはずのノートのページに、無数の細かい『文字の跡』がくっきりと浮かび上がった。


「……セシリア。このノートに刻まれた凹みの文字を、読み上げてください」


「ええ」


 セシリアはノートを覗き込み、その驚異的な映像記憶の能力と視力で、浮かび上がった凹みの文字列を正確に読み上げ始めた。


「『第三術式における魔力収束率の計算式……』。レオン、これは、カンニングペーパーに書かれている数式と、一文字の狂いもなく完全に一致していますわ」


 セシリアの凛とした声が響き渡ると同時に、教室は水を打ったような静寂に包まれた。


斜光線しゃこうせんによる筆痕の抽出です。君は昨夜、自分の部屋でこのノートを下敷きにして、カンニングペーパーを必死に書き写した。その時の筆圧が、見事にこのノートに『君自身が書いたという物理的証拠』として刻み込まれている」


 レオンはランタンの光を消し、ノートとカンニングペーパーをエレナの机に叩きつけた。


「インクの成分と、ノートに残された筆痕。この二つの客観的なファクトの前では、君の浅はかな嘘など、紙屑以下の価値しかありませんよ」


「あ……違う、違うの……! 私はただ、あの女が憎くて……!」


 エレナはガクガクと震えながら、床にへたり込んだ。


 カンニングの発覚は、王立魔法学園において即刻退学に値する重罪だ。

 さらに講師の助手に濡れ衣を着せようとした悪質な隠蔽工作。彼女の貴族としての社会的な地位は、今この瞬間に完全に消滅した。


「……見苦しいですわね、エレナ」


 セシリアが、床に這いつくばるかつての取り巻きを見下ろし、氷のような声で告げた。


「他人の足を引っ張る暇があるなら、自分の頭でその数式を解けるように努力なさいな。あなたのような底の浅い人間に、私の歩みを止めることなど、一生不可能ですわ」


 かつての「悪役令嬢」の悪評に怯えることなく、完全な論理と誇りを持って言い放ったセシリアの姿に、教室中の生徒たちが畏怖の念を抱き、息を呑んだ。


「はい、公開処刑終了。カンニングの事後処理は、学園の風紀委員会に任せます」


 レオンが気怠げにパンパンと手を払い、何事もなかったかのように教壇へと戻っていく。


 騒動が収束し、午後の講義が終了した後。


 誰もいなくなった大講義室で、セシリアは黒板の消し忘れを片付けながら、ホッと息を吐いていた。

 いくら気丈に振る舞っていても、かつての因縁の相手との対峙は、やはり精神的な疲労を伴うものだった。


「……お疲れ様です、助手さん」


 不意に、背後からレオンの声がした。


「きゃっ!?」


 振り返るより早く、レオンの大きな手が、セシリアの左手首をふわりと掴んだ。


「レ、レオン……? また、なんですの?」


「動かないで。……脈拍七十五。少し上昇してはいますが、先日の王宮での事件の時と比べれば、非常に安定していますね。コルチゾールの過剰分泌も確認できない」


 レオンは真顔のまま、セシリアの手首の脈を指先で測りながら、至近距離で彼女の顔を覗き込んだ。


「あんな低俗なノイズを浴びせられても、君の脳の処理能力と冷静さは全く損なわれなかった。非常に優秀な『外部記憶装置』だと、改めて再評価しているところです」


「……っ、ですから、人を機械みたいに呼ぶのはやめてくださいと言っているでしょう!」


 セシリアは顔を真っ赤にして彼の手を振り払おうとしたが、レオンの指の力は優しく、しかし確固として彼女を逃がさなかった。


「機械ではありません。俺の平穏な労働環境を維持するための、かけがえのないパートナーです。……君が堂々としていてくれたおかげで、俺の講義のスケジュールに遅れが出ずに済みました。よくやりましたね」


 レオンの親指が、セシリアの手首の内側を、労うようにそっと撫でた。


「〜〜〜っ! この、絶望的なデリカシーのなさ! 脈を測るふりをして、堂々と女性に触れないでくださいませ!」


 セシリアは羞恥で沸騰しそうになりながら、今度こそレオンの手を振り払い、足音を荒立てて教室の出口へと向かった。


「お嬢様にセクハラするなニャ! 今夜の迷宮探索で、背中から突き落とすニャ!」


 ルナが箒を振り回してレオンに抗議する。


「セクハラ? 俺はただ、俺のインフラ設備のストレスチェックを行っただけですが。……まあいいでしょう」


 レオンは乱れたスリーピーススーツの襟を直し、不敵な笑みを浮かべた。


「さあ、陽が沈みますよ。くだらない学園の茶番は終わりだ」


 レオンの目が、冷徹な犯罪心理学者のそれへと切り替わる。


「今夜は、あの備品室の裏に隠された地下迷宮へ突入します。盗まれた国宝と、この学園に巣食う闇の組織の尻尾を、まとめて引っ張り出してやりましょう」


 科学と論理を武器とする特命資料室のバディ。

 彼らの真の戦いが、学園の暗い地下深くで、いよいよ幕を開けようとしていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【☆☆☆☆☆】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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