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 王立魔法学園での鮮やかな「特別講義」を終えたレオンたちは、本来の目的である現場検証を再開していた。


 国宝『星の涙』が盗み出された絶対封鎖結界の密室。

 その壁に開けられた物理的な大穴から、犯人がどちらへ逃走したのかを追跡するのが現在の最優先事項である。


「ルナ。壁の穴に付着していた、漆喰を溶かすための薬品の匂い。追えますか?」


 レオンの問いに、キャスケット帽を深く被ったルナが鼻をヒクヒクと動かした。


「……微かだけど、わかるニャ。マンドラゴラ抽出液の溶剤特有の、鼻を突くような甘ったるい匂い。こっちニャ」


 ルナの驚異的な嗅覚をナビゲーションにし、三人は学園の華やかな新棟から離れ、人通りの少ない旧棟へと向かって歩き出した。


 旧棟は、すでに使われなくなった古い教室や研究室が並ぶ、昼間でも薄暗く埃っぽいエリアだ。

 その廊下の片隅で、数名の生徒たちが何やら怯えたような声でヒソヒソと噂話をしているのが聞こえてきた。


「……ねえ、聞いた? 昨日もまた、旧魔導具研究室の近くで倒れた生徒が出たらしいわよ」

「『呪われた鏡』の噂だろ? 触れると全身がビリビリと痺れて、恐ろしい悪夢のような幻覚を見るっていう……」

「学園長も立ち入り禁止にしたけど、気味悪いわよね……」


 その噂話を耳にした途端、セシリアの足がピタリと止まった。


「……呪われた鏡、ですって? 触れただけで痺れて幻覚を見るなんて、まるで強力な呪詛魔法ではありませんの」


 セシリアが少しだけ顔を強張らせてレオンを見上げる。

 いくら悪役令嬢として気丈に振る舞っていても、正体不明の呪いというオカルトチックな現象には、やはり令嬢らしい恐怖心を抱くようだ。


 だが、レオンはいつものように死んだ魚のような目で、気怠げにため息をついた。


「魔法学園のエリートどもが、揃いも揃って非論理的な怪談話ですか。脳のシワが足りていない証拠ですね」


「レオン、オカルトを馬鹿にしてはいけませんわ。この世界には、解明されていない未知の魔法現象が……」


「解明されていないのは、彼らの知能が低いからです。それに、ルナの追っている匂いの先と、その『呪われた魔導具室』の場所……見事なまでに一致していませんか?」


 レオンが廊下の奥、古びた重厚な木製扉を指差した。

 その扉には『旧魔導具研究室・立入禁止』と書かれた札が斜めにぶら下がっている。


「……確かに、匂いはあの扉の隙間から強く漂ってきているニャ」


 ルナが確信を持って頷く。


「犯人は、あの立入禁止の部屋を隠れ蓑にするか、あるいは逃走ルートの中継地点として利用した可能性が高い。呪いの噂も、人が近づかないようにするためのダミーか、犯人が残した痕跡の副産物でしょう」


 レオンは全く躊躇することなく、立入禁止の札が下げられた重い扉のノブに手をかけ、ギィィと嫌な音を立てて押し開けた。


 旧魔導具研究室の中は、想像以上に荒れ果てていた。

 カビと埃の匂いが充満し、床には壊れた魔導具の残骸や、古い文献の山が足の踏み場もないほどに散乱している。

 部屋の奥には、さらに小さな『備品室』へと続く観音開きの扉があった。


「お嬢様、気をつけてニャ。足元にガラスの破片が落ちてるニャ」


「ええ、ありがとうルナ。……ひどい有様ですわね。ここに犯人が潜んでいたというのですの?」


 セシリアが乗馬服のスカートの裾を軽く持ち上げながら、慎重に部屋の中を進む。


「ルナ。匂いの発生源はどこですか」


「奥の備品室ニャ。でも、すごく匂いがキツくなってきたニャ……鼻が曲がりそうニャ」


 ルナが鼻をつまんで顔をしかめる。


「ルナはここで待機していてください。獣人の敏感な嗅覚でこれ以上強烈な刺激を吸い込めば、嗅覚受容体が麻痺します。セシリア、ハンカチで口と鼻を覆って俺の後ろへ」


 レオンの的確な指示に従い、セシリアは持っていたハンカチを口元に当てて、レオンの背中に隠れるようにして備品室の扉へと近づいた。


 備品室は、本部屋よりもさらに狭く、暗かった。

 窓はなく、大人が二人入れば身動きが取れなくなるほどの極小スペースだ。

 その中央に、一枚の古びた大きな姿見(鏡)が、布を被せられた状態で不気味に鎮座していた。


「これが、噂の『呪われた鏡』ですの……?」


 セシリアが身を乗り出して鏡を覗き込もうとした、その時だった。


「きゃっ!?」


 足元に転がっていた金属製の歯車にヒールを引っ掛け、セシリアが大きくバランスを崩した。

 倒れ込む先は、剥き出しの錆びた機材の山だ。


「危ない」


 レオンが反射的に振り返り、倒れゆくセシリアの腰を力強く引き寄せた。


「……っ!」


 ガシャン! という音と共に、二人は備品室の壁と、古い機材の隙間の極めて狭い空間へと雪崩れ込んだ。


 レオンの背中が壁にぶつかり、その胸の中に、セシリアがすっぽりと収まる形になる。

 二人を囲む空間はあまりにも狭く、セシリアの顔のすぐ目の前に、レオンの整った顔立ちと、スリーピーススーツのネクタイがあった。


(ち、近いですわ……っ!!)


 セシリアの心臓が、警鐘のようにけたたましく鳴り始めた。

 レオンの逞しい腕が自分の腰にしっかりと回されており、彼の規則正しい呼吸の振動が、ドレス越しにダイレクトに伝わってくる。

 仄かに香るインクの匂いと、大人の男特有の体温が、備品室の冷たい空気を一気に熱帯へと変えてしまったかのようだった。


「レ、レオン……っ。あ、ありがとうございます。でも、少し離れて……」


 セシリアが顔を真っ赤にして身じろぎしようとすると、レオンは彼女の腰を抱く腕の力をさらに強め、ピタリと動きを封じた。


「……動かないでください、セシリア」


 レオンの低い声が、セシリアの耳元で直接囁かれた。


「な、なんですの……こんな狭いところで、密着したままなんて、令嬢としての体裁が……!」


「体裁より命を優先してください。君のすぐ後ろにある錆びた機材の突起には、破傷風菌が繁殖している可能性が高い。動いて肌を掠めでもしたら、面倒なことになります」


 レオンは相変わらずの平坦なトーンで、恐ろしくデリカシーのない生理学的な分析を垂れ流し始めた。


「それに、君の体温が急上昇しているせいで、この狭い空間の空気の対流が変化しています。犯人が残した揮発性の化学物質が、君の熱放射に引かれて上に昇ってきている。呼吸を浅くし、副交感神経を優位にして心拍数を落としてください」


「だ、誰のせいで心拍数が上がっていると思っているんですの! この絶望的な朴念仁!」


 セシリアは極小の声で、しかし烈火の如く怒り狂ってレオンの胸板を軽く叩いた。


「……なぜ助けたのに怒られるのか、俺のプロファイリング能力でも理解に苦しむ。ですが、君のその高い体温は、冷え切った地下の空調で硬直した俺の筋肉をほぐすのには、極めて合理的な熱源です。あと三十秒、そのまま湯たんぽの代わりを務めてください」


「ゆ、湯たんぽですって……っ!? レオンのバカ! 不良債権! 変態公務員!」


 セシリアは恥ずかしさのあまり、レオンの胸に顔を埋めるようにして抗議した。

 だが、その抗議とは裏腹に、彼女の腕はレオンのスリーピーススーツの背中を、ほんの少しだけ強く握り返していた。


「……お嬢様? レオン? 中で何をしてるニャ? 変な物音がしたけど」


 外で待機していたルナの怪訝そうな声が聞こえ、二人はハッとして慌てて体を離した。


「な、なんでもありませんわ! 埃に足を取られただけです!」


 セシリアは顔から火が出るほどの熱を両手で冷ましながら、咳払いをして平静を装った。


「……さて。無駄なカロリーを消費しましたが、現場検証を再開しましょうか」


 レオンは何事もなかったかのように乱れたネクタイを直し、懐から特殊な魔石のランタンと、ピンセットを取り出した。


 彼の視線は、部屋の中央に鎮座する『呪われた鏡』へと向けられていた。


「セシリア。オカルト好きの生徒たちが騒いでいた『触れると痺れて、幻覚を見る呪い』。その正体を、科学の光で丸裸にしてやりましょう」


 レオンは鏡を覆っていた古い布を、ピンセットの先端で慎重にめくり上げた。


 姿見の鏡面はひどく汚れ、曇っていた。

 だが、レオンが注目したのは鏡面ではなく、鏡を支える裏側の『木製の土台』だった。


「ランタンで照らしてみてください」


 セシリアが言われた通りに青白い光を当てると、鏡の裏側に、複雑な金属製の配線と、古びた魔力供給用の水晶が隠されているのが見えた。


「これは……ただの鏡ではなく、魔導具ですの?」


「ええ。おそらく、昔の生徒が作った『姿を美しく映し出す』程度の軽微な魔導具でしょう。ですが、長年の放置で内部の魔力回路が断線し、ショートを起こしている」


 レオンはピンセットで金属の配線を指し示した。


「蓄電された魔力が、鏡の金属フレームに漏れ出しているんです。いわゆる『漏電』ですね。これに触れれば、当然静電気のような強いショックを受け、全身がビリビリと痺れることになります」


「……漏電。それが、呪いの『痺れ』の正体ですのね。では、『悪夢のような幻覚』はどう説明しますの?」


 セシリアの問いに対し、レオンはフッと冷笑を漏らした。


「それは、この部屋に充満している『匂い』のせいです」


 レオンは備品室の床、鏡のすぐ足元に落ちていた、黒い染みのようなものをルーペで観察した。


「ルナが追ってきた匂いの正体。マンドラゴラ抽出液の溶剤が、ここに大量にこぼれた痕跡があります。マンドラゴラは強烈な幻覚作用を引き起こす揮発性の麻薬だ。密閉されたこの狭い備品室でそのガスを吸い込めば、漏電のショックと相まって、恐ろしい幻覚を見るのは医学的に当然の帰結です」


 科学と論理による、完全なるオカルトの論破。

『触れると呪われる魔導具』の正体は、ただの「漏電したガラクタ」と「犯人がこぼした違法薬物の残留ガス」という、極めて物理的な事象の組み合わせに過ぎなかった。


「……本当に、あなたにかかれば魔法の神秘も怪談も、すべてただの物理現象に成り下がってしまいますわね」


 セシリアが感嘆の溜息を漏らす。


「神秘など、人間の無知が作り出した幻想です。重要なのは、犯人がなぜこんな場所に違法薬物をこぼしたのか、というファクトの方だ」


 レオンは床の黒い染みをピンセットで採取し、ガラス管に収めた。


「薬物をこぼすほど慌てていたか、あるいはここで何か別の作業をしていたか……。セシリア、この鏡の裏の壁をよく見てください」


 レオンが促し、セシリアが再びランタンの光を壁に向ける。

 そこには、古い本棚が壁に張り付くように置かれていたが、本棚の足元と床の間に、不自然な擦り傷が半円状に描かれているのが見えた。


「これは……本棚が、頻繁に動かされている痕跡ですわ!」


「その通り。隠し扉ですね」


 レオンが本棚の側面を強く押し込むと、重い軋み音と共に、本棚がスライドして壁の奥へと通じる暗く冷たい『地下階段』が姿を現した。


「……王都の地下には、古い時代の水路や迷宮が網の目のように張り巡らされていると聞きます。どうやら、国宝を盗み出した泥棒と、闇の組織の密輸ルートは、この学園の地下深くで繋がっているようですね」


 レオンの目が、獲物を追い詰める猟犬のように鋭く光る。


「行きますよ、助手さん。一生分のマカロンと、この国を裏で操ろうとする不遜なネズミどもの尻尾を、残らず引っ張り出してやります」


「ええ。どこまでもついて行きますわ、私の優秀な上司殿」


 薄暗い備品室での密着で跳ね上がった心拍数を、セシリアは誇り高き探究心へと変え、不敵な笑みを浮かべた。


 魔法学園の旧棟に隠された、暗く冷たい地下迷宮。

 科学と論理を武器とする特命資料室のバディは、盗まれた国宝と闇組織の核心に迫るため、迷いのない足取りで深淵へと足を踏み入れていくのだった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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次回お楽しみに。

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