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 王都警視庁の地下にある特命資料室。


 国宝級の魔導具『星の涙』の盗難事件が発覚した翌朝、この部屋は即席の作戦会議室と化していた。


「……というわけで、本日から俺たちは王立魔法学園に潜入捜査を行います。警察が公式に動けば、犯人は必ず証拠を隠滅するか、学園外に逃亡する。内偵を進めるには、内部の人間として入り込むのが最も合理的です」


 ソファーに腰掛けたレオンが、淹れたての紅茶を啜りながら淡々と告げた。

 その姿はいつものヨレヨレの黒コートではなく、仕立ての良いダークグレーのスリーピーススーツに身を包み、銀縁の伊達眼鏡までかけている。


「その格好……本当に、学園の講師として潜り込むおつもりですの?」


 セシリアが呆れたようにため息をつく。

 彼女自身も、いつもの華やかなドレスではなく、動きやすいタイトなロングスカートに、清潔感のある白いブラウスという、いかにも『講師の助手』らしい知的な装いに着替えていた。


「ええ。学園長にはすでに手回し済みです。俺の肩書きは、本日から赴任する『法医学および物理学』の特別講師。そして君たちは、俺の優秀な専属助手というわけです」


 レオンは机の上に置かれた辞令の書類を指先で弾いた。


「一生分の高級マカロンがかかっているんです。俺のモチベーションは現在、かつてないほどに高まっていますよ」


「……この男の行動原理が甘いお菓子だなんて、学園長が知ったら卒倒しますわね」


 セシリアは頭を抱えたが、その表情にはどこか楽しげな色が浮かんでいた。

 自分を不当に追い出した王立魔法学園に、今度は捜査官の助手として堂々と足を踏み入れる。少しの緊張はあるが、レオンとルナが隣にいれば、不思議と恐れはなかった。


「お嬢様の助手姿、とっても似合ってるニャ! 私も荷物持ちとして完璧にサポートするニャ!」


 ルナも学園の指定する使用人用の質素な服に着替え、猫耳を隠すためのキャスケット帽を深く被っている。


「よし。では、授業という名目の現場検証に出発しましょうか」


 レオンが立ち上がり、三人は王立魔法学園へと向かった。


 王立魔法学園は、王都の北部に広大な敷地を持つ、国中から優秀な貴族の子弟が集うエリート機関である。

 高くそびえる尖塔と、美しく整備された庭園。すれ違う生徒たちは皆、家柄を示す刺繍が施された魔法ローブを身に纏っている。


 特別講師としての手続きを終え、レオンを先頭に大理石の廊下を歩いていると、すれ違う生徒たちがヒソヒソと囁き合う声が聞こえてきた。


「……おい、見ろよ。あそこの女」

「嘘だろ、セシリア・フォン・ローゼンバーグじゃないか?」

「公爵家を勘当されて、学園も追放されたはずだろう? なんでこんな所に……」

「平民の男の後ろを歩いているぞ。あんなに高慢で悪逆非道だった令嬢が、今じゃ平民の小間使いか。傑作だな」


 容赦のない嘲笑と、蔑みの視線。

 それは、かつてマリアの罠にはめられ、すべての罪を被せられた『悪役』としての彼女に向けられた、棘のある言葉だった。


「……っ」


 セシリアは無意識にブラウスの袖を強く握りしめ、少しだけ俯いた。

 頭では分かっている。自分がもうあの時の無力な令嬢ではないことも、真実を知っている人間が隣にいることも。

 それでも、かつての同級生たちから向けられる悪意の壁は、彼女の心をチクリと刺した。


 その時だった。


「……セシリア。歩幅が狭くなっていますよ」


 前を歩いていたレオンが、足を止めて振り返った。


「え……?」


「俺の歩くペースから、〇・五秒遅れています。助手が後ろで立ち止まっていては、俺の講義のスケジュールに支障をきたす。それに」


 レオンはセシリアの元へ歩み寄ると、彼女の肩にポンと軽く手を置いた。


「路傍の石ころが発するノイズに、いちいち脳の処理能力を割かないでください。君は今、王都警視庁の特命資料室に所属する、俺の優秀な助手です。胸を張って、俺の隣を歩きなさい」


 それは、甘い慰めの言葉など一つもない、ただの業務命令のような響きだった。

 だが、その大きな手から伝わる確かな熱と、彼女の能力を絶対的に信頼しているという事実が、セシリアの胸の奥を温かく満たしていく。


「……ええ。そうですわね。あんな者たちに気を取られている暇はありませんでしたわ」


 セシリアは顔を上げ、かつての公爵令嬢としての矜持を上回る、誇り高き『助手』としての凛とした笑みを浮かべた。

 その瞬間、彼女の背筋はピンと伸び、周囲の嘲笑など全く意に介さないオーラを放ち始めた。


「その調子です。さあ、俺たちの教室へ向かいますよ」


 レオンが満足げに頷き、三人は目的の大講義室へと足を踏み入れた。


 大講義室には、すでに数十人の生徒が集まっていた。

 その大半が、高位貴族の子息や令嬢たちである。彼らは新任の特別講師がどんな人物か値踏みするような視線を向けていた。


 レオンが教壇に立ち、セシリアとルナが黒板の横に控える。

 そのセシリアの姿を見た瞬間、教室の前列に座っていた一人の男子生徒が、わざとらしく大きな声を上げた。


「おいおい、学園長も随分と焼きが回ったな! どこの馬の骨とも知れない平民の講師を呼んだと思ったら、その助手が、学園を追放された性悪女だとはな!」


 それは、かつてセシリアが公爵令嬢だった頃、裏で彼女を疎ましく思っていた伯爵家の長男だった。

 彼の言葉に同調し、教室のあちこちからクスクスという嫌な笑い声が漏れる。


「魔法もろくに扱えないくせに、一体何を教えるって言うんだ? 毒の盛り方か? それとも、没落した貴族の惨めな末路についてか?」


 男子生徒が椅子にふんぞり返り、セシリアを露骨に嘲笑う。


「……っ、このガキ! お嬢様に向かって、なんという口の利き方を……!」


 ルナが堪えきれずに前に出ようとするが、セシリアがスッと手を出してそれを制止した。

 ここで感情的になれば、相手の思う壺だ。


 だが、セシリアが反論するより早く、教壇に立つレオンが、黒板をチョークでカンカンと短く叩いた。


「……静かに。授業を始めます」


 レオンの冷徹でよく通る声が、教室の空気を一瞬で凍りつかせた。


「おい、平民の分際で俺に命令する……」


「そこの、一番前で無駄な二酸化炭素を吐き出している君」


 レオンは伊達眼鏡の奥の冷たい瞳で、その男子生徒を真っ直ぐに射抜いた。


「魔法もろくに扱えない、と言いましたね。では、君はさぞ優秀な魔法使いなのでしょう。一つ質問に答えてもらいましょうか」


 レオンはチョークを走らせ、黒板に複雑な化学式と数式を書き殴った。


「火炎魔法における燃焼のプロセスについて。魔力による着火後、大気中の酸素供給率が二〇パーセントを下回った場合、熱力学第一法則の観点から、魔法の威力はどのように減衰するか。その計算式と理由を答えなさい」


「……はぁ!?」


 男子生徒は目を白黒させ、黒板の数式とレオンを交互に見比べた。


「な、何を言っているんだ! 魔法は魔力で燃えるものだ! さんそ? そんなよく分からない理屈なんて関係ない! 魔力を込めれば炎は大きくなる、それが魔法の常識だ!」


 生徒が顔を真っ赤にして叫ぶと、周囲の貴族生徒たちも「そうだそうだ」と頷いた。


「……やはり。この学園の教育レベルは、前世の小学生以下ですね」


 レオンは心底呆れたように深い溜息をつき、チョークを教卓に放り投げた。


「魔力は単なる『着火のトリガー』に過ぎない。燃焼という現象は、可燃物と酸素が結びつく酸化反応(化学反応)です。それを理解せずに無駄な魔力ばかりを注ぎ込むから、君たちの魔法は燃費が悪く、威力が低いんです」


 レオンの冷酷な事実の突きつけに、男子生徒は言葉を失い、口をパクパクとさせた。


「セシリア。今の俺の質問に対する、完璧な解答を彼らに教えてやってください」


 レオンが突然話を振る。

 だが、セシリアは微塵も慌てることなく、一歩前に進み出た。


 特命資料室での日々。レオンの傍らで膨大な科学と物理学の文献を読み込み、彼女自身の『映像記憶』の能力で完全に頭に叩き込んできた知識が、今ここで火を噴く。


「火炎魔法の持続には、周囲の酸素濃度が密接に関係します。酸素供給率が二〇パーセントを下回った場合、不完全燃焼が発生し、熱エネルギーへの変換効率は著しく低下します」


 セシリアの美しく透き通るような声が、静まり返った教室に響き渡る。


「その際のエネルギー減衰は、熱力学第一法則に従い、閉鎖系における内部エネルギーの変化量(ΔU = Q - W)として計算されます。魔力による仕事量(W)を一定とした場合、酸素不足による熱量(Q)の低下は、魔法の威力を最大で四十五パーセント減少させる結果となりますわ」


 一語一句淀むことなく、完璧な理論と数式を暗唱してみせたセシリアに、教室中の生徒たちが度肝を抜かれ、ポカンと口を開けていた。

 彼らが今まで学んできた『魔力こそすべて』という常識を、根本から覆す絶対的な知識量だった。


「ご名答です、助手さん」


 レオンは満足げに頷き、顔面蒼白になっている男子生徒を見下ろした。


「これが、俺の助手の頭脳です。血筋や魔力量だけでふんぞり返っている君たちとは、脳の処理能力スペックが根本的に違う」


 レオンの言葉は、氷のように冷たく、そして容赦がなかった。


「彼女を嘲笑う暇があるなら、自分の劣悪な知能指数を恥じて、物理と化学の教科書を百回読み直しなさい。俺の授業では、非論理的な妄想と、無能なプライドは一切採点対象外です。わかりましたね?」


 圧倒的な論理と知識による、完全なる公開処刑。

 先ほどまでセシリアを嘲笑っていた生徒たちは、誰一人として反論できず、恐怖と羞恥で完全に沈黙した。


「お、お嬢様……! 今の、すっごくかっこよかったニャ!」


 ルナが小声で興奮気味に囁く。

 セシリア自身も、自分の言葉で彼らを黙らせたことに、胸のすくような達成感を感じていた。


 そして何より。


(レオン……)


 自分の能力を誰よりも理解し、大勢の前で絶対的な信頼を示してくれた彼に、セシリアの心臓は先ほどからトクン、トクンと甘い警鐘を鳴らし続けていた。


 講義が終わり、次の現場検証に向かうため、三人は再び学園の廊下を歩いていた。


「……レオン。先ほどは、ありがとうございます。ですが、少しやりすぎではありませんこと? あんなに徹底的に論破してしまっては、生徒たちが怯えてしまいますわ」


 セシリアが少しだけ頬を染めながら、レオンの横顔を見上げて言った。


「事実を述べただけです」


 レオンは伊達眼鏡の位置を直し、前を向いたまま気怠げに答えた。


「それに、俺の重要なインフラ設備を侮辱するノイズは、俺自身の業務環境の悪化に直結します。物理的に排除するのは、労働環境を守る上で当然のコスト管理ですよ」


「〜〜〜っ。またそうやって、素直じゃない言い訳を……!」


 セシリアは呆れたように小さく息を吐いたが、その顔には隠しきれない笑みが浮かんでいた。

 デリカシーは皆無だが、この不器用で理屈っぽい男の隣こそが、今の彼女にとって世界で一番安全で、心地よい場所なのだ。


「お嬢様に気安く触るなニャ、って言いたいところだけど、今回だけはあの変態公務員を見直してやるニャ」


 ルナが後ろから小声で呟き、セシリアはさらに頬を赤くした。


「さあ、茶番は終わりました。ここからが本番です」


 レオンの目が、冷徹な捜査官のそれへと切り替わる。


「国宝『星の涙』を盗み出し、壁の穴から逃げた泥棒。その足取りと、学園内に潜む『協力者』の尻尾を、徹底的にあぶり出してやりますよ」


 論理と科学を武器とする最強のバディが、王立魔法学園の暗部に潜む闇の組織へと、ついにその鋭いメスを入れようとしていた。


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