19
建国記念祭の夜に起きた前代未聞のテロ未遂事件から、数日が経過した。
王都警視庁の本庁舎は、事件の事後処理と調書の作成で、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
地下の特別牢獄。
分厚い鉄格子と魔力封じの結界が何重にも張られたその奥で、かつて可憐なヒロインとして王宮でチヤホヤされていたマリアは、虚ろな目で壁の隅にうずくまっていた。
「……違うわ。こんなの、私のシナリオじゃない。私は愛されるはずなのに。攻略対象たちが、私を助けに来てくれるはずなのに……」
彼女はブツブツと、周囲の人間には理解できない『ゲームの専門用語』を呟き続けている。
その様子を、鉄格子の外から冷徹な目で見下ろしている男がいた。
漆黒のコートを着崩したモブ捜査官、レオンである。
「……完全な自己愛性パーソナリティ障害と、誇大妄想の併発ですね。自分の思い通りにならない現実を脳が拒絶し、自分だけの空想世界に逃げ込んでいる」
レオンは手に持ったバインダーに、淡々と彼女の心理状態を書き込んだ。
彼女が口走る『シナリオ』や『攻略対象』という言葉の本当の意味を、前世の記憶を持つレオンだけは正確に理解している。
だが、それをわざわざ他人に説明する義理も、彼女の狂気に付き合ってやる義務もない。
「哀れなものだ。世界を支配しようとした女の末路が、これとはな」
レオンの隣で、本庁の捜査課長が重々しい溜息をついた。
「王太子殿下もカイル殿も、薬物の後遺症と精神的なショックで、現在は王宮の奥深くで療養中だ。騎士団も王室も、完全に面目を潰された形になる。……すべては、君が持ち込んだ『ファクト』のせいだがね」
課長が恨めしげにレオンを睨む。
権力者たちにとって、真実が白日の下に晒されることは、必ずしも歓迎される事態ではないのだ。
「俺は事実を並べただけです。それに、彼女のテロが成功して王宮が魔物の巣窟になるよりは、遥かにマシな結果でしょう」
レオンはバインダーを閉じ、気怠げに肩をすくめた。
「俺の停職処分も無事に解除されたことですし、事後処理は優秀な本庁の皆様にお任せしますよ。俺は三日間の徹夜で、脳内のブドウ糖が致死レベルまで低下していますから」
レオンは課長の小言を背中で聞き流しながら、さっさと地下牢を後にした。
王宮の権力闘争や、傷ついた貴族たちのプライドなど、彼にとってはすこぶるどうでもいいことだ。
彼が今最も求めているのは、甘い紅茶と、静かで平穏な日常だけである。
本庁舎から少し離れた、地下の特命資料室。
レオンが重い鉄扉を開けると、そこには彼が求めていたすべてが揃っていた。
「おかえりなさいませ、レオン。随分と遅かったですわね」
エプロン姿のセシリアが、淹れたての紅茶をローテーブルに置きながら、出迎える。
「お帰りニャ。あの狂った女は、ちゃんと牢屋の中で反省してたかニャ?」
ルナが箒を手にしたまま、興味深そうに耳をピクピクと動かした。
「反省という概念が欠如している脳でしたから、一生あの薄暗い部屋で自分の妄想と見つめ合うことになるでしょうね」
レオンはコートを脱ぎ捨てるなり、いつものソファーに倒れ込んだ。
「あー……ダメだ。限界です。調書の作成で万年筆を握りすぎたせいで、右手の筋肉が硬直している。それに、課長の無駄話を聞かされたせいで、聴覚野のエネルギーもすり減った」
レオンはうわ言のように文句を垂れ流し、ソファーのクッションに顔を埋めた。
「本当に、少しはシャキッとなさいな。王宮を救った英雄の姿とは到底思えませんわよ」
セシリアが呆れたように溜息をつきながら、レオンの背中を軽く叩く。
「英雄などという非論理的な称号は不要です。俺はただの公務員ですからね。……それより、約束のブツはありますか。俺の疲労を回復させるための、最優先事項です」
レオンがソファーから片手だけを突き出して要求する。
「ええ、もちろん。あなたが徹夜で仕事をしている間に、ルナと一緒に腕によりをかけて作りましたわ」
セシリアはふっと微笑むと、キッチンから大きな銀色のトレイを運んできた。
その上に乗っていたのは、真っ白な生クリームと真っ赤なイチゴで彩られた、巨大な三段重ねの特製ショートケーキだった。
「……素晴らしい」
ケーキを見た瞬間、レオンはゾンビが生き返ったかのような勢いで身を起こした。
「スポンジの層の間に、薄くスライスしたイチゴと、極甘のシロップが染み込ませてあります。疲労回復のための、特製ビクトリアケーキですわ」
「完璧だ。君のケーキ作りにおける構造計算は、王都のどの建築家よりも優れている」
レオンは目を輝かせ、セシリアからフォークを受け取ると、無言でケーキを口に運び始めた。
一口食べるごとに、彼の死んだ魚のようだった瞳に、みるみると理知的な光と生気が戻ってくる。
その様子を、セシリアは向かいのソファーに座って、どこか愛おしげに見つめていた。
数日前の王宮での事件を経て、セシリアの心境には確かな変化が生まれていた。
自分を陥れたマリアを完全に論破し、悪役令嬢としての理不尽な運命を、自分自身の手で叩き壊したのだ。
もう、見えない何かに怯える必要はない。
彼女は今、純粋に『セシリア』という一人の人間として、この場所に存在している。
「……そういえば、セシリア。君の実家である公爵家から、本庁に正式な要請が来ていましたよ」
ケーキを半分ほど平らげたところで、レオンがふと思い出したように口を開いた。
「実家から、ですって?」
「ええ。君の無実が証明され、さらに王宮の危機を救ったことで、公爵家は手のひらを返したように君の『勘当の取り消し』を申し出てきました。帰ってきてほしいそうです」
レオンの言葉に、セシリアの動きがピタリと止まった。
ルナも心配そうに、セシリアの顔を見つめている。
名誉が回復した今、彼女が公爵家に戻れば、再び華やかな貴族としての生活が約束されている。
薄暗い地下室で、平民の捜査官の助手として働く必要など、どこにもないのだ。
「……あなたはどう思っているんですの、レオン」
セシリアは紅茶のカップを両手で包み込むように持ち、レオンの黒い瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「私に、公爵家に戻ってほしいと?」
その問いに対し、レオンはフォークをカチンと皿の上に置いた。
そして、口元のクリームをナプキンで拭い、極めて真面目な顔でセシリアを見た。
「非合理的な質問ですね。俺の答えなど、聞くまでもないでしょう」
レオンは立ち上がり、ローテーブルを回り込んで、セシリアの隣にどさりと腰を下ろした。
「ひゃっ……!?」
突然横に座られ、レオンの肩が微かに触れ合う距離まで近づいてきたことに、セシリアの心臓が大きく跳ねた。
「レ、レオン……近いですわ……」
「君が公爵家に戻るということは、俺の専属パティシエが失われるということです。それに、俺の散らかった調書を時系列順にファイリングする優秀な『外部記憶装置』も失われる」
レオンはセシリアの動揺など全く気にする様子もなく、淡々と、しかしどこか熱を帯びた声で語り続ける。
「それは俺の平穏な労働環境における、致命的なインフラの崩壊を意味します。俺がそんな大損失を許容するとでも?」
「……相変わらず、人を便利な道具か設備のように言いますのね」
セシリアが顔を真っ赤にして恨めしげに睨むが、レオンは微かに口角を上げた。
「道具ではなく、必要不可欠な『パートナー』です。君の論理的思考力と、その無駄に疑い深い性格は、この特命資料室にこそ相応しい。公爵家の退屈な茶会など、君には似合いませんよ」
レオンの大きな手が、セシリアの頭にポンと置かれた。
「だから、君の所属はこれからもこの王都警視庁特命資料室です。実家からの要請は、俺の権限で勝手に破り捨てておきました」
「……っ! 勝手に破り捨てたですって!?」
「ええ。もし無理矢理連れ戻しに来るようなら、公爵家の脱税の証拠でもでっち上げて牽制します。君は俺が、一生ここで囲いますから」
「い、いっ、一生って……あなた、自分がどれだけ恥知らずなプロポーズみたいなことを言っているか、自覚はありますの!?」
セシリアの顔は、もはや沸騰したヤカンのように真っ赤だった。
彼女は両手で顔を覆い、レオンから少しでも距離を取ろうとソファーの端へ逃げる。
「プロポーズ? 労働契約の無期雇用の話をしているんですが」
「そういう無自覚なところが、一番タチが悪いと言っているんですの! この絶望的な朴念仁!」
「お嬢様にイチャイチャ触るなニャ! その泥棒猫みたいな手を今すぐ引っ込めるニャ!」
ルナが箒を振り回してレオンの背中をペシペシと叩く。
「痛っ。……なぜ引き抜きを阻止したのに怒られるのか、俺のプロファイリング能力でも全く解明できない。やはり女心は迷宮ですね」
レオンは不思議そうに首を傾げながらも、残りのケーキを優雅に口に運んだ。
騒がしくも温かい、奇妙な三人組の日常。
権力も魔法も関係ない、ただの平民の捜査官と、元・悪役令嬢、そして獣人のメイド。
「……でも」
顔を覆っていた手を少しだけずらし、セシリアが小さく呟いた。
「私をこの場所に引き留めてくれたことだけは、感謝してあげますわ。……少しだけ、ですけれど」
彼女の顔には、もう迷いはなかった。
悪役令嬢という与えられた役割ではなく、自分自身の意志で選んだ『助手』という居場所。
それが、彼女にとっては何よりも誇らしく、心地よかったのだ。
「感謝するなら、明日のおやつは極甘のチョコレートパフェでお願いします」
「本当に、この男は……! 感謝の気持ちを返してちょうだい!」
セシリアが怒ってクッションを投げつけ、レオンがそれを片手で受け止める。
ルナが呆れたようにため息をつきながら、割れた皿の破片を片付け始める。
地下の薄暗い特命資料室には、甘いケーキの匂いと、三人の絶えない笑い声(と怒鳴り声)が響いていた。
乙女ゲームという非論理的な世界の中で、科学と論理を武器に戦うモブ捜査官。
彼の隣には、もはや欠かすことのできない優秀な助手がいる。
世界のバグが再び新たな犯罪を生み出したとしても、彼らが揃っていれば、どんな稚拙なシナリオも必ず論破できるだろう。
王都警視庁・特命資料室の平穏で騒がしい日常は、今日も甘い糖分と共に続いていくのだった。
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次回お楽しみに。




