17
王宮の庭園の最奥、古い星見の塔の地下室。
強酸性の溶解液によって、床に描かれていた巨大な転移陣はドロドロの泥水と化し、空間を歪めていた不気味な青白い光も完全に消失した。
大勢の魔物を祭典の会場に送り込み、自らが悲劇のヒロインとして惨劇の中心に立つ。
マリアが描いたその大掛かりな狂気のシナリオは、レオンが放った一本のガラス瓶によって、文字通り跡形もなく溶け去ったのだ。
「……あ、ああ……私の、私の完璧な舞台が……!」
マリアは足元の泥水を見つめ、わなわなと肩を震わせていた。
可憐な美少女の面影は完全に消え失せ、その顔には他者を見下し、自分の思い通りにならない世界への純粋な憎悪だけが張り付いている。
「だから言ったでしょう。化学反応の前では、魔法の術式などただの落書きに過ぎないと」
レオンは乱れた燕尾服の襟を正し、冷酷なまでに淡々とした声で告げた。
「違法な空間歪曲鉱石の所持、ならびに国家転覆を狙ったテロ未遂。これであなたの罪状は確定です。大人しくお縄につきなさい」
「……ふざけないで。ふざけないでよ、お前たちぃっ!」
マリアが金切り声を上げ、狂乱したようにレオンとセシリアを睨みつけた。
「私は主人公なのよ! この世界は、私が愛されて、私が一番幸せになるために存在しているの! なのに、どうしてモブのお前たちが私の邪魔をするの!」
「主人公だのモブだの、非論理的な妄想を喚き散らすのは法廷の精神鑑定の時にしてください。ルナ、確保を」
「了解ニャ。おとなしくするニャ!」
ルナが床を蹴り、マリアを取り押さえようと飛び込んだ。
だが、その瞬間。
マリアはドレスの胸元から、小さな赤い宝玉のようなものを取り出し、床に力強く叩きつけた。
パキィンッ! という甲高い破砕音と共に、強烈な閃光が地下室を包み込む。
「目眩ましの光魔法かニャ!?」
ルナが思わず目を覆って立ち止まる。
「違います。短距離の空間跳躍用の魔石です。チッ、闇市で随分と高価な逃走用のアイテムまで仕入れていたようですね」
閃光が収まった後、そこにマリアの姿はなかった。
代わりに、彼女が立っていた場所には、ビリビリに引き裂かれたピンク色のドレスの切れ端が、わざとらしく数枚落ちていた。
「……ドレスの切れ端? どうしてこんなものが落ちていますの?」
セシリアが不思議そうに首を傾げる。
「逃げる直前に、自分で自分の服を引き裂いたんですよ。転移先で『暴漢に襲われた可哀想な被害者』を演じるための、三文芝居の小道具です」
レオンの冷ややかな分析に、セシリアはハッとして目を見開いた。
「転移先って……まさか!」
「ええ。彼女の自己顕示欲が向かう先は一つしかない。王宮のメイン会場、数千人の観客と、最大のパトロンがいる大広間です」
レオンは落ちていたドレスの切れ端を証拠品として懐に突っ込むと、すぐさま地下室の階段へと踵を返した。
「魔物を使ったパニック演出が失敗したなら、今度は俺たちを『自分を暗殺しようとしたテロリスト』に仕立て上げ、観衆の同情と憎悪を煽る気でしょう。彼女の頭の中にあるのは、常に自分が悲劇の中心にいる台本だけですから」
「なんて浅ましく、恐ろしい女……。急ぎましょう、レオン! 会場が完全に騙される前に、私たちが真実を突きつけなければ!」
セシリアは真紅のドレスの裾を翻し、迷いのない足取りでレオンの横に並んだ。
三人は星見の塔を飛び出し、夜の王宮の庭園を駆け抜け、光と音楽が溢れる大広間の正面扉へと向かった。
建国記念祭のメイン会場である大広間は、まさに異様な熱狂と混乱の渦の中にあった。
「マリア! 一体誰が、君にこんな酷い真似を……!」
広間の中央。
豪奢なシャンデリアの光の下で、王太子アルベルトが、ボロボロに服を引き裂かれ、涙を流して震えるマリアを強く抱きしめていた。
「で、殿下ぁ……っ。怖かったです……っ。私、庭園を散歩していただけなのに、突然、覆面の暴漢に襲われて……っ」
マリアはアルベルトの胸に顔を埋め、周囲の貴族たちに聞こえるように、悲痛な声を張り上げた。
「暴漢だと!? 警備兵は何をしていた!」
「殿下、違いますの。暴漢を指揮していたのは……勘当されたはずの、セシリア様でした……っ!」
その言葉に、数千人の貴族が集う大広間が、水を打ったように静まり返った。
「セシリア様は、平民の恐ろしい男や獣人を連れて、王宮の地下に爆薬を仕掛けようとしていました。私が偶然それを見つけてしまったから、口封じに殺されそうになって……私、必死に逃げてきたんです……!」
嗚咽を交えながら語られるその完璧な嘘に、貴族たちの間にどよめきが広がり、やがてそれはセシリアに対する明確な怒りと憎悪へと変わっていった。
「なんだと……あの悪役令嬢、王宮を吹き飛ばそうとしたというのか!」
「嫉妬に狂って、ついにテロリストにまで堕ちたか!」
「許せません! 今すぐその女を捕らえて、極刑に!」
アルベルトの瞳の奥が、異常なほどの怒りで血走り、焦点が合わないほどに濁っていく。
「許さん……! セシリアめ、私の愛するマリアを傷つけ、この国を滅ぼそうとするとは! 近衛騎士団よ、今すぐ庭園を捜索し、あの魔女を八つ裂きにしろォッ!」
狂気じみた王太子の怒号が響き渡った、その時だった。
「捜索の必要はありませんよ。その三文芝居の矛盾を指摘しに、わざわざこちらから出向いてやりましたから」
重厚な大広間の両開き扉が、外からゆっくりと押し開けられた。
そこに立っていたのは、漆黒の燕尾服に身を包んだレオンと、燃え上がるような真紅のドレスを着たセシリアだった。
「セ、セシリア……! よくもぬけぬけと、この場に顔を出せたな!」
アルベルトが腰の剣を抜き放ち、セシリアに向かって切っ先を突きつける。
周囲を取り囲んでいた数百人の近衛兵たちも、一斉に槍を構え、二人を包囲した。
「剣を向けられる謂れはありませんわ。私は真実を述べに、この捜査官の助手としてここに来ただけです」
セシリアは数千の敵意を向けられながらも、微塵も臆することなく、誇り高き令嬢の背筋を伸ばして堂々と進み出た。
だが、レオンの目は、周囲の貴族やアルベルトの『異常な状態』を冷静にプロファイリングしていた。
(……おかしいですね。いくらマリアが迫真の演技をしたとはいえ、証拠もないのに数千人の人間が、一瞬でここまでヒステリックに同調するものか?)
レオンは周囲の人間たちの顔の筋肉、特に瞳孔の開き具合と、不自然に同期している呼吸のタイミングを観察した。
彼らの目は、まるで夢遊病者のようにうつろで、その意識は完全にマリアという『悲劇のヒロイン』にのみ釘付けになっている。
(集団催眠……いや、もっと物理的で広範囲な脳へのハッキングだ。この大広間の空気そのものが、微弱な魔力波長の振動によって汚染されている)
これが、この世界が乙女ゲームであるがゆえのバグ。
物語を強制的にハッピーエンド(マリアの勝利)へと導こうとする、世界規模の『精神干渉魔法』の発動だった。
「殺せ! そのテロリストどもを、今すぐここで処刑しろ!」
アルベルトが叫び、近衛兵たちが殺気を放ってじりじりと距離を詰めてくる。
群衆の敵意が、実体を持った呪いのようにセシリアにのしかかる。
「……っ」
セシリアが微かに息を呑み、ドレスの裾を強く握りしめた。
どれほど気丈に振る舞っても、数千の人間から同時に向けられる狂気的な憎悪は、人間の精神を容易に削り取る。
その時、レオンがスッとセシリアの隣に立ち、彼女の華奢な肩を自分の体で庇うように引き寄せた。
「レ、レオン……?」
「セシリア。少しの間、動かないでください」
レオンは懐から、粘土のような奇妙な形をした二つの小さな耳栓を取り出し、それをセシリアの両耳に直接押し込んだ。
「ひゃっ……!? な、何を……っ」
突然耳に触れられ、セシリアの顔がパッと赤く染まる。
至近距離でレオンの指先が耳殻をなぞる感触に、心臓が大きく跳ねた。
「これは王都警視庁の特命資料室で、俺が独自に開発した『骨伝導式のノイズキャンセラー』です。特殊な防音素材と魔石を組み合わせてあります」
レオンはセシリアの耳を塞いだまま、淡々とした声で耳元に顔を近づけて囁いた。
「現在、この大広間には、人間の認知機能を強制的に歪める特定の周波数の魔力波――つまり、集団催眠の電波が垂れ流されています。このまま無防備に浴び続ければ、君の優秀な脳の海馬が不可逆的なダメージを受ける」
「の、脳のダメージ……?」
「俺の重要な書類のインデックスである君の記憶力が失われたら、俺の平穏な労働環境は完全に崩壊する。君の脳細胞を物理的に保護するのは、俺の業務を遂行する上で最優先の課題なんです」
レオンは相変わらずデリカシーゼロの理屈を並べ立てながらも、その大きな手で、セシリアの耳と頭をすっぽりと包み込むように守っていた。
(……っ、この男は、こんな数千人の敵の前で、またそんな無自覚なことを……!)
セシリアは羞恥と混乱で顔を沸騰させながらも、彼の手から伝わる絶対的な安心感に、先ほどまでの恐怖が嘘のように消え去っていくのを感じた。
「お嬢様にイチャイチャ触るなニャ! 私にもその耳栓をよこすニャ!」
護衛として影に潜んでいたルナが、小声で威嚇しながらレオンの背中を小突く。
「ルナには獣人用の周波数フィルターを渡してあります。そいつを耳に詰めておきなさい」
レオンはルナにも耳栓を投げ渡すと、ゆっくりとセシリアから離れ、狂気的な熱狂に包まれた群衆へと向き直った。
「さて。非論理的な集団催眠のせいで、俺の助手の心拍数が無駄に上がってしまった。業務妨害も甚だしいですね」
レオンは燕尾服の懐から、手のひらサイズの奇妙な魔導具を取り出した。
それは、警視庁の鑑識で使われる魔力測定器を、レオン自身が改造した特殊なスピーカーだった。
「魔法による精神干渉というものは、オカルトでもなんでもない。特定の波長を持った認知へのハッキングです。ならば、その波長と『完全に逆位相の音波』をぶつければ、物理的に相殺できる」
レオンはスピーカーのダイヤルを回し、スイッチをオンにした。
キィィィィィンッ……!!
人間の耳にはギリギリ聞こえないほどの、極めて高音で不快な周波数の音波が、大広間全体に一気に放射された。
アクティブ・ノイズキャンセリング。
前世の科学技術である『波の干渉』の原理を応用し、マリアが放つシナリオの強制力(催眠電波)を、物理的な音波で強引に打ち消したのだ。
「あ……れ……?」
「私は、一体……何をそんなに怒って……?」
音波が広間に響き渡った瞬間、うつろな目をしていた貴族たちが、ハッと我に返ったように瞬きを繰り返した。
剣を構えていた近衛兵たちも、急に毒気が抜けたように顔を見合わせ、スルスルと武器を下ろしていく。
アルベルトでさえ、血走っていた目が元の色に戻り、頭を押さえてよろめいた。
「な……なぜだ!? どうして私の魔法が……っ!」
マリアが信じられないものを見るように、レオンが手にした機械を指差して悲鳴を上げた。
「魔法ではありません。ただの物理現象ですよ」
レオンはスピーカーのスイッチを切り、静まり返った大広間の中央で、不敵な笑みを浮かべた。
「脳の霧が晴れたようで何よりです、皆様。非論理的な集団催眠の時間はこれで終わりだ」
レオンは懐から、分厚い革のトランクと、先ほど回収したマリアのドレスの切れ端を取り出し、群衆の前に高く掲げた。
「さあ、ここからは、俺たち王都警視庁の仕事です。客観的な『ファクト』に基づいた、本物の最終裁判を始めましょうか」
絶対的な科学の力が、狂気のシナリオを完全に打ち破った瞬間だった。
数千の観衆の洗脳が解けた今、残るはサイコパスヒロインが仕掛けた稚拙な偽装工作を、一つ残らず論破し、物理的証拠で完膚なきまでに叩き潰すのみ。
モブ捜査官と元・悪役令嬢による、痛快な逆転劇が、いよいよクライマックスを迎えようとしていた。
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次回お楽しみに。




