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 王都の空が深い群青色に染まり、建国記念祭の夜がやってきた。


 王宮の周辺では数え切れないほどの魔法のランタンが宙を舞い、街全体が祝祭の熱狂と光に包まれている。

 だが、その華やかな喧騒から遠く離れた王都警視庁の地下は、冷え切った静寂の中にあった。


 特命資料室の重厚な鉄扉の前では、王太子アルベルトの命を受けた二人の近衛兵が、退屈そうに槍を握って立っている。


「……なぁ、祭りの夜だっていうのに、なんで俺たちがこんな地下室で見張りなんてしなきゃならないんだ?」


「文句を言うな。殿下の直々の命令だ。中にいる生意気な平民の捜査官を、絶対に一歩も外に出すなとな」


 近衛兵の一人が欠伸を噛み殺した、その時だった。


「ん……? おい、なんだこの匂い。焦げ臭くないか?」


「匂いだけじゃないぞ。見ろ、扉の隙間から……煙が出てる!」


 二人の近衛兵が慌てて鉄扉に駆け寄る。

 分厚い扉の足元にあるわずかな隙間から、白く濁った煙がシューシューと音を立てて廊下に漏れ出し始めていた。


「おい、中で何が起きている! 返事をしろ!」


 近衛兵が扉を激しく叩くが、中からの返答はない。

 代わりに、鼻を突くような強烈な刺激臭と、ゴホッ、という苦しげな咳き込み声が微かに聞こえてきた。


「マズいぞ! もし中で火事が起きて、この捜査官が死にでもしたら、俺たちの責任問題になる!」


「ええい、鍵を開けろ! 中を確認するんだ!」


 パニックに陥った近衛兵が、震える手で鍵束を取り出し、ガチャリと音を立てて重金属の錠を外した。

 そして、勢いよく扉を押し開けた。


 その瞬間。


「……かかったニャ」


 白煙の中から、銀色の影が弾丸のように飛び出した。


「なっ……!?」


 近衛兵たちが槍を構える間もなかった。

 獣人のメイドであるルナが、恐るべき瞬発力で二人の懐に同時に潜り込み、その手刀をそれぞれの首筋の頸動脈に的確に叩き込んだのだ。


「グハッ……!」


 カシャン、と鈍い音を立てて、二人の近衛兵が白目を剥いて床に崩れ落ちた。


「はい、おやすみニャ。獣人の瞬発力を舐めるなニャ」


 ルナが尻尾をパタンと揺らしながら見下ろす中、白煙の奥から、ハンカチで口元を押さえたレオンとセシリアが悠然と姿を現した。


「……現在時刻、扉が開いてから三秒。煙の発生から換算しても二十八秒ですね。完璧なタイムです、ルナ」


 レオンが懐中時計をパチンと閉じながら告げる。


「ただの白煙と刺激臭を発生させる化学薬品を混ぜ合わせただけの『即席の発煙筒』ですが、見事に心理的盲点を突けましたね。人間は想定外の煙と異臭に直面すると、確認作業を優先して警戒心を解いてしまう」


「ええ。あなたのその悪知恵には、本当に恐れ入りますわ。ですが、この煙、本当に喉が痛いですわね……」


 セシリアが涙目でゴホゴホと咳き込む。


「これでも硫黄の濃度は最低限に抑えたんです。さあ、近衛兵たちが目を覚ます前に、王宮へ向かいますよ」


 レオンは気絶した近衛兵たちを資料室の中に引きずり込み、内側からではなく、外から適当なつっかえ棒をして扉を封鎖した。

 これでしばらくは誰も、この地下牢から捜査官が消えたことには気づかないだろう。


 三人は警察の裏口から抜け出し、あらかじめルナが用意していた王都の片隅の空き家へと向かった。


「いくら警備の薄い裏口から王宮の庭に侵入するとはいえ、いつまでもその泥だらけの服と、モブ捜査官の黒コートでは目立ちすぎますわ。祭典の列に紛れ込むための『正装』に着替えます」


 空き家に到着するなり、セシリアが革のトランクとは別の、大きな布袋を開いた。


「お嬢様、ちゃんと回収しておいたニャ!」


「ありがとう、ルナ」


 セシリアが取り出したのは、美しい真紅のドレスと、男性用の仕立ての良さそうな漆黒の燕尾服だった。


「……セシリア。まさか、潜入捜査のためにわざわざそれを用意していたんですか?」


 レオンが呆れたように眉をひそめる。


「当然ですわ。いつか貴族の夜会に潜入する機会があるかもしれないと思い、公爵家を追い出される直前に、ルナに命じて私の私室から最低限の衣装を持ち出させておいたのですのよ」


 セシリアは得意げに胸を張り、燕尾服をレオンに押し付けた。


「さあ、早く着替えてきなさいな。その死んだ魚のような目も、少しはシャキッとさせることですわね」


 数十分後。

 空き家のリビングで待っていたレオンの前に、着替えを終えたセシリアが姿を現した。


「……お待たせいたしましたわ」


 レオンは、思わず手元の懐中時計を落としかけた。


 セシリアが身に纏っていたのは、悪役令嬢としての彼女の代名詞とも言える、燃え上がるような真紅のドレスだった。

 しかし、以前のような過剰な装飾はなく、潜入任務のために動きやすさを重視した、体のラインが美しく出る洗練されたデザインに仕立て直されている。


 美しく結い上げられた金糸の髪と、自信に満ちた白磁の肌。

 彼女の持つ本来の高貴さと、知的な美しさが、そのドレスによって極限まで引き出されていた。


「……どうですの。似合っていますか?」


 セシリアが少しだけ頬を染め、上目遣いで尋ねる。


 レオンは数秒間完全にフリーズした後、ゆっくりと口を開いた。


「……非常に厄介な兵器ですね。ドレスの真紅は、色彩心理学的に人間の交感神経を直接刺激し、心拍数と血圧を無意識に上昇させる効果があります。ただでさえ君の体温が高いというのに、視覚情報からの過剰な刺激のせいで、俺の脳の冷静な判断力が著しく低下しています」


 レオンは真顔のまま、ひたすら論理的かつ生理的な分析を早口で並べ立てた。


「おまけに、その露出の計算されたデコルテのラインは、視線を強制的に誘導する黄金比で構成されている。これでは敵の警備兵どころか、味方である俺の任務遂行能力にまで深刻なバグを引き起こしかねない」


「〜〜〜っ! この絶望的な朴念仁!!」


 セシリアは顔から火が出るほど赤くなり、ドレスの裾を強く握りしめた。


「素直に『綺麗だ』の一言が言えませんの!? なんですのその、人を歩く兵器みたいに扱う言い草は!」


「綺麗だという主観的な評価よりも、君の姿がもたらす生理的影響の大きさを客観的に伝えた方が、より正確な賛辞になると思ったんですが。俺のプロファイリング、間違っていましたか?」


「大間違いですわ!! 一生ポンコツのままでいなさい!」


 怒りで肩を震わせるセシリアの隣で、ルナがやれやれと肩をすくめた。


「お嬢様、この男に令嬢へのスマートなエスコートを求めるのは、犬に空を飛べと言うようなものニャ。でも、この男も着替えたら少しはマシになったニャ」


 ルナの言葉に、セシリアはハッとして改めてレオンの姿を見た。


 レオンはセシリアが用意した漆黒の燕尾服を、文句を言いながらも完璧に着こなしていた。

 普段のボサボサの髪は水で後ろに撫で付けられ、隠れていた整った顔立ちと、鋭く知的な眼差しが露わになっている。

 気怠げな態度は相変わらずだが、その長身と引き締まった体躯は、どこかの高位貴族の青年だと言われても誰も疑わないほどの見栄えだった。


(……黙っていれば、本当に見目麗しい殿方ですのに)


 セシリアは胸の奥がトクンと鳴るのを必死に抑え込み、ふいっと顔を背けた。


「……まあ、合格点というところですわね。あなたの顔面偏差値なら、王宮の警備兵もただの貴族だと騙されてくれるでしょう」


「顔面偏差値など、捜査においては不要なパラメーターです。さあ、茶番はこれくらいにして、王宮に乗り込みますよ」


 レオンはコートの代わりに燕尾服の懐に、指紋採取キットとルーペ、そしていくつかの薬品の入った小瓶を忍ばせた。

 ルナは目立たないように、セシリアの影のようについて歩く従者の装いに扮している。


 三人は夜の闇に紛れ、王都の中心にそびえ立つ王宮へと向かった。


 建国記念祭のメイン会場である大広間からは、華やかなオーケストラの音楽と、貴族たちの談笑の声が漏れ聞こえてくる。

 だが、レオンたちが向かったのはその輝かしい表舞台ではなく、王宮の裏手にある広大な庭園だった。


「マリアが巨大な転移陣を描くなら、誰の目にもつかず、かつ王宮の結界を内部から中和できる場所を選ぶはずです」


 庭園の暗がりを歩きながら、レオンが小声で推理を展開する。


「王宮の結界は、建物の外周に最も強く張られている。だが、内側にあるこの庭園の地下や、離れの倉庫周辺は、結界の干渉が比較的弱い座標です。そこを狙うはずだ」


「ルナ。例の『空間歪曲鉱石』の匂いはわかりますか?」


 セシリアが背後のルナに問いかける。

 ルナは目を閉じ、夜風に乗って漂う微かな匂いの分子を、獣人の驚異的な嗅覚で探り当てようとしていた。


「……祭りの料理の匂いや、貴族の香水の匂いがキツくて難しいニャ。でも、微かに……あっちの、古い星見の塔の地下から、あの鉱石特有のツンとする匂いが流れてきてるニャ!」


 ルナが指差したのは、庭園の最奥にある、現在は使われていない古い石造りの塔だった。


「よくやりました。ビンゴですね。あそこなら、大広間の喧騒に紛れて、いくらでも大規模な魔法陣を描ける」


 レオンの目が、獲物を捉えた猟犬のように鋭く細められた。


 三人は足音を殺し、星見の塔の入り口へと忍び寄る。

 入り口の扉は半開きになっており、地下へと続く石段の奥から、不気味な青白い光が漏れ出していた。


「……やはり、すでに計画は最終段階に入っているようですね」


 レオンが石段の影から地下室の様子を伺うと、セシリアも息を呑んでそれに続いた。


 地下室の広大な石畳の床には、幾何学的な模様の巨大な魔法陣が、特殊なチョークのようなものでビッシリと描き込まれていた。

 その魔法陣の線からは、空間歪曲鉱石特有の青白い光と、空間そのものが歪むような耳障りなノイズが発せられている。


 そして、その魔法陣の中央に立っていたのは。


「……フフッ。完璧だわ。これだけの規模の転移陣なら、王宮の外から、大量の魔物を直接あの憎き大広間へと送り込める」


 ピンク色の可憐なドレスを着た少女、マリアだった。

 彼女は自分の描いた魔法陣を見下ろし、狂気に満ちた笑みを浮かべていた。


「魔物たちが貴族どもをパニックに陥れ、殿下たちが危機に瀕したその瞬間……私が、この身を挺して魔物を鎮めてみせる。そうすれば、私は永遠に、この国で最も愛される悲劇と救済のヒロインになれるのよ」


 マリアの独白は、彼女の自己顕示欲とサイコパス性が極限に達していることを示していた。

 大勢の命を危険に晒すことなど、彼女にとっては自分の舞台を彩るための『演出』でしかないのだ。


「……正気の沙汰ではありませんわね」


 セシリアがドレスの裾を強く握りしめ、憎悪の籠もった声で囁く。


「ええ。ですが、これで動機と手段、そして現場というすべてのファクトが揃いました。あとはあの陣の発動を物理的に阻止し、彼女を現行犯で叩き潰すだけです」


 レオンは燕尾服の懐から、特殊な薬品の入ったガラス瓶を取り出した。


 マリアが魔法陣の発動呪文を唱えようと、両手を高く掲げたその時だった。


「……残念ですが、あなたの書いた三流の台本は、ここで不採用リジェクトです」


 冷徹な声と共に、レオンが地下室への石段をゆっくりと降りていった。


「なっ……!? あ、あなたたち、なぜここに!」


 マリアが驚愕に目を見開き、レオンとセシリアの姿を指差した。

 彼女の計算では、レオンは地下室に軟禁され、セシリアは手出しできないはずだったのだ。


「なぜって、あなたの警備計画が、この魔法陣の描き方と同じくらい穴だらけだったからですよ」


 レオンは全く臆することなく、魔法陣の縁まで歩み寄る。


「空間歪曲鉱石を使った転移陣。確かに結界をすり抜けるには効果的ですが、これだけ大規模な陣を描くには、鉱石の粉末を定着させるための『水溶性の接着剤』を使わなければならない。そうでしょう?」


「そ、それがどうしたというの! 結界はもう間もなく中和される! あなたたちに止めることなんて……」


「水溶性だと言っているんです。つまり、化学反応には滅法弱い」


 レオンは手にしたガラス瓶の蓋を開け、その中に入っていた無色透明な液体を、足元の魔法陣の線に向かって無造作にぶちまけた。


 ジュワァァァッ!!


 という激しい音と共に、魔法陣の青白い光を発していた鉱石の粉末が、瞬く間にドロドロに溶け出し、ただの黒い泥水へと変わっていく。


「な……っ!? わ、私の魔法陣が……!!」


 マリアが悲鳴を上げてしゃがみ込む。


「ただの強酸性の溶解液です。魔法の構造がどうであれ、物質としての基盤インクを物理的に破壊してしまえば、どんな高次元の術式も発動できない。科学の前では、オカルトなどただの落書きに過ぎません」


 レオンは空になったガラス瓶を放り捨て、冷酷なまでに理路整然と告げた。


「さあ、ゲームオーバーです、マリア嬢。テロ未遂の現行犯として、署までご同行願いましょうか」


「……許さない。許さないわよ、お前たちぃっ!」


 すべてを台無しにされたマリアの顔が、これまで見せたことのないほど醜く歪み、本物の悪魔のような形相へと変わった。


 王宮の地下室で、絶対的な科学と、狂気のシナリオが正面から激突しようとしていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【☆☆☆☆☆】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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