15
王都警視庁の地下にある特命資料室。
分厚い鉄扉の向こう側では、王太子アルベルトの命を受けた近衛兵たちが、今日も厳重な見張りを続けている。
彼らは、中に軟禁されている生意気な平民の捜査官が、逃げ場のない密室で絶望に打ちひしがれていると信じて疑わなかった。
だが、現実の資料室の風景は、彼らの想像とは全くかけ離れていた。
「……現在時刻、午後五時三十分。そろそろですね」
ソファーに深く腰掛けたレオンが、懐中時計の蓋をパチンと閉じた。
その視線の先にある、壁の上部の古い通気口から、ガサリと衣擦れの音が聞こえてくる。
最初に銀色の髪を揺らすルナが軽々と飛び降り、続いて泥で汚れた黒いローブ姿のセシリアが、ルナに支えられるようにして着地した。
「……ふう。無事に戻りましたわ。王都の地下水路の悪臭ときたら、本当に最悪でしたけれど」
セシリアがローブのフードを下ろし、泥だらけになった乗馬服の裾を払いながら息をつく。
かつての華やかな公爵令嬢の面影はない。だが、その顔には疲労よりも、大きな仕事をやり遂げたという強い達成感と誇りが満ち溢れていた。
「お帰りなさい、助手さん。どこかの野良猫が二匹迷い込んできたのかと思いましたよ」
レオンが気怠げな声で出迎えると、セシリアは柳眉を吊り上げた。
「野良猫とはなんですの! 命懸けで完璧な仕事をしてきた優秀な助手に向かって、もっと労いの言葉はありませんの!?」
「成果を確認するまでは、労いの言葉はコストの無駄遣いです。それで? サイコパスの協力者から、有力なファクトは得られましたか?」
レオンの問いに、セシリアは不敵な笑みを浮かべてみせた。
「当然ですわ。私を誰だと思っていますの? 最高の頭脳の持ち主の、一番弟子ですわよ」
セシリアは革のトランクを机に置き、パチンと留め具を外した。
そして、中から一枚の粘着シートを取り出し、これ見よがしにレオンの目の前に突きつけた。
「闇市の商人から押収した、違法薬物の注文書。そこから私が直接採取した、マリア本人の『指紋』ですわ。筆跡の照合も私の記憶と完全に一致しました」
そのシートを見た瞬間、レオンの目がわずかに見開かれた。
微細なアルミニウム粉末によって浮かび上がった、華奢な指の隆起の跡。
粉の散布量も、ハケで払う力加減も完璧で、素人の初仕事とは到底思えないほど鮮明な指紋が採取されていた。
(……本気でここまでやるとはな。あの悪環境の闇市で、商人を脅し上げてこれを採取する胆力。映像記憶だけじゃない、現場の捜査官としての適性も化け物クラスだ)
レオンは内心で舌を巻きながらも、顔には一切出さず、わざとらしくフッと息を吐いた。
「……まあ、素人の初仕事にしては七十点というところですね。粉の払いが右下に少し偏っている。これでは照合の際に十パーセントほどの誤差が生じる可能性があります」
「なっ……な、なな、七十点ですって!? あれだけ危険な目に遭って、完璧な証拠を持ち帰ってきたのに!」
セシリアが顔を真っ赤にして怒り出す。
「お嬢様をバカにするなニャ! お嬢様の魔法の粉の扱いは、闇市の商人どもが震え上がるほど完璧だったニャ!」
ルナもシャーッと牙を剥いて威嚇する。
「冷静な評価を下しただけです。ですが……」
レオンは立ち上がり、怒りで肩を怒らせているセシリアの前に進み出た。
そして、彼女の泥で汚れた小さな両手を、自身の手でふわりと包み込むように握った。
「……っ!? レ、レオン……?」
突然の接触に、セシリアの心臓がドクンと大きく跳ねる。
「……体温が低下していますね。地下水路の冷気と、極度の緊張状態から解放されたことによる血圧の低下だ。それに」
レオンの親指が、セシリアの手の甲にできた微かな擦り傷と、赤く腫れた指先を優しくなぞった。
「慣れない薬品やハケを力んで扱ったせいで、指の第一関節に軽度の炎症が起きている。暗い地下道で壁に手を突いたのか、擦り傷に泥も入り込んでいる。これでは化膿する危険性があります」
レオンは淡々と生理的・医学的な分析を口にしながら、机の引き出しから消毒用のアルコールと清潔なガーゼを取り出した。
「な、なんともありませんわ! この程度の傷、令嬢のたしなみとして……」
「動かないでください。これは俺の重要なインフラ設備のメンテナンスです」
レオンはセシリアの手を離さず、アルコールを含ませたガーゼで、彼女の手の汚れと傷口を極めて丁寧に拭き取り始めた。
傷口に染みる痛みにセシリアが微かに眉をひそめると、レオンの動きがさらに優しく、慎重になる。
「俺の優秀な助手の手に傷が残ったら、書類のファイリング速度が落ちてしまう。それに、君の淹れる紅茶の味が変わったら、俺の脳の処理能力に関わりますからね」
レオンは相変わらずデリカシーゼロの理屈を並べ立てながらも、その手つきは驚くほど繊細で、どこか慈しむような温かさを持っていた。
(……っ、この男は、本当に……!)
セシリアは顔から火が出るほどの羞恥と、胸の奥が甘く締め付けられるような感情に襲われ、ただ黙ってレオンのされるがままになるしかなかった。
至近距離にある彼の伏せられた睫毛と、真剣な横顔から目が離せない。
「……お嬢様が手当てされてるから手出しできないけど、あの変態公務員、絶対に理由をつけてお嬢様の手を握りたいだけニャ。獣人の勘がそう告げてるニャ」
ルナが部屋の隅からジト目で睨みつけていたが、今のセシリアの耳には届いていなかった。
「よし。これで応急処置は完了です」
レオンはセシリアの手に薄く軟膏を塗り、包帯を綺麗に巻き終えると、満足げに頷いて手を離した。
「さあ、君たちが命懸けで持ち帰ってくれたファクトを元に、今後の作戦会議といきましょうか」
レオンは表情を切り替え、黒板の前に立ってチョークを手にした。
「セシリア。商人から聞き出した、マリアの今後の計画をもう一度正確に教えてください」
手当ての熱から逃れるように咳払いをしたセシリアは、令嬢としての冷静な顔を取り戻し、報告を始めた。
「ええ。マリアは次に、王宮の結界をすり抜けるための巨大な転移陣を描くと言っていました。そのための『空間歪曲鉱石』を大量に発注したと。決行の日は、次の『建国記念祭』の夜です」
その報告を聞き、レオンは黒板に『建国記念祭』と『転移陣』という文字を書き殴った。
「なるほど。やはり、あの自己顕示欲の塊は、最高の舞台を用意する気ですね」
「最高の舞台、ですの?」
セシリアの問いに、レオンはチョークを置いて振り返った。
「セシリア。君があのサイコパスの立場だとして、少しプロファイリングを手伝ってください。自分を悲劇のヒロインとして世界中に認めさせるには、何が必要だと思いますか?」
セシリアは腕を組み、かつて王立学園でマリアが見せた行動パターンを頭の中で整理した。
「……自分を輝かせるための、大勢の観客。そして、自分を不当に虐げる『悪役』の存在ですわ。大階段で私を犯人に仕立て上げようとしたように」
「その通りです」
レオンは深く頷き、黒板をトントンと叩いた。
「建国記念祭は、王族から高位貴族までが一堂に会する王都最大のイベント。観客としてはこれ以上ない舞台だ。だが、問題は『悪役』です。彼女が最もお気に入りだった悪役、つまり君は、すでに公爵家を勘当されて行方不明の扱いになっている」
「ええ。私はあの華やかな夜会の場には出席できませんわ」
「つまり、彼女の頭の中にあった『セシリアという悪役が、マリアを虐める』という理想の台本は、すでに破綻しているんです。だが、サイコパスは自分の理想が思い通りにならないことを絶対に許容できない」
レオンの冷徹な分析が、マリアの狂気に満ちた思考を正確に解剖していく。
レオン自身はそれが「乙女ゲームの強制力」であることを知っていたが、セシリアにはあくまで「犯罪者の心理モデル」として説明を続けた。
「理想の台本が崩れたなら、彼女は物理的な力技で、新しい悲劇のシナリオを捏造するしかない。それが、空間歪曲鉱石を使った巨大な転移陣の目的です」
「……王宮の結界を破って、祭典の会場に何らかの脅威を直接送り込むおつもりですの!?」
セシリアが青ざめた顔で立ち上がる。
「ええ。例えば、手懐けた魔物の群れや、洗脳した騎士たちを転移させて暴れさせる。そこで自分が命の危機に瀕する状況を意図的に作り出し、再び誰かに罪をなすりつける気でしょう」
「なんて恐ろしい……。自分の承認欲求のためだけに、関係のない人々を巻き込むなんて」
「誰が次の生贄になるかはわかりません。王太子に意見する邪魔な貴族かもしれないし、あるいは……俺たちかもしれない」
「私たち、ですって?」
「俺はこの特命資料室に軟禁され、君たちは世間的には行方不明扱いだ。祭りの夜に俺たちが『マリアを恨んで魔物を放った』という濡れ衣を着せるには、最高の条件が揃っていますからね」
レオンの言葉に、ルナの尻尾が怒りでバンッと床を叩いた。
「冗談じゃないニャ! あの女の自作自演のせいで、これ以上お嬢様や……ついでにお前が、悪者にされるなんて絶対に許さないニャ!」
「ええ。私も同じ気持ちですわ。あの女の稚拙な三文芝居は、今度こそ完全に終わらせてやります」
セシリアの瞳に、揺るぎない決意の光が宿る。
「ですが、レオン。建国記念祭は明日の夜ですわ。あなたは今、王太子の命令でここに軟禁されています。どうやって王宮の会場に乗り込むおつもりですの?」
外には武装した近衛兵が常に監視している。
民間人であるセシリアたちは通気口から出入りできても、大柄なレオンがそこを通ることは不可能だ。
「物理的な軟禁など、俺の論理とルナの腕力があれば、三十秒で破れますよ」
レオンは不敵な笑みを浮かべ、机の上に置かれていた警察手帳を手に取った。
「マリアは、人間の感情や魔法という不確かなものを操って、自分の理想の劇を上演しようとしている。これはもはや、ただの犯罪ではない。大規模なテロリズムです」
レオンの黒い瞳が、科学者としての純粋な探究心と、捜査官としての冷徹な怒りで燃え上がっていた。
「そんな狂人のふざけた台本が、物理法則と客観的ファクトに勝てるわけがない。明日の夜、俺たちの手で、あのサイコパスに『科学の力』という名の絶望を叩き込んでやりましょう」
「ええ、望むところですわ!」
「お嬢様の敵は、私が全部ぶっ飛ばすニャ!」
特命資料室という名の地下の牢獄で、モブ捜査官と元・悪役令嬢、そして獣人のメイドは、ついに反撃の狼煙を上げる決意を固めた。
狙うは、王都中が熱狂に包まれる建国記念祭の夜。
狂気に満ちたヒロインの嘘の舞台を、絶対的な物理証拠で粉砕するための、最後の戦いの幕が上がろうとしていた。
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次回お楽しみに。




