14
王都警視庁の地下にある特命資料室は、分厚い鉄扉を外から施錠され、完全な密室と化していた。
扉の向こう側からは、王太子アルベルトが配置した近衛兵たちの金属的な足音と、時折交わされる低くくぐもった話し声が聞こえてくる。
彼らはレオンを一歩たりとも外へ出さないよう、厳重な監視体制を敷いていた。
しかし、当の軟禁されたモブ捜査官は、ソファーに深く腰掛けたまま、いつもと変わらぬ気怠げな様子で懐中時計を眺めていた。
「……そろそろ、本庁舎の警備の隙ができる時間ですね。昼の交代の時間帯は、人間の集中力が最も低下する魔の十五分間です」
レオンはパチンと時計を閉じ、部屋の隅で外出の準備を整えていたセシリアとルナに視線を向けた。
セシリアはいつもの豪奢なドレスではなく、動きやすいダークトーンの乗馬服に身を包み、その上から顔を隠すための深いフード付きのローブを羽織っていた。
ルナも同様に、特徴的な銀髪と猫耳を隠すように厚手の帽子を深く被っている。
「レオン。本当にこの通気口から外へ出られますの?」
セシリアが指差したのは、資料室の壁の上部にある、鉄格子が外された古い通気口だった。
獣人のルナがその驚異的な跳躍力で鉄格子を外し、大人一人がギリギリ通れるほどの抜け道を開拓していたのだ。
「ええ。この通気口は王都の古い地下水路に繋がっています。俺の体格では肩が引っかかりますが、女性の君たちなら余裕で抜けられるはずだ」
レオンは立ち上がり、机の上から小さな革製のトランクを手に取ってセシリアに差し出した。
「これを。特命資料室特製の『現場検証キット』です」
「現場検証キット?」
「中には、指紋採取用の特殊な微粒子粉末とハケ、微小な血痕を光らせるルミノール試薬、そして紫外線に近い波長を出す特殊な魔石のランタンが入っています」
セシリアがトランクを受け取ろうと手を伸ばした瞬間、レオンの大きな手が、彼女の細い指先を包み込むようにギュッと握りしめた。
「……っ!? レ、レオン……?」
セシリアの顔がパッと赤く染まる。
「いいですか、セシリア。君たちの頭脳と身体能力なら、マリアに違法な鉱石や薬物を流している『協力者』を見つけ出すことは可能でしょう」
レオンの黒い瞳が、いつになく真剣な光を帯びてセシリアを真っ直ぐに見つめていた。
その距離の近さと、手から伝わる確かな熱に、セシリアの心拍数が跳ね上がる。
「ですが、裏社会の連中は平気で刃物を抜きます。危険だと判断したら、証拠の採取は諦めてルナと一緒に全力で逃げてください」
「そ、それは……わかっていますわ。私だって、自分の命を粗末にする気は……」
「君が怪我でもして戻ってこられなくなったら、俺のティータイムと完璧な書類管理が永遠に失われる。それは俺の平穏な公務員生活における、何よりも許しがたい致命的な損失なんです。わかりますね?」
レオンは理屈っぽく、しかし彼なりの最大限の不器用な『心配』を込めて、セシリアの目を覗き込んだ。
「……〜〜〜っ! この期に及んで、またそんなデリカシーのない言い訳を……!」
セシリアは顔を真っ赤にしてレオンの手を振り払い、トランクを奪い取るように抱きしめた。
「心配なら、素直に『気をつけて』と言えばいいんですの! この絶望的な朴念仁!」
「お嬢様をからかうなニャ! 私がお嬢様を完璧に守り抜くから、お前はそこで大人しく寝てろニャ!」
ルナがレオンにシャーッと威嚇の牙を剥く。
「からかっているつもりはありませんが。……まあいいでしょう。君たちの無事と、有力なファクトの持ち帰りを期待していますよ」
レオンが気怠げに片手を上げると、セシリアはフンッと鼻を鳴らし、ルナの補助を受けて通気口へと体を滑り込ませた。
「行ってまいりますわ。私が、あのサイコパス女の化けの皮を完全に剥がす決定的な証拠を、必ず突き止めてみせます」
誇り高き元・悪役令嬢の不敵な笑みを残し、二人は王都の地下水路へと姿を消した。
王都の地下水路は、冷たく湿った空気が淀み、不快な悪臭が鼻を突く過酷な環境だった。
時折、ネズミが水音を立てて逃げていく薄暗い道を、セシリアはローブの裾が汚れることも厭わずに進んでいく。
かつて公爵令嬢として、磨き上げられた大理石の床しか歩いたことのなかった彼女が、今は泥に塗れて地下道を歩いている。
普通なら絶望してもおかしくない状況だが、セシリアの胸の中には、不思議なほどの高揚感と誇りがあった。
(私は今、ただの悪役令嬢ではなく、真実を追う捜査官の助手ですもの。この程度の泥、あの男の散らかしたゴミ屋敷に比べればどうということはありませんわ)
不意に、前を歩いていたルナが足を止め、鼻をヒクヒクと動かした。
「……お嬢様。この上のマンホールから、外の空気が入ってきてるニャ。違法な魔導具や、複数の薬物の匂いが混ざった、ひどく淀んだ空気ニャ」
「闇市に繋がっているのね。行きましょう」
ルナが重い鉄の蓋を軽々と押し上げ、二人は王都の暗部へと這い上がった。
日の光すら届かないスラム街の最深部。
そこには、王国の法律が一切及ばない巨大な『闇市』が広がっていた。
欲望と悪意が渦巻く薄暗いテントの群れの中を、ローブで顔を隠したセシリアとルナは音もなく進んでいく。
すれ違うのは、顔に傷のある傭兵や、怪しげなローブを着た魔術師ばかりだ。
「お嬢様。……あそこのテントニャ」
ルナが特定のテントを指差し、小声で囁いた。
「マンドラゴラの抽出液の匂いと、大講堂の焦げ跡で嗅いだ『空間歪曲鉱石』の独特な匂い……両方が混ざり合って、あの薄汚れたテントから強く漂ってきてるニャ」
「よくやりましたわ、ルナ。レオンのプロファイリング通り、薬物と違法鉱石の密輸ルートは繋がっていたということですわね」
セシリアは深くフードを被り直し、ルナと共に目的のテントの布をめくって中へと足を踏み入れた。
テントの中は、むせ返るようなお香の匂いと、怪しげな魔導具の放つ不気味な光に満ちていた。
奥の木箱に腰掛けていたのは、顔に大きな傷跡のある、油ぎった肥満体の商人だった。
「……あァ? なんだお前ら、見ねえ顔だな。冷やかしか?」
商人が濁った目で二人をねめつける。
セシリアは臆することなく商人の前まで進み出ると、懐からずっしりと重い金貨の入った革袋を取り出し、木箱の上にドンッと置いた。
「空間歪曲鉱石と、高純度のマンドラゴラ抽出液。最近、それらを大量に買い占めている『小柄な少女』の取引記録を買い取らせていただきます」
商人の目の色が、一瞬だけ鋭く変化した。
しかし、彼はすぐに下品な笑いを浮かべて首を振る。
「なんのことかさっぱりわからねえなァ。ウチは真っ当な骨董品屋だ。そんな違法なブツの名前を出されても困るぜ、お嬢ちゃん」
「とぼけないでちょうだい。私のメイドの鼻は、あなたのテントから漂う違法薬物の匂いを正確に嗅ぎ取っていますわ」
「メイドォ? フン、小娘が探りを入れてんじゃねえよ。ここは俺たちのシマだぞ。金だけ置いて、さっさと痛い目に遭う前に……」
商人が懐から鈍く光る短剣を抜きかけた、その瞬間。
「お嬢様に、気安く刃物を向けるなニャ!!」
銀色の閃光が走った。
ルナが獣人の圧倒的な瞬発力で商人の懐に潜り込み、その喉元に鋭い爪をピタリと突きつけていた。
「ヒッ……!?」
商人の喉仏が上下し、冷や汗が滝のように流れ落ちる。
ルナの爪は皮膚の表面を僅かに傷つけ、一筋の赤い線が浮かび上がっていた。
少しでも動けば、その爪が気管を切り裂くことは誰の目にも明らかだった。
「ひ、ひぃぃ……っ! わ、わかった! 待ってくれ、話す、話すからっ!」
命の危機を感じた商人が、短剣を床に取り落として両手を挙げた。
「よろしい。私をただの世間知らずの令嬢だと思ったら大間違いですわよ。さあ、取引の裏帳簿を出しなさい」
セシリアがフードを脱ぎ捨て、かつて『悪役令嬢』として恐れられた氷のような冷徹な眼差しで見下ろす。
その圧倒的な威圧感に、商人は震える手で木箱の奥から一冊の古びた手帳を差し出した。
「こ、これだ……。数日おきに、フードを深く被ったピンクの髪の女が、信じられねえ高値で幻覚剤と空間歪曲鉱石を買っていった記録だ。名前は名乗らなかったがな」
セシリアは手帳を受け取り、パラパラとページを捲った。
「……確かに、購入記録はありますわね。ですが、これだけでは『ピンクの髪の女=マリア』であるという決定的な証拠には弱いですわ。言い逃れされる可能性があります」
「そ、そんなこと言われても知らねえよ! 俺はその女が書いた注文書を受け取って、品物を渡しただけだ!」
商人の言葉に、セシリアの脳裏にレオンの言葉が蘇った。
『どんなに巧妙に隠蔽しても、人間が物理的に触れた場所には、必ず客観的なファクトが残る』
「……注文書ですって? それはどこにありますの?」
「あ、あそこの机の引き出しの中に……」
セシリアは商人が指差した机から、無造作に束ねられた羊皮紙の注文書を取り出した。
そこには、美しい流麗な文字で、薬品や鉱石の要求量が書き込まれていた。
セシリアは自身の『映像記憶』の能力をフル回転させ、王立学園時代に見たマリアの筆跡の記憶と、目の前の注文書の文字を照合した。
(……この『はらい』の癖。間違いない、マリアの筆跡ですわ。でも、法廷で証明するには、もっと絶対的な物理証拠が必要……)
セシリアは、レオンから渡された革のトランクを開き、中から微細な黒い粉末の入った小瓶と、柔らかい毛のハケを取り出した。
「お嬢様、何をするニャ?」
ルナが不思議そうに首を傾げる。
「レオンの教えを、実践するんですの。……ファクトを、可視化します」
セシリアは注文書の羊皮紙の上に、小瓶の粉末をパタパタと慎重に振りかけた。
そして、ハケを使って余分な粉を優しく払い落としていく。
人間の指先には、常に微量の汗や皮脂が分泌されている。
紙のような平滑な面に触れると、その皮脂が指の隆起の形に合わせて転写されるのだ。
その見えない皮脂の跡に、アルミニウムなどの微粒子を付着させることで、指紋を肉眼で確認できる状態にする。
レオンが前世の科学捜査の手法を持ち込み、魔法の世界の錬金術で再現した『指紋採取』の技術である。
「な、なんだその黒い粉は……魔法の呪いか!?」
商人が怯えた声を上げるが、セシリアは無視して作業に没頭した。
粉を払い終えると、羊皮紙の端の余白部分に、不自然に粉がこびりついている箇所がいくつか現れた。
セシリアはトランクから特殊な波長を放つ魔石のランタンを取り出し、部屋の明かりを落としてその部分を照らし出した。
青白い光の中に、渦巻くような細かい縞模様――親指と人差し指の『指紋』が、くっきりと浮かび上がった。
「……ビンゴですわ」
セシリアは悪役令嬢特有の、勝利を確信した美しくも残酷な笑みを浮かべた。
魔法などではない。完全なる科学の力が、不可視の証拠を暴き出したのだ。
「この華奢で小さな指紋。油ギッシュな太い指を持つ、あなたの指紋ではありませんわね?」
「あ、ああ……俺のじゃねえ。注文書を直接手渡ししてきた、あのピンクの髪の女が触った跡だ……。だが、それがどうしたって言うんだ!」
「これは『指紋』と言って、世界中の誰一人として同じ模様を持たない、絶対的な個人の識別情報ですの」
セシリアは浮かび上がった指紋を別の特殊な粘着シートに転写し、証拠品として大切にガラス管に収めた。
「後でマリアの私物から採取した指紋と照合すれば、この違法薬物の注文書に直接触れたのがマリア本人であると、完全に証明されますわ」
科学と論理による、逃げ場のないファクトの構築。
レオンがいつも行っていたその鮮やかな手口を、セシリアは見事に自分自身の手で再現してみせたのだ。
「あ、あんた……ただの令嬢じゃねえな。まるで、王都警視庁の恐ろしい尋問官みたいだぜ……」
商人が信じられないものを見るように、ブルブルと震え上がった。
「光栄な褒め言葉ですわ。私の師匠は、王都で一番性格がひねくれた、最高の天才捜査官ですから」
セシリアは誇らしげに胸を張り、商人の顔にピタリと冷たい視線を合わせた。
「さて、商人さん。マリアの協力者があなただという証拠は十分に揃いました。大人しく警視庁に連行されてすべてを吐くか、ここで私のメイドの爪の錆になるか、どちらかお好きな方を選びなさい」
「ヒッ……! ゆ、許してくれ! 何でも話す! 実はあの女、次にとんでもない量の『空間歪曲鉱石』を要求してきやがったんだ!」
商人は命惜しさに、マリアの今後の計画までペラペラと自白し始めた。
「次の建国記念祭の夜だ。王宮の結界をすり抜けるための、巨大な転移陣を描くための粉末が必要だと言っていた! あいつ、祭りの最中に何かデカいことを仕掛けるつもりだぜ!」
「建国記念祭……っ!」
セシリアとルナは顔を見合わせた。
建国記念祭といえば、王族やすべての高位貴族が一堂に会する、王都最大のイベントである。
乙女ゲームにおける、最大のクライマックスイベントが起こる舞台でもあった。
「マリアは、そこでもう一度、王太子や攻略対象たちを巻き込んだ『強制的なシナリオ』を発動させる気だニャ……!」
ルナの言葉に、セシリアは強く頷いた。
「ええ。ですが、あの女の思い通りにはさせません。私たちには今、あの女を確実に法廷の場に引きずり出せる、確固たる『物理証拠』があるのですから」
セシリアは指紋のついた証拠のシートと、マリアの筆跡が残る注文書を革のトランクに厳重にしまった。
「よくやりましたわ、ルナ。これで私たちの潜入捜査は大成功です。気絶させた商人は路地裏に転がしておいてちょうだい。後で本庁に匿名で通報しますわ」
「了解ニャ! お嬢様の推理と魔法の粉、すごかったニャ! あの変態公務員も、きっと腰を抜かして驚くニャ!」
セシリアはフードを深く被り直し、特命資料室への帰路についた。
レオンの教えを胸に、立派な『探偵』としての一歩を踏み出した元・悪役令嬢。
彼女の足取りは、かつてないほどに力強く、そして自信に満ち溢れていた。
(待っていなさい、レオン。あなたが求めた最高の証拠、私が完璧に持ち帰って差し上げますわ)
地下の牢獄で待つ、不器用で天才的なモブ捜査官の元へ。
サイコパスヒロインの野望を完全に打ち砕くための、最後のピースが今、揃おうとしていた。




