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王城の敷地内にそびえ立つ、近衛騎士団本部の荘厳な大講堂。
高い天井には巨大なシャンデリアが輝き、壁には歴代の騎士団長たちの肖像画が飾られている。
王都の武力の中枢であり、厳格な規律が支配するこの神聖な場所で、本日は昨日の野外訓練場で発生した魔物暴走事件の査問会議が開かれていた。
講堂の中央には、白銀の鎧を身に纏った高位の騎士たちが円卓を囲むように座っている。
その中心で証言台に立っていたのは、左腕を包帯で吊った次期騎士団長候補のカイルと、彼に寄り添うようにして震えているピンク色のドレスの少女、マリアだった。
「……本当に、恐ろしかったです。突然、おとなしかった魔物が狂暴化して、私に向かってきて……」
マリアが両手で顔を覆い、肩を震わせながら可憐な声で語る。
「でも、カイル様がご自分の身を挺して私を守ってくださったんです。カイル様がいらっしゃらなければ、私は今頃……っ」
大粒の涙を零すマリアの姿に、円卓を囲む騎士たちは同情と感動の溜息を漏らした。
「泣かないでくれ、マリア。君の無事が確認できただけで、この腕の傷など安いものだ」
カイルは熱に浮かされたような目でマリアを見つめ、彼女の細い肩を愛おしげに抱き寄せた。
「うむ。予期せぬ魔物の暴走という不測の事態において、弱き民を自らの命懸けで守り抜いたカイルの行動は、騎士の鑑である」
上座に座るカイルの父親、現・騎士団長が満足げに深く頷いた。
会議の空気は完全に、マリアという可哀想な被害者と、彼女を救ったカイルという英雄を称える方向で固まりつつあった。
魔物がなぜ暴走したのかという根本的な原因究明は、魔法の偶発的な事故という曖昧な理由で片付けられようとしていた。
その時だった。
「感動的な三文芝居の最中に申し訳ありませんが、その英雄譚には重大な物理的矛盾が存在します」
重厚な大講堂の両開き扉が、バンッと大きな音を立てて無遠慮に開け放たれた。
「な、なんだ貴様らは!」
騎士たちが一斉に立ち上がり、怒号を上げる。
そこに立っていたのは、王宮には不釣り合いな黒いコートを着た気怠げな男、レオンだった。
そして彼の隣には、燃えるような赤いドレスに身を包んだ元・公爵令嬢のセシリアと、銀色の髪を揺らす猫耳メイドのルナが堂々と並び立っている。
「セシリア嬢!? なぜ、勘当されたはずの悪役令嬢がこのような神聖な場に!」
「それに、そこの平民の男と獣人は何者だ! つまみ出せ!」
騒然とする講堂の中で、レオンは全く臆することなく、カツ、カツと革靴の音を響かせて中央へと歩み出た。
「王都警視庁、特命資料室のレオンと申します。こちらは私の優秀な助手たちです」
レオンは懐から警察手帳を取り出し、円卓の騎士たちに向けてペラリと見せつけた。
「現在、殺人未遂および違法薬物使用の容疑で、そちらで悲劇のヒロインを演じているマリア嬢に任意同行を求めに参りました」
その言葉に、講堂の空気が一瞬にして凍りついた。
「き、貴様……っ! マリアを愚弄する気か!」
真っ先に激昂したのはカイルだった。
彼は血走った目でレオンを睨みつけ、怪我をしていない右腕で腰の剣の柄に手をかけた。
「彼女は恐ろしい魔物の暴走から生き延びた被害者だ! それを罪人扱いするなど、騎士団が許さんぞ!」
殺気立つカイルに対し、レオンはただ冷徹な観察者の目を向けた。
「……瞳孔の極度な散大、異常な発汗、そして視野の狭窄。カイル様、あなたのその状態は正義感からの怒りではなく、典型的な薬物中毒の禁断症状ですよ」
「なんだと……っ!」
「でたらめですわ! その男の言うことなんて信じないでください、カイル様!」
マリアがカイルの背中に隠れながら、甲高い声で叫んだ。
その顔は怯えているように見せていたが、レオンの目は、彼女の口角が一瞬だけ忌々しげに歪む『微表情』を確実に見逃さなかった。
「でたらめかどうかは、客観的なファクトが証明してくれます」
レオンはポケットから、昨日採取したガラスの破片が入った試験管を取り出し、高く掲げた。
「昨日、マリア嬢が訓練場の柵の向こう側でしゃがみ込み、悲鳴を上げた場所。そこには、このアンプル瓶の破片が落ちていました」
レオンの言葉に、マリアの肩がビクッと跳ねる。
「うちの優秀な生体センサーの嗅覚と、特命資料室での化学分析の結果、この破片には低級魔物を狂暴化させる『誘引フェロモン』が付着していたことが判明しています」
レオンは試験管を円卓の騎士たちに見せつけるようにゆっくりと歩いた。
「つまり、魔物は魔法の事故で暴走したのではなく、意図的にこのフェロモンを使って、マリア嬢の元へ『誘導』されただけです。自作自演の危機を作り出すためにね」
「な……馬鹿な! そんな小細工を、か弱い少女ができるはずがない!」
騎士団長が信じられないというように声を上げる。
「ええ。か弱い少女には無理でしょう。ですが、他人の精神を支配することに快感を覚えるサイコパスなら、平然とやってのけます」
レオンの横で、セシリアが扇子を優雅に広げ、口元を隠しながら冷ややかに微笑んだ。
「誇り高き近衛騎士が、あのような女の三文芝居に騙され、薬物と香水で手懐けられた飼い犬に成り下がるとは。滑稽を通り越して哀れですわね」
セシリアの容赦ない毒舌が、静まり返った講堂に響き渡る。
かつてカイルの婚約者候補であった彼女の言葉は、騎士たちのプライドを容赦なく抉り取った。
「だ、黙れセシリア! 嫉妬に狂ってマリアを陥れようとするお前の嘘など、誰が信じるものか!」
カイルが剣を抜き放ち、セシリアに向けて切っ先を突きつけた。
洗脳状態にある彼の脳内では、マリアを攻撃する者はすべて『排除すべき絶対悪』として認識されているのだ。
「……セシリア、下がっていてください。刃物を持ったジャンキーの相手は俺の仕事です」
レオンがスッとセシリアの前に立ち塞がり、彼女を背中で庇う。
「あら、私をただのか弱い令嬢扱いするおつもり? 私はこれでも、王都で一番優秀な助手のつもりですけれど」
セシリアは強気な口調で言い返したが、レオンの広い背中に守られている事実に、少しだけ心臓の奥が甘く跳ねるのを感じていた。
「か弱くはないでしょうが、俺の貴重な糖分供給源に傷をつけられると、俺の業務効率が致命的に低下するんです。君を守るのは、極めて合理的な判断です」
「……っ! この期に及んで、またそんな理屈を……!」
顔を赤くして怒るセシリアを背に、レオンはカイルと正面から対峙した。
「カイル様。洗脳の恐ろしいところは、被害者自身が加害者を命の恩人だと信じて疑わない点にあります」
レオンは淡々とした声で、冷徹な事実を突きつける。
「あなたは現在、マンドラゴラ由来の合成麻薬によって脳の報酬系を完全にハッキングされています。魔法の『魅了』などという高尚なものではない。ただの違法な化学物質による依存症です」
「黙れ! 私とマリアの絆を、薬物などと侮辱するなァッ!」
カイルが怒号と共に、レオンに向かって踏み込んだ。
その剣が振り下ろされるより早く、レオンは懐から別の小さな小瓶を取り出した。
「特命資料室特製。アルカロイド系麻薬の即効性中和剤です」
レオンが小瓶の蓋を弾き飛ばすと同時に、横から銀色の影が弾丸のように飛び出した。
「もらったニャ!」
ルナだった。
獣人の驚異的な瞬発力でカイルの懐に潜り込んだ彼女は、カイルの剣を素手(正確には防具を仕込んだ手袋)で弾き飛ばし、その顔面に中和剤の入った小瓶を突きつけた。
「ルナ、風を!」
「任せるニャ!」
ルナが自身の長い尻尾を猛烈な勢いで振り回し、小瓶から立ち上る中和剤の揮発成分を、カイルの顔面へと一気に送り込んだ。
「ゴホッ、ガハッ……!? な、なにを……っ!」
強烈な薬品の匂いを鼻から吸い込んだカイルが、激しくむせてその場に膝をつく。
「カイル様っ!」
マリアが悲鳴を上げて駆け寄ろうとするが、レオンが冷ややかな視線でそれを制止した。
「近寄らないでください。今、彼の脳内では、あなたが構築した依存性のシナリオが、化学的に破壊されている最中ですから」
中和剤の効果は覿面だった。
カイルの異常に散大していた瞳孔が徐々に元の大きさに戻り、焦点の合っていなかった瞳に、本来の理知的な光が戻り始める。
「あ……あ……私は、一体……何を……?」
カイルは震える手で自身の頭を押さえ、まるで長い悪夢から覚めたように周囲を見回した。
「おはようございます、カイル様。脳の霧が晴れた気分はいかがですか」
レオンがカイルを見下ろし、容赦のない事実を言葉にして突き刺す。
「幻覚と依存のフィルターが外れた今のあなたなら、理解できるはずだ。なぜあの日、魔物がマリア嬢にだけ向かっていったのか。なぜ彼女の周囲にだけ、不自然な甘い香りが漂っていたのか」
「……っ!」
カイルの顔が、驚愕と、そして拭いようのない絶望に染まっていく。
薬物によって麻痺させられていた騎士としての論理的な思考力が戻るにつれ、自分がどれほど不自然で滑稽な状況に踊らされていたのかを、彼は正確に理解し始めていた。
「私、は……薬で、操られて……」
カイルはマリアのほうをゆっくりと振り向いた。
その瞳には、先ほどまでの盲目的な愛情は微塵もなく、ただ得体の知れない怪物を見るような恐怖と嫌悪が浮かんでいた。
「カ、カイル様……? どうされたんですか、私ですよ……?」
マリアが嘘の涙を浮かべて手を伸ばすが、カイルはその手を激しく払いのけた。
「触るなッ!! この、恐ろしい魔女め……!」
大講堂に、カイルの悲痛な絶叫が響き渡った。
それは、乙女ゲームのシナリオが、科学の力によって完全に書き換えられた瞬間だった。
「さて、これで自作自演の証明と、洗脳の解除は完了しましたね」
レオンは乱れたコートの襟を正し、マリアに向かってゆっくりと歩み寄った。
「マリア嬢。殺人未遂と違法薬物使用の現行犯です。あなたには黙秘権がありますが、供述はすべて法廷で証拠として採用されますよ」
レオンが懐から手錠を取り出す。
だが、マリアは下唇を強く噛み締めると、その可憐な顔を歪め、これまでの彼女からは想像もつかないほど低く、冷たい声で笑い出した。
「……ふふっ。あははははっ!」
講堂に響く、狂気を孕んだ笑い声。
円卓の騎士たちが戦慄して後ずさる中、マリアはゆっくりと立ち上がり、レオンとセシリアを真っ向から睨みつけた。
「本当に、目障りなモブね。せっかく私が完璧なシナリオを描いてあげているのに、いちいち理屈をこねて邪魔をするなんて」
マリアの瞳から、偽りの涙が完全に消え失せていた。
そこにあるのは、他者を見下し、世界を自分の思い通りに支配しようとする、純粋で絶対的なエゴイズムだけだった。
「ですが、これで終わりだと思わないことね。この世界は、私が愛されるために存在しているの。あなたたちのようなエラーは、いずれ強制的に排除されるわ」
マリアはそう言い残すと、彼女の足元から突如として強烈な光が溢れ出した。
「空間転移魔法のスクロールですか。逃がしませんよ」
レオンが飛び込もうとするが、光の奔流が彼を物理的に弾き飛ばす。
「レオンっ!」
セシリアが叫んでレオンの腕を掴む。
眩い光が収まった後、講堂の中央にいたはずのマリアの姿は、完全に掻き消えていた。
「……チッ。逃げ足の早い女ですね」
レオンは舌打ちをし、床に残された焦げ跡を見下ろした。
だが、その表情には焦りはなく、むしろ厄介なパズルを解き明かす時のような、不敵な笑みが浮かんでいた。
「まあいいでしょう。カイルの洗脳は解け、彼女の化けの皮は完全に剥がれた。王都の武力が奴の手に落ちる最悪の事態は防げました」
レオンは立ち上がり、呆然としている騎士たちを振り返った。
「さあ、本庁の皆様。後処理と現場検証の引き継ぎをお願いしますよ。俺は脳の糖分が枯渇したので、特命資料室に帰ってケーキを食べます」
そう言って、レオンはセシリアとルナを従え、大講堂の扉へと向かって歩き出した。
「待ちたまえ! 君たちは一体、何者なんだ……!」
騎士団長が震える声で問いかける。
レオンは立ち止まることなく、背中越しに気怠げに答えた。
「ただのヒラ捜査官と、優秀な助手たちですよ。非科学的なシナリオを許さない、ね」
王都の闇に巣食うサイコパスヒロインとの戦いは、まだ終わっていない。
だが、科学と論理のメスは、確実に彼女の作り出す幻想を切り裂き始めていた。




