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近衛騎士団の野外訓練場は、突如として発生した低級魔物フォレスト・ウルフの暴走騒ぎにより、完全に機能不全に陥っていた。
負傷した次期騎士団長候補のカイルと、彼にすがりついて泣き崩れるマリアは、すでに数名の騎士たちに付き添われて医務室へと運ばれている。
残された下級騎士たちが、討伐された魔物の死骸の処理と現場の封鎖に追われ、慌ただしく右往左往していた。
「……警備の連携が全く取れていませんね。王都の武力を担う騎士団が聞いて呆れる」
訓練場を見下ろす監視塔の陰から、レオンが気怠げに呟いた。
「好都合ですわ。今のうちに、あの女が落とした証拠を回収してしまいましょう」
セシリアが令嬢らしからぬ身軽さで監視塔の階段を降りながら応じる。
「ルナ。匂いの発生源は、第三の柱の根元で間違いないですね」
「愚問ニャ。私の鼻のナビゲーションは、本庁の魔導探知機より百倍正確ニャ」
三人は気配を殺し、混乱する騎士たちの死角を縫うようにして、演習場の防護柵の裏側へと忍び寄った。
マリアが悲鳴を上げてへたり込んでいた場所。
そこには、ルナの言葉通り、無残に踏み荒らされた芝生の上に、キラキラと光る小さなガラスの破片が散らばっていた。
「ありました。小さなアンプル瓶の破片です」
レオンはしゃがみ込み、懐からピンセットと証拠品を入れるための小さなガラス管を取り出した。
「セシリア。風で匂いの成分が飛ぶと厄介だ。俺の背後に回って、コートの裾を広げて風除けになってください」
「わ、わかりましたわ」
セシリアはレオンの背中に回り込み、彼の黒いコートの裾を両手で掴んで広げた。
必然的に、彼女の体はしゃがみ込んでいるレオンの背中に覆い被さるような、極めて密着した体勢になる。
「……ちょ、ちょっとレオン。これでは、私があなたに抱きついているみたいではありませんこと?」
「自意識過剰です。誰も俺たちのことなど見ていません。それに、君のドレスの布地は風を通しにくい上質なシルクだ。最適な防風壁として機能していますよ」
レオンは振り返りもせず、ピンセットで慎重にガラスの破片を拾い集めていく。
「それに、君の体温が背中から伝わってきて、手先の冷えが解消されています。精密なピンセット作業にはちょうどいい」
「〜〜〜っ! またそうやって、女性の体を便利な道具みたいに……!」
「お嬢様を風除けにするなニャ! この変態公務員、私が代わりに……」
「ルナは周囲の足音の警戒を。獣人の君が動けば、余計な風が起きて揮発性の成分が飛びます」
レオンの合理的すぎる指示に、ルナは「ぐぬぬ……」と唸りながらも、大人しく耳をそばだてて周囲の警戒に戻った。
セシリアは顔を真っ赤にしながらも、文句を飲み込んでレオンの背中にぴたりと身を寄せ続けた。
腹立たしいが、彼の言う通り、今は証拠の保全が最優先だ。
レオンの背中から伝わる規則正しい呼吸の振動と、微かなインクの匂いが、セシリアの心臓の音を少しずつ早めていく。
(……冷静になりなさい、私。これはただの捜査活動ですわ。変な意識をする方が負けですわよ……)
セシリアが必死に自分に言い聞かせている間に、レオンは手際よくガラスの破片と、薬品が染み込んだ土をガラス管に回収し、密閉のコルクで蓋をした。
「はい、採取完了です。風除け、ご苦労様でした」
レオンが立ち上がると、セシリアはホッと息を吐きながら、慌てて数歩後ずさった。
「採取できたのなら、さっさとこの場を離れますわよ。誰かに見つかったら面倒ですもの」
「ええ。特命資料室に戻って、このアンプルの中身を『科学的』に丸裸にしてやりましょう」
三人は再び誰の目にも留まることなく、野外訓練場を後にした。
王都警視庁の地下にある特命資料室に戻ると、レオンは休む間もなく、部屋の片隅に設置された簡易的な実験台に向かった。
ビーカーや試験管、謎の薬品が並ぶその一角は、彼が『有機的なデータベース』と呼ぶゴミの山とは違い、恐ろしく整然としている。
「さて、あの女が使った魔法の正体を見せてもらいましょうか」
レオンは採取したガラス管から土を少量取り出し、ビーカーに入れた純水に溶かした。
そこへ、抽出用の試薬を数滴垂らし、アルコールランプで静かに加熱していく。
セシリアとルナは、その様子を固唾を飲んで見守っていた。
「……レオン。魔法の薬や毒の鑑定なら、魔法省の専門機関に任せた方が確実ではありませんの?」
「駄目ですよ。あそこの連中は、魔力波長の測定しかしない。もしこの薬が魔力を一切持たない純粋な『化学物質』だった場合、ただの泥水として処理されて証拠隠滅されるだけです」
レオンは試験管を軽く振りながら、冷徹な目で液体の色の変化を観察した。
「魔法が存在する世界だからこそ、人間は目に見えない魔力にばかり気を取られ、物理的な化学反応を見落とす。あのサイコパスヒロインは、そこを突いているんです」
やがて、ビーカーの中の透明な液体が、不気味な赤紫色へと変色し始めた。
「……出ましたね。アルカロイド系の反応です」
レオンは火を止め、ピンセットで試薬の染み込んだ試験紙を取り出した。
「どういうことですの?」
「この匂いと変色反応。これは『マンドラゴラの根』の抽出液をベースに、何らかの興奮剤を混ぜ合わせた合成麻薬ですね」
レオンの言葉に、セシリアの顔色が変わった。
「マンドラゴラ……!? 確か、微量なら鎮痛剤になりますが、使い方を間違えれば強烈な幻覚と依存性を引き起こす禁忌の植物ですわ!」
「その通り。一部の裏社会では、これを精製して『惚れ薬』と称して売り捌いている連中もいます。対象の判断力を鈍らせ、最初に見た人間に強い依存と執着を抱かせる、悪魔のような化学物質ですよ」
レオンは試験紙をガラスのシャーレに置き、深く息を吐いた。
「マリアは、この薬を香水に混ぜて日常的にカイルに嗅がせていたのでしょう。そして今日の訓練で、魔物を狂暴化させる特殊なフェロモンを同時に使い、意図的にパニックを引き起こした」
「……薬物で判断力を奪い、恐怖のどん底に突き落とした後で、自分が『守られるべきヒロイン』として振る舞う。自作自演の吊り橋効果ですわね」
セシリアの言葉に、レオンは満足げに頷いた。
「完璧なプロファイリングです、助手さん。恐怖と薬物の依存性が合わさることで、カイルの脳内では『マリアを守ること』=『自分の生存意義』という異常な回路が完全に焼き付けられてしまった」
「許せませんわ。騎士の誇りを、そんな薬物と三文芝居で汚すなんて」
セシリアが、令嬢らしい怒りを込めてテーブルを強く叩いた。
「お嬢様の言う通りニャ! そんな卑怯な女、私が今すぐ引っ掻いてやるニャ!」
ルナも毛を逆立てて威嚇する。
「怒る気持ちはわかりますが、暴力で解決しても意味がありませんよ。洗脳されているカイル本人が、マリアを『命の恩人』だと信じ込んでいる以上、下手に手出しをすれば我々が悪者にされるだけです」
「では、どうするおつもりですの?」
セシリアの問いに、レオンは不敵な笑みを浮かべた。
「簡単ですよ。魔法の洗脳なら解呪の儀式が必要ですが、化学物質の依存なら、科学的な『中和剤』と『客観的なファクト』をぶつければいい」
レオンは再び実験台に向かい、今度は別の薬品を調合し始めた。
試験管から試験管へ、色の違う液体を移し替え、慎重に分量を量っていく。
その横顔は、いつもの気怠げなモブ捜査官ではなく、前世で数々の難事件を解決してきた天才犯罪心理学者のそれだった。
「明日の正午、近衛騎士団の査問会議が開かれます。カイルが魔物を討伐した経緯と、訓練場の安全管理についての報告会です」
レオンは手を動かしながら、淡々と作戦を語り始めた。
「当然、そこには『悲劇のヒロイン』であるマリアも、証人として出席するはずだ。大勢の騎士たちの前で、彼女はカイルとの美しい愛と絆を語り、自身の立場を盤石なものにしようとするでしょう」
「……その最高の晴れ舞台を、私たちがぶち壊すというわけですわね?」
セシリアの口角が、悪役令嬢特有の美しくも冷酷な弧を描いた。
「ええ。そのために、まずはカイルの体内から薬物の影響を物理的に排除する、即効性の中和剤を作ります。幻覚と依存のフィルターが外れれば、誇り高き騎士の脳は、必ずあの偽物のシナリオに矛盾を感じるはずですからね」
レオンは試験管を微かに揺らしながら、神経を尖らせて調合を続けた。
数種類の危険な劇薬を扱うため、彼の手は一瞬の震えも許されない。
「……ふう。これで中和剤のベースは完成だ。あとは結晶化させるだけですが……あー、糖分が足りない。脳の処理速度が落ちてきました」
レオンがふらりと実験台に手をつき、死んだ魚のような目で天井を仰いだ。
「全く、あなたは本当に……。ルナ、今日の配給のお菓子を持ってきてちょうだい」
セシリアが呆れたように溜息をつくと、ルナが部屋の奥から小さなタッパーを持ってきた。
中には、セシリアが焼いた一口サイズのアールグレイ風味のクッキーが入っている。
「ほら、口を開けなさいな。あなたの手は今、劇薬まみれでクッキーに触れませんでしょう」
セシリアはタッパーからクッキーを一つ指でつまみ、レオンの口元へと差し出した。
「……助かります」
レオンは全く躊躇することなく、セシリアの指先から直接クッキーをパクリと咥え込んだ。
「ひゃっ……!?」
その瞬間、レオンの柔らかい唇が、セシリアの指先に微かに触れた。
「な、ななな……何をしていますの、あなたっ!」
セシリアは顔から火が出るほど赤くなり、弾かれたように手を引っ込めた。
「何をって、君が食べさせてくれたんでしょう。……うん、アールグレイの香りと、バターの塩分比率が絶妙だ。疲労した脳にダイレクトに効きますね。もう一つお願いします」
レオンは咀嚼しながら、ごく当たり前のように要求してくる。
彼の表情には、微塵の照れも邪心もなく、ただ純粋な『糖分への欲求』と『業務効率の追求』しかなかった。
「も、もう一つって……! 自分で食べなさい! この、無自覚な変態公務員!」
「シャァァッ! お嬢様の指を舐めるなニャ! 殺すニャ!」
セシリアが顔を真っ赤にして怒鳴り、ルナが箒を振り回してレオンの背中を叩く。
「痛っ。……なぜ餌付けをしてくれたのに怒られるのか、俺のプロファイリング能力でも全く解明できない。やはり女心は迷宮ですね」
レオンは不思議そうに首を傾げながら、完成した中和剤の小瓶を光に透かして見た。
「まあいいでしょう。これで、対サイコパスヒロイン用の物理兵器は完成です」
レオンの目が、再び冷徹な捜査官の光を取り戻す。
「さあ、助手さんたち。明日は騎士団の査問会議に殴り込みですよ。あの稚拙なシナリオを、科学と論理で完膚なきまでに叩き潰してやりましょう」
「ええ。大勢の観衆の前で、あの女の化けの皮を剥がしてやりますわ」
セシリアもまた、赤くなった頬を冷ましながら、不敵な笑みを浮かべた。
魔法が支配する世界で、洗脳という名の悪意を打ち砕くための準備は整った。
次なる舞台は、誇り高き騎士たちが集う厳粛な会議室。
モブ捜査官と元・悪役令嬢の、圧倒的なファクトによる反撃が、いよいよ始まろうとしていた。




