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 王都警視庁の地下に位置する特命資料室。


 いつもは甘い紅茶の香りが漂うその部屋に、今日はホワイトボードのマーカーが走る乾いた音が響いていた。


「催眠や洗脳というものは、決して魔法のようなオカルトではありません。人間の脳のバグを突く、極めて論理的で科学的なハッキングです」


 レオンはホワイトボードに『孤立』『疲労』『薬物』という三つの単語を書き殴り、それをペン先でトントンと叩いた。


 ソファーに座るセシリアと、その背後に控えるルナは、真剣な表情でレオンの講義に耳を傾けていた。


「あの堅物で知られる近衛騎士団長候補、カイル様が、マリアの完全な支配下に置かれている。その事実を解明するためのプロファイリングですね」


 セシリアが腕を組み、かつての婚約者候補であった青年の異常な状態を思い返して眉をひそめる。


「ええ。昨日、本庁の中庭で観察した結果、カイルの症状は典型的な『ガスライティング』と『薬物投与』の複合によるマインドコントロールだと断定しました」


「ガスライティング、とはなんですの?」


「被害者にわざと誤った情報を与え続け、自分自身の記憶や正気を疑わせる心理的虐待の一種です」


 レオンはホワイトボードに図解を描きながら、淡々と説明を続ける。


「例えば、マリアがカイルの私物をこっそり隠し、『あなたが自分で失くしたのよ、最近疲れているんじゃない?』と優しく囁く。これを日常的に繰り返されると、カイルは『自分は記憶力や判断力が落ちているダメな人間だ』と錯覚し始めます」


「……なんという陰湿な手口。誇り高き騎士の自尊心を、根本からへし折る気ですのね」


 セシリアの顔に、明らかな嫌悪感が浮かんだ。


「その通り。そして自尊心が折れ、孤立したところに、微量の筋弛緩剤や幻覚作用のある薬物を仕込んだ香水、あるいは紅茶などを投与する。するとどうなるか」


「……体が思うように動かなくなり、さらに判断力が鈍るニャ」


 ルナが耳を伏せて答えると、レオンは満足げに頷いた。


「正解です。肉体的にも精神的にも追い詰められた被害者の前に、マリアが『私だけはあなたの味方よ』と絶対的な救済者として振る舞う。これで、依存関係の完成です」


 レオンはマーカーを置き、ホワイトボードの文字を冷徹に見据えた。


「魔法の魅了チャームなどという非論理的なものではない。あのサイコパスヒロインは、人間の精神を薬物と心理学で破壊し、自分の都合の良い手駒に作り変えているんです。極めて悪質で、そして稚拙なシナリオだ」


「許せませんわ。人間の尊厳を弄ぶなど、いかにゲームの主人公であろうと看過できるものではありません」


 セシリアは立ち上がり、令嬢らしい毅然とした態度でレオンを見据えた。


「レオン。その洗脳を解く方法はありますの?」


「洗脳の解除ディプログラミングには、被害者に『自分が騙されているという客観的な事実ファクト』を突きつけるのが一番です」


 レオンはコートを羽織り、ポケットに愛用の双眼鏡とルーペを突っ込んだ。


「これから、近衛騎士団の野外訓練場に向かいます。今日はカイルが指揮を執る、魔物を使った実戦訓練があるはずだ。マリアがカイルを完全に支配するために、必ず何か『決定的なイベント』を仕掛けてくる」


「決定的なイベント?」


「ええ。乙女ゲームのシナリオなら、洗脳を深めるための『吊り橋効果』を狙うはずです。例えば……暴走した魔物から、カイルが命懸けでマリアを守る、といった三文芝居ですね」


 レオンの予測に、セシリアは呆れたように息を吐いた。


「自作自演で危機を作り出し、自分を守らせることで、カイル様の『騎士としての存在意義』を自分一人に依存させるつもりですのね」


「その通り。その稚拙な手品を、科学の光で丸裸にしてやりましょう。さあ、助手さんたち、出番ですよ」


 三人は特命資料室を後にし、王都の郊外にある近衛騎士団の野外訓練場へと向かった。


 訓練場は広大な森に隣接しており、高い柵で囲まれた演習場では、若き騎士たちが剣を振るい、魔法の詠唱訓練を行っていた。


 レオンたちは正規のルートではなく、ルナの案内で演習場を見下ろせる古い監視塔の屋根裏部屋へと忍び込んでいた。


 もともと資材置き場として使われていたその空間は、大人三人が入るにはあまりにも狭すぎた。


「……ちょっと、レオン。近いですわ。もう少しそちらに寄れませんの?」


 埃っぽい屋根裏部屋の床に腹這いになりながら、セシリアが真っ赤な顔で抗議する。


 小窓から演習場を監視するためには、どうしても身を寄せ合う必要があった。

 だが、レオンの体はセシリアにぴったりと密着しており、彼が呼吸をするたびに、その熱い吐息がセシリアの耳元をかすめるのだ。


「無茶を言わないでください。右にはルナが張り付いていて、これ以上動けません」


 レオンは双眼鏡を構えたまま、全く悪びれる様子もなく答えた。


「それに、君の心拍数が無駄に上昇しているせいで、この狭い空間の酸素消費量が通常の一・五倍に跳ね上がっています。ただでさえ換気が悪いんですから、副交感神経を優位にして呼吸を落ち着かせてください」


「だ、誰のせいで交感神経が昂っていると思っているんですの! この無神経な不良債権!」


 セシリアが極小の声で怒鳴り、レオンの脇腹を肘で小突く。


「痛っ。……セシリア、動かないでください。ちょうどいい」


「はぁ!? 何がちょうどいいんですの!」


「あなたの鎖骨と肩のラインが、この重い双眼鏡を固定するための『銃架バイポッド』として完璧な高さと安定感を持っています。そのまま、あと十分ほど息を止めてもらえると助かりますね」


 レオンはあろうことか、セシリアの華奢な肩の上に自分の腕を乗せ、双眼鏡をガッチリと固定してしまった。


「〜〜〜〜っ! レオン! 私の体を三脚代わりに……っ!」


「お嬢様を三脚扱いするなニャ! この変態公務員、私が今すぐ屋根から突き落としてやるニャ!」


 ルナが鋭い爪を立ててレオンの背中に飛びかかろうとする。


「静かに。……対象が動きました」


 レオンの冷徹な声色に、二人はハッとして演習場へと視線を戻した。


 演習場の中央では、白銀の鎧を着たカイルが、捕獲された低級魔物である『フォレスト・ウルフ』との模擬戦を行おうとしていた。


 本来なら、次期騎士団長候補であるカイルにとって、ウルフ一匹など児戯に等しい相手だ。

 しかし、双眼鏡越しに見るカイルの動きはひどく鈍く、剣を構える手は小刻みに震えているように見えた。


「……やはり、自律神経がおかしくなっていますね。薬物の継続投与によって、慢性的な疲労と筋力低下を引き起こされている」


 レオンの冷静な分析の通り、カイルの剣筋は精彩を欠き、ウルフの鋭い爪をギリギリで避けるのがやっとの状態だった。


 そして、その演習場の片隅。

 安全な防護柵の向こう側から、ピンク色のドレスを着たマリアが、両手を組んで祈るようなポーズでカイルを見つめていた。


「カイル様……! 頑張って……!」


 鈴を転がすような可憐な声が、風に乗って微かに聞こえてくる。


「虫酸が走る芝居ですわ。あんな薬物漬けの状態にしておきながら、純真な乙女の顔で応援するなんて」


 セシリアが軽蔑の籠もった声で吐き捨てる。


 その時だった。


「……ニャッ!? お嬢様、あの女、妙なものを隠し持ってるニャ!」


 ルナの獣人の目が、マリアの手元を正確に捉えた。

 マリアは組んだ両手の中に、小さなガラスの小瓶アンプルのようなものを隠し持っていたのだ。


 そして、彼女は周囲の騎士に気づかれないよう、その小瓶を指先でパチン、と割った。


「ルナ。匂いはわかりますか」


「……わかるニャ。風に乗って、ひどく甘ったるい、腐った果実みたいな匂いが……ウッ、鼻の奥が痛いニャ」


 ルナが顔をしかめて鼻を覆う。


「なるほど。誘引フェロモンの一種ですね」


 レオンが呟いた次の瞬間。


「グルルルルァァァッ!!」


 演習場の中央にいたフォレスト・ウルフの瞳が、突如として真っ赤に血走り、異常な咆哮を上げた。

 魔物は目の前にいるカイルを完全に無視し、防護柵の向こう側にいる『マリア』に向かって一直線に突進を始めたのだ。


「なっ……魔物が暴走したぞ!」

「マリア嬢が危ない! 柵を越える気だ!」


 周囲の騎士たちがパニックに陥る中、マリアは逃げようともせず、ただその場にへたり込み、悲鳴を上げて顔を覆った。


「いやあああっ! カイル様、助けてぇっ!」


 完璧に計算された、か弱い悲劇のヒロインの悲鳴。

 その声は、洗脳状態にあるカイルの脳の奥底に、ある種の『トリガー』として響いたはずだ。


「マリア……ッ!!」


 カイルは焦点の合わない目を血走らせ、常軌を逸したスピードで魔物とマリアの間に飛び込んだ。

 そして、魔物の鋭い爪を自身の左腕で受け止めながら、右手の剣で魔物の首を深く切り裂いた。


 鮮血が舞い、魔物が絶命して地面に倒れ伏す。


「カ、カイル様……! 私のために、腕を……っ!」


 マリアが嘘の涙を流しながら、カイルの血まみれの腕にすがりつく。


「大丈夫だ、マリア……。君は、私がいなければ……私が、君を一生守る……」


 カイルは痛覚すら麻痺しているのか、うわ言のように繰り返しながら、マリアを力強く抱きしめた。


 演習場は、命懸けで愛する少女を守り抜いた騎士の、感動的な空気に包まれていた。

 周囲の騎士たちも、その美しい自己犠牲の姿に感嘆の溜息を漏らしている。


「……反吐が出ますわね」


 監視塔の小窓からその茶番を見下ろしていたセシリアが、心底冷え切った声で呟いた。


「魔物に興奮剤とフェロモンを嗅がせて意図的に暴走させ、カイル様を壁にして自分を守らせる。これでカイル様は、『マリアを命懸けで守った』という強烈な成功体験と、彼女への依存をさらに深めることになりますわ」


「その通りです。恐怖と救済をセットで与える、洗脳の最終段階ですね」


 レオンは双眼鏡を下ろし、監視塔の暗がりの中でニヤリと不敵に笑った。


「ですが、彼女は致命的なミスを犯した。あのガラスの小瓶アンプルの破片と、そこに付着した誘引フェロモンの成分。それが現場に残されている限り、あの現象が『魔法の暴走』ではなく『化学的な誘導』であるという物理的証拠ファクトになります」


 レオンは立ち上がり、コートの埃を払った。


「ルナ。あの女が割った小瓶の破片の正確な位置と、匂いの成分、特定できますね?」


「愚問だニャ。私の鼻を舐めるなニャ。柵の手前、三番目の柱の根元に落ちてるニャ」


 ルナが自信満々に尻尾を揺らす。


「上出来です。セシリア、カイルが腕の治療で医務室に運ばれ、現場が手薄になった隙を突いて、証拠の採取を行います。あなたのその無駄に高い記憶力で、現場の配置を完璧に頭に叩き込んでください」


「無駄とはなんですの、無駄とは。ですが、任せておきなさい。あの女の稚拙な三文芝居の小道具、すべて回収して差し上げますわ」


 セシリアもまた、悪役令嬢としての誇り高き笑みを浮かべて立ち上がった。


「さて、証拠集めの時間です。あの狂ったサイコパスヒロインに、科学と論理の力で『ゲームオーバー』を突きつけてやりましょうか」


 レオンの冷徹な号令と共に、三人は監視塔を滑り降りた。


 魔法が支配する世界で、洗脳という名の悪意を打ち砕くための、物理的な反撃が今、静かに始まろうとしていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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次回お楽しみに。

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