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 王都警視庁の地下にある特命資料室は、その日、異様な緊張感に包まれていた。


「……セシリア。俺の机の三段目の引き出しに入っていた、王室御用達の高級砂糖漬けフルーツが消えているんですが」


 ソファーに深く腰掛けたレオンが、死んだ魚のような目をさらに濁らせて呟いた。


「ええ、私が没収しましたわ。それだけではありません。戸棚の奥のハチミツ壺も、書類の束の裏に隠してあったクッキー缶も、すべて私の管理下に置かせていただきました」


 セシリアは腕を組み、元・悪役令嬢らしい毅然とした態度で見下ろしてくる。


「……横領ですか? 警察機構の内部で窃盗とは、いい度胸ですね。今すぐ手錠をかけましょうか」


「ふざけないでくださいな。これは優秀な助手としての、正当な『上司の健康管理』ですわ!」


 セシリアはバンッと机を叩いた。


「昨日のあなたの食事、朝はシロップまみれのパンケーキ、昼は激甘マカロン三つ、夜は砂糖の塊のような紅茶だけでしたわね! 栄養学の観点から見て、どう考えても異常です! このままでは血管が詰まって死にますわよ!」


「俺の脳はブドウ糖のみを燃料とするハイブリッド仕様なんです。それに、死亡リスクよりも現在の集中力低下による業務効率の悪化の方が、直近の課題として重大です」


「言い訳は無用です! 今日からおやつの配給は、一日一回、午後三時のティータイムのみとさせていただきます!」


 セシリアの絶対君主のような宣言に、レオンは深い溜息をついた。


「……ルナ。君は獣人としての野生の勘で、この横暴な令嬢の隠し場所がわかるでしょう。クッキー缶を奪還してくれたら、夕飯に最高級の魚を焼いてやりますよ」


 レオンが助けを求めると、部屋の隅で箒を持っていたルナが、ピクッと猫耳を動かした。


「……最高級の魚、ニャ?」


 ルナの琥珀色の瞳が揺らぐ。

 しかし、彼女はブルブルと首を振り、セシリアの隣にスッと並び立った。


「だ、騙されないニャ! お嬢様の決定は絶対ニャ! 私はお嬢様の忠実なメイドとして、この部屋の甘いものを死守するニャ!」


「……チッ。買収失敗ですか。飼い犬に手を噛まれるとはこのことですね」


「私は犬じゃなくて猫ニャ!」


 レオンは乱れた髪を掻き乱し、のっそりと立ち上がった。

 そして、セシリアに向かってゆっくりと歩み寄っていく。


「な、なんですの。力ずくで奪おうとしても無駄ですわよ」


 セシリアが一歩後ずさるが、背中がすぐに壁際の本棚にぶつかってしまった。

 逃げ場を失った彼女の目の前に、レオンが長身を屈めて迫る。


 ドン、と。

 レオンの右手が、セシリアの顔のすぐ横、本棚の枠を突いた。

 いわゆる『壁ドン』の体勢である。


「なっ……!?」


 セシリアは顔を真っ赤にして息を呑んだ。

 至近距離にあるレオンの黒い瞳が、獲物を狙うように自分を見下ろしている。

 彼の規則正しい呼吸が肌に触れ、微かなインクと男らしい香りが鼻腔をくすぐった。


(ち、近いですわ……! まさか、本当に力ずくで……っ!?)


 乙女ゲームの知識を持つセシリアの脳裏に、数々のロマンチックな(あるいは強引な)シチュエーションが駆け巡る。

 心臓が警鐘のように早鐘を打ち始め、セシリアは思わずギュッと目を閉じた。


「……セシリア」


「わ、私は屈しませんわよ……っ!」


「どいてください。君の頭の後ろの本棚の隙間に、非常食用のチョコレートバーが隠してあるんです」


「…………は?」


 セシリアが目を開けると、レオンの視線は彼女ではなく、彼女の頭越しの『本棚の奥』に完全に固定されていた。

 彼はただ、隠し場所への最短距離(最適な軌道)を確保するために、邪魔なセシリアを壁際に追いやっただけだったのだ。


「そこをどかないと取れないでしょう。それとも、わざと俺を焦らしているんですか? 悪趣味ですね」


「〜〜〜〜〜っ! この、絶望的な朴念仁!!」


 セシリアは羞恥と怒りで顔を沸騰させると、持っていた羽ペンでレオンの胸板を思い切り小突いた。


「痛っ」


「あなたのそのデリカシーの欠如こそ、深刻な生活習慣病ですわ! チョコレートは没収です! 一生そこで糖分不足に喘いでいなさい!」


 セシリアは本棚の隙間から見事にチョコレートバーを抜き取ると、怒り心頭で足音荒く資料室の奥へと消えていった。


「……どうしてお嬢様が怒ったのか、本気でわかってないニャ?」


 一部始終を見ていたルナが、呆れたようなジト目でレオンを見上げる。


「女心というものは、どんな凶悪犯の心理より難解ですね。プロファイリングの手法を一から見直す必要がありそうだ」


 レオンはため息をつきながら、再びソファーに沈み込んだ。


 理屈と合理性だけで生きてきた天才心理学者にとって、この元・悪役令嬢がもたらす『感情のノイズ』は、どうしても計算式に当てはまらない。

 だが、それがひどく不快かと言われれば、そうでもない自分がいることに、レオン自身もまだ気づいていなかった。


 午後。


 糖分不足で極端に口数の減ったレオンは、バートン執事の横領事件に関する最終報告書を提出するため、警視庁の本庁舎を訪れていた。


「……公爵家の筆頭執事が、横領と偽造の罪で逮捕だと? しかも、本庁の人間が誰も知らない間に、所轄のヒラがお手柄を独り占めしたというのか!」


 報告書を受け取った本庁の捜査課長が、血走った目でレオンを睨みつける。

 貴族の不祥事は本来、上層部が慎重に根回しをしてから処理するものだ。それを客観的な証拠と共にいきなり突きつけられ、もはや揉み消すことすらできない状況に、上層部は苛立ちを隠せないでいた。


「俺は事実ファクトを提出しただけです。その後の政治的な処理は、優秀な本庁の皆様にお任せしますよ」


 レオンは気怠げに一礼すると、課長の怒鳴り声を背中で聞き流しながら、さっさと退室した。


(あー、疲れた。早く帰って、セシリアの淹れた紅茶を飲みたい……)


 糖分への渇望に思考を支配されながら、本庁舎の重厚なエントランスを抜けて中庭へと出る。


 そこは、王立騎士団の訓練場と隣接する広い広場だった。

 白銀の鎧に身を包んだ精鋭たちが、剣を振るう金属音が響いている。


 レオンが訓練場を横切ろうとした、その時だった。


「……カイル様。お疲れ様ですわ」


 甘ったるく、どこか耳にへばりつくような少女の声が聞こえた。


 レオンは足を止め、広場の隅の木陰へと視線を向ける。


 そこにいたのは、可憐なピンク色のドレスを着た少女、マリアだった。

 この乙女ゲームの主人公であり、自身の欲望のために他者を破滅に導くサイコパス。

 第一話でセシリアを階段から突き落とすという稚拙な偽装工作をレオンに看破され、逃げ帰ったはずの女だ。


 そして、彼女の目の前に立っている長身の男。

 近衛騎士団長の息子であり、次期団長候補と目される青年、カイル・フォン・ブラントである。


 カイルは本来、規律を重んじ、女性に対しては常に一定の距離を保つ厳格な騎士として知られている。ゲーム内でも、攻略が非常に難しい『堅物キャラ』の立ち位置だったはずだ。


 だが、今のカイルの様子は、どう見ても異常だった。


「マ、マリア嬢……。わざわざ、私の訓練を見に来てくれたのか?」


 カイルの声は熱に浮かされたように上擦り、その長身を縮こまらせるようにしてマリアを見つめている。


「ええ。カイル様の剣筋、本当に美しくて……私、見惚れてしまいました」


 マリアが上目遣いで微笑み、自らの白いハンカチでカイルの額の汗を拭おうと手を伸ばす。


 普通であれば、厳格な騎士は「非番中の接触は控えていただきたい」と下がる場面だ。

 しかし、カイルはされるがままに立ち尽くし、恍惚とした表情を浮かべていた。


(……おかしいですね)


 木陰からその様子を観察していたレオンの目が、冷徹なプロファイラーのそれへと切り替わる。


 レオンはカイルの『顔の筋肉』と『目の動き』を詳細に分析し始めた。


 人間が好意を寄せる相手と接する時、通常は喜びの微表情(大頬骨筋の引き上げ)と共に、わずかな照れから視線が自然に左右に散るものだ。


 しかし、カイルの視線はマリアの顔の『一点』に完全に固定されており、瞬きの回数が極端に少ない。いわゆるトンネルビジョン(視野狭窄)の状態に陥っている。


 さらに、顔の筋肉が不自然に弛緩しており、自律神経のバランスが崩れている証拠である『異常な瞳孔の散大』が見て取れた。


(あの瞳孔の開き方と、顔面筋の弛緩……。恋愛感情による興奮状態ではありませんね。あれは交感神経が強制的に書き換えられた、一種の『催眠トランス状態』に近い)


 マリアはカイルに甘い言葉を囁きながら、時折、彼から一歩離れたり、また近づいたりという不規則な動きを繰り返していた。


(距離の操作による心理的揺さぶり。典型的なガスライティングの手法に加えて……何か、物理的なトリガーを使っているな)


 レオンは風向きを確認し、鼻を微かに動かした。

 マリアが動くたびに、花の香りとは違う、甘く薬品臭い微かな匂いが風に乗って漂ってくる。


(特定のフェロモンか、あるいは揮発性の微弱な幻覚剤。なるほど、乙女ゲームの『魅了チャーム』という魔法は、化学物質と心理学を組み合わせた後天的な洗脳マインドコントロールとして機能しているわけですか)


 カイルは完全に、マリアの支配下に置かれている。

 王太子アルベルトに続き、近衛騎士団という王都の『武力』の中枢までが、あのサイコパスヒロインの手に落ちようとしているのだ。


「……チッ。稚拙なシナリオのくせに、随分と面倒な手を打ってきますね」


 レオンはそれ以上観察するのをやめ、足早に警視庁の中庭を後にした。


 特命資料室に戻ると、部屋の中は先ほどの険悪な空気が嘘のように、心地よい紅茶の香りに満たされていた。


「遅かったですわね、レオン。……どうしましたの、ひどく難しい顔をして」


 セシリアが、淹れたての紅茶と、約束通り一つのクッキーが入った小皿を机に置きながら尋ねた。


 レオンは無言で椅子に座り、クッキーを一口で放り込む。

 脳内に急速に糖分が供給され、思考がクリアになっていくのを感じながら、彼は口を開いた。


「セシリア。君のかつての婚約者候補の一人、近衛騎士団長のカイルについて、どれくらい知っていますか」


「カイル様? 真面目で融通の利かない、剣の鍛錬しか頭にないような方ですわ。それがどうかしましたの?」


 セシリアが怪訝な顔で首を傾げる。


「その堅物の騎士様が、今、マリア嬢の完全な洗脳下に置かれています。王都の武力が、あのサイコパスの個人的な手駒になりつつあるということです」


 レオンの報告に、セシリアとルナの表情がサッと険しくなった。


「洗脳って……魔法ですかニャ!?」


「いいえ。魔法なんて便利な言葉で片付けてはいけません。あれは心理学と化学物質を用いた、極めて論理的で悪質な『精神の破壊』です」


 レオンはティーカップを置き、黒板の前に立ってチョークを手にした。


「次の現場検証のターゲットが決まりました。我々の特命資料室は、これより騎士団長候補のマインドコントロールを『科学的』に解除する作戦に移行します」


 レオンの目が、不敵な光を帯びて細められる。


「あの狂ったヒロインの描く三文芝居のシナリオを、正面から論破して叩き潰してやりますよ。準備はいいですね、助手さん」


「ええ、望むところですわ。王太子殿下の時のように、あの女がぐうの音も出ないほどの証拠を突きつけて差し上げましょう」


 セシリアが、元・悪役令嬢としての誇り高き笑みを浮かべる。


 魔法の世界で、論理と科学を武器とする三人の次なる戦いが、今、静かに幕を開けようとしていた。


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