焦がせよ稲光 上の段 美晴 その2
時間を確認すると予定の時間が迫っていた。支度を急ぎで終え家を出ると、無意識に能見が住んでいた隣の空き部屋を一瞥して、姿を隠す追跡者からにげるようにマンションを出た。普段と違う暗澹とした雰囲気に包まれたこの場所からいつまでも外に出れないような気がして、黒く染まるエレベーターの中を何週も何週も回る。無事に一階に到着し胸をなでおろす暇もなく、存在を示しつつ眼に映らない追跡者から逃げるようにマンションの外に出た。公道に出てようやく一安心して振り返るとそこに聳え立つのは静寂を司る鉄の箱。Tをはるか上から見下すその箱には畏怖と、絶望と、どこか惹きつけるような暖かさ。まるでTを予定とやらに行かせまいと躍起になっているその様が、帰ってマンションをTの目に大きく映した。Tはそれに怯懦して足早に彼女のもとへと向かった。
時間ギリギリに約束の場所であった駅につくと、晴美は既に到着していた。久しぶりと声をかけてくる彼女を見ても、気分は良くならなかった。てきとうな会話を半ば義務感で行い、イタリアンの店に向かった。洒脱で落ち着いた雰囲気。地下へ向かう階段を照らすランタンはのほの明るい。この明るさは憂鬱な気分のせいで駅周辺のネオンにあてられたTにとっていい塩梅だった。
隅のほうに姿を現した暗がり。ランタンの炎が一つ消えた後、紫色の炎を灯している。どろどろと燃える紫焔は気を待つようにランタンの中からこちらを見つめている。
席に着いてからも物思いにふけっているTを見かねて「大分落ち込んでるけど、なんか嫌なことでもあった?」と晴美が言った。「なにもないよ。そっちこそなんか悩んでるから俺にそう投影するんじゃないの??」「全然そんなことないわよ!いまだって苦笑いバレバレだからね!ま、それは置いといてなに頼むかさっさと決めちゃいましょう!」そういって楽しそうにメニューを選び始めたのだった。
後ろで団子にまとめた黒い髪。服にあしらわれた百合の花。言動や表情に人の好さや明るさが見える。純粋さを持ち合わせながら、一人でも生きていける力強さも持っている。持ち前の明るさの中に思慮深さが感じられた。女性としての魅力もさることながら、一人の人間として尊敬できる誇らしい彼女だった。
一緒に街を歩くときなんか誇らしくてたまらなかった。大げさに笑って、周りに仲の良さをアピールしたりもしていた。でも、今日はそんなことがどうでもいい。興奮と葛藤が入り混じったカオスの包囲網に囲まれていた。
Tは水のことも能見の件も自分の件もすべて何もかも晴美に話をする気が起きなかった。Tは晴美が聞く耳を持ってくれないだろうという浅い予測や信じたとしてどうにもならないから話す気が起きないんだ!と自分に言い聞かせたが、それは結論を補助するための後付けの理由に過ぎなかった。信じてもらえなくたって問題はないし、会話というのはどうにもならないことを話す時に真価を発揮するものだということをTは理解していた。
Tは彼女を信頼していない。自分で彼女を信頼してないという事実から目を背けたかったから、理由を付けてさも理論的に彼女に打ち明けない自分を肯定しようとしたのだ。もし信頼していないことを肯定したら、付き合ってからの約1年は灰燼と化し、自分という人間を恨んでしまっただろう。
もし今の状況で自分を恨んでしまおうものならば、それは最悪の結果にもつながり得るものだったが、この肯定はTの中で成功した。
自分のことをどうにも吐き出したくてたまらない。でも吐き出すことができない。軋轢がTを削る。
「私このパスタにする。ピザも頼んで二人で分け合おう!Tは何を頼む?」「じゃあ俺も同じのにしようかな。」「えー、ほかのにしてよ。パスタもちょっとづつ分け合お。」「そうだな、じゃあ俺はこれで。」店員にオーダーを伝え終えると、美晴の表情が少し重くなった。




