【第十七話】眼差しを超えて
流山珠悠は、学校近くの川辺に佇んでいた。すぐ目の前で水はさらさらと流れ、遠くで亀がのんびり泳いでいるのが見える。広場では、少年野球チームが試合をしているらしく、甲高い声が聞こえてくる。
よくある憩いの風景、のはずが、全く心は休まっていない。
その胸中には、迷いと怒りと戸惑いが、ぐるぐると渦巻いていた。
少し前、「常政律郎があの喫茶店にいる」という情報が弟の衛志から届いた。
それを見た瞬間こそ、珠悠の身体はぱっと動いた。
すぐに行こう。会って、とにもかくにも、お詫びの品を渡そう
その一心で学校を出たものの、歩いていくうちに頭が冷えて、考える余裕ができた。
そもそも、何故、弟が律郎の居場所を知っているのか。
(もしかして、ふたりが会って話をした……?)
毎日、衛志は家の中で会うたびに、律郎のことで何も知らないくせに適当なことを言うので、珠悠はイライラして邪険に接していた。そのことに腹を立てて、ついに本人のところへ乗り込んでしまったのか。
だとしたら、穏便な話し合いになるはずもない。衛志は刃物みたいな顔つきだし、喧嘩っ早いし、周囲から恐れられる部類の人間だ。恐怖を感じた律郎が、妙な約束を呑まされたのかも知れない。
例えば、珠悠を元文芸部員から外す、とか、金輪際近づかない、とか──。
考えれば考えるほど、珠悠の足取りは鈍っていき、ついには止まってしまった。
今、律郎と顔を合わせたら、この関係はちぎれてしまうかも知れない。
そう思うと、怖くてしょうがなかった。
だから、珠悠は視線を自然の風景に逃げ込ませた。川には水が流れ続け、亀は倣うように、時に抗うように泳いでいる。水鳥は安らうように水面に浮かび、対岸では背の高い雑草たちが風に揺れていた。
みんな、人特有のストレスからは無縁のように見えた。
珠悠はそのことに安心感を抱く。いつまでも、ここで景色を見ていていたかった。
(でも……)
これが、逃避でしかないことを、珠悠ははっきりと自覚していた。
時間が経つにつれて、胸のつかえは深まっていくばかり。
珠悠は、渡すつもりでしまっておいたプレゼントを、リュックから出してぎゅっと抱え込む。このプレゼントの存在が、珠悠の素直な気持ちを代弁していた。
(私は……常政くんとの今の関係を続けたいんだ……)
だからこそ、会いに行くのをためらってしまう。
これは──子どもっぽい、ワガママだろうか。
(きっと、そう……)
生理的に苦手な暴風の中を勇んで歩いたところで、結局、変わることのない自分の小ささに、珠悠は溜息を吐いた、その時。
カン、という音と共に、ワッと歓声があがった。
珠悠はそちらを見る。
白い球が打ち上げられていた。ホームラン級の当たりだった。クリーンヒットだったようで、少年の打った球といえど、なかなかの球威があるようだ。
(こっちに来てる……)
球の軌道は鮮やかに伸びて、珠悠の方へと向かっていた。
ぐんぐん近づき、視界の中で大きくなっていく球を、珠悠はぼーっと見つめていた。
──私と常政くんの関係も、こんな感じに、たまさかに打ちあがっただけのもの、なのかな……。
なんてことを、ふっと思った、その瞬間、視界に影が躍った。
珠悠は目を見開く。
勢いよく落ちてきた球は、珠悠の前に立ちふさがった影が差し伸ばした手に、吸い込まれ、バチン、と大きな音を立てた。
わずかに振り向いた横顔、眼差し。
見慣れたその色合いに、珠悠は呟きを漏らす。
「常政くん……」
こんなに胸が高まるとは、思わなかった。
スイマセーン、と少年が駆け寄ってきて、常政律郎は取ったボールを笑顔で投げ返した。それから、しかめ面をしてぶんぶん左手を振る。
「軟式でもいってえー……」
その様子に、珠悠は血の気がさっと引くのを感じた。
「つ、常政くん、手、大丈夫⁉」
咄嗟に駆け寄り、手を取る。球を取った衝撃で真っ赤になっていた。
その指に、小さな傷痕がある。過去の創傷──開いてしまったら、キーボードを叩けなくなるかも知れない。
なのに、律郎は軽い調子で言う。
「いやいや、このくらい平気平気」
「そんなのわからないよ……! あの球、ほっといても、私に当たるような軌道じゃなかったのに……どうして私なんかのために──」
言いかけて、珠悠ははっと口を噤んだ。
こういう時、衛志は『姉さんがボケっと突っ立ってるから』と怒る。今回のことも、確かに、ぼけっと突っ立っていた自分のせいだ。ちゃんと身を守ろうとしていれば……。
後悔した珠悠が、ごめん、と口を開きかけた時、先に律郎が思いつめた様子で言った。
「あのさ、流山……俺、無理だ」
「えっ……」
無理って──。
ぐら、と地面が崩れ、身体の浮くような心地がした。
頭が真っ白になった珠悠に、律郎は続けて言った。
「俺、流山のこと、見てると、守りたくなる」
予想の斜め上から来た言葉に、心臓が跳ねた。
「ど、どういうこと……」
律郎は韜晦するように、顔を背けて言う。
「なんか、流山ってほっとけないんだよ……世話を焼きたくなっちゃうというか。でも、台風の日に見て感じたんだけど……流山的には、ほっとかれたいんだろ?」
「……んん」
そう改めて問われるとかなり気恥ずかしくて、珠悠には俯くことしかできなかった。
違う……私は、放っておかれたいんじゃなくて……。
「……だから、嫌な気にさせないためにしようって思ったんだけど、顔を見ると……もうダメなんだよ。うちの親父がしたみたいに、構いたくなる。でも、それで流山が嫌な思いしたら意味ないし、それで──」
顔を合わせないようにしていた、と。
「そういう、こともあるんだ……」
流山は細い声で言った。
なんだか、律郎といると、そういう感想を持つことが多い気がする。そのたびに、焚火に冷えた手をかざした時のように、安心する。
「でも、さっきたまたま、流山がボールに当たりそうになってるところを見て、どうしても我慢できなかったんだ。守りたいって思って、身体が勝手に動いた……それで、嫌われてもいいって思ってさ」
律郎は自嘲するように笑って、珠悠を見た。
「でも、やっぱ嫌われるのはふつうに嫌だし──だから、ウザイなって思ったら、本当に素直に言って欲しい。あの……弟くんに向かって言うみたいにさ」
弟に言うみたいに──その一言を聞いて、頭が爆発したような衝撃が珠悠を襲った。
「なな、なんで知ってるの!」
「ええ、台風の時に校門で、こういうのいいからって怖い声で……」
聞かれてたの……。
珠悠は絶望して、両手で顔を覆った。それで律郎がドン引いて、よそよそしくなった、という、ただそれだけのことだったのだ。
(──でも、常政くんは、また、会いに来てくれた……)
こんな私、なんかでも。
珠悠はそっと、目だけ見えるように両手をずらした。律郎は、彼女を見つめている。その眼差しは固く、少し、震えていた。
彼は、勇気を出していた。
それを見て、珠悠の胸が、じんと揺れた。
幼かった頃の感情が蘇る。
迷子になったり、川に落ちたりした時、両親はいつもワッと駆け寄って来てくれた。珠悠はそうやって構われることに、安堵と気持ちよさを覚えていた。
そうしなければ、両親の興味は、たった2つ年下の弟に向きっぱなしだったのだ。
両親に心配してもらうために、構ってもらうために、珠悠は敢えて危険に身を晒していく。
だから、弟が珠悠に対して過保護気味になったことは、珠悠の自尊心に障った。
甘やかされたい珠悠を、甘やかされていた弟が見ている。弟の方が一足先に、大人になってしまったようで、裏切られたような気がして──子どものままなのが、自分だけな気がして、嫌な気持ちがした。
そのうち、珠悠は、見られる側から見る側に回ればいい、と思った。見られたいと思うなんて、子どもっぽいから──そうして、珠悠は、自分にとって心地良い風景を探すようになった。
満たされない気持ちから、逃げ込むために。
(私は、本当は、もっと守ってもらいたかった……)
過保護に扱われるのを拒むのは、自分の子どもっぽさを認めたくないから。
でも、本当は、知っている──守りたいと思ってくれることは、私のことを好いてくれている証で。
それが、かつて満たされなかった気持ちを埋め合わせてくれることも。
(私も、頑張らないと……)
珠悠は両手を顔から下ろした。ゆっくりと息を吐き出し、すっと空気を吸い込む。
それから、勇気を出して、口を開いた。
「いいよ……常政くん、なら」
向こう側の見えない壁を飛び越したような、浮遊感。
「常政くんなら、全然、嫌じゃない」
言ってしまった、と、身体のあちこちが熱くなった。
でも、きっと、こんなに熱くなって、怖いような気持ちになるのは、ずっと言いたくて抱え込んでいた、本音だからだ。
「だから……そんなこと気にしないで、私に、もっと見せて欲しい。常政くんが、お話を書いてるところ」
一思いに、駆け抜けるように言った。
放った声がどこまでも突き抜けていく。逸らせない視線がふたりを、ふたりきりの世界に捉えて離さない。
やがて、律郎の表情がふっと緩んで、笑顔になった。
「そっか。はぁ~、良かった」
そう言って胸を撫で下ろす。
珠悠はちょっと「あれ?」と思った。頑張った割には、リアクションがあっさりとしているような気がする、というか。
怪訝に思い、少し意地悪に訊いてみる。
「それは……また部室で作業できるようになる、から?」
律郎はきょとんとした顔をしたが、すぐに合点がいったように柔らかい表情をして、頷いた。
「いやいや、流山が嫌じゃないって言ってくれたから……これからは気兼ねなく顔を合わせられるって思ってさ。それに」
彼は一息ついてから、照れるように視線を逸らす。
「今書いてる話にエンドマークをつけられたら、流山に見せるって話になってたじゃん。それが、気づいたら、逆に流山が見てくれてることがモチベーションになってて。流山がいないと、書けないっていうか──」
「そ、そう、なんだ……」
あんまり律郎がクリーンヒットなことを言うので、珠悠はいそいそと相槌を打つ。なんだか、これ以上聞いていたら、頭が爆発してしまいそうだった。
あれ、もしかして、意識してるの私だけ──?
そう考えたら、恥ずかしさが急激に押し寄せてきた。
なにか、気を紛らわさないと羞恥に圧し潰されてしまう気がして、周囲をきょろきょろ見回した時、律郎に渡すつもりのお詫びの品の存在を思い出した。
(……あれ、私、プレゼントどうしたんだっけ……)
さっきまで、両腕で抱えてもっていた気がする、けど。
「うん? どうしたの」
挙動不審になっていたのか、律郎が首を傾げるので、珠悠は小さく跳び上がる。
「え、いや、あの、その……台風の日に迷惑かけちゃったから、お詫びの品を用意したんだけど」
「ええっ! そんなのいいのに」
「どっかいっちゃった……」
「えええっ! ど、どっかって──というか、割とさっきから気になってたんだけど、もしかして、あれのこと……?」
「あれって……あーっ!」
律郎が指さす先を見ると、そこでは、プレゼントが川の流れに晒されていた。
慌てて駆け寄って、拾い上げる。プレゼント包装はびっしょりと濡れていて、ぽたぽたと水滴が垂れた。多分、球を律郎がキャッチした時、驚いて両手から離してしまったのだろう。全く気が付かなかった。
珠悠はしょんとして、それを律郎に見せる。
「ご、ごめんね、さっき落としてぐちゃぐちゃになっちゃった……ま、また、別のやつ、準備するから──って、ど、どうしたの!」
謝罪も忘れるくらいびっくりして、珠悠は律郎のもとに近寄る。
律郎は、ぐすぐすと子どもみたいに泣いていたのだ。
「だ、だって、俺のためにせっかく準備してくれたのに、俺がなんも考えないで変な気を遣ったせいで、こんなことになって……」
「き、気にしないで、私がこんなところでたそがれてたのが悪いんだから──」
緊張が解けて感情の栓が緩くなってしまったのだろうか。男泣きしている。
(そういうこともあるんだ──ううん、そういうことも、あるよね)
不思議な人だ。だから、見ていたくなる。
「いいよ、泣かないで」
珠悠は優しい声で言う。
そして、手を伸ばして、律郎の頭を撫でてあげた。
律郎は驚いた顔をしたが、噛みついたり、掴んで引きずりおろしたりしなかった。
「あー、ごめんごめん、つい……」
涙を指先で拭うと、小さく、恥ずかしそうにはにかむ。
「流山、大人だな」
「……常政くんも」
示し合わせるように言うと、珠悠は、微笑んで見せた。
(第十七話・終わり)




