【第十六話】かけちがったボタンたち
夏休み直前だというのに、江川麻衣子先輩は忙しそうにしている。
流山珠悠も、その手伝いに従事していた。9月に入るとすぐに文化祭の準備が始まるが、申請をすれば8月下旬から前倒しで教室などの利用ができるので、その辺りの審査を頼まれていた。
「え……そんなの一般人の私がやっていいんですか?」
委員会の仕事な気がして、バレたらまずいだろうと心配して言うと、江川は小さく笑った。
「流山ちゃんは一般人じゃないよ。私の助手だから」
詭弁に聞こえそうだが、実際、珠悠が作業しているのは職員室の一角だった。本当になぜかわからないが、江川は職員室に机を持っていて、その端っこを割り当てられた形だ。
まるで「これ、私の助手だから」と、先生に見せつけているような状況。
一応、仕事内容は緩かったので気楽だけど、そのアウェイ感に珠悠の背筋は伸びっぱなしだった。
頼まれごと自体は一時間程度で完了した。江川は笑顔で成果を受け取る。
「ありがと~。そしたら、今日はもう仕事ない、かなー。お疲れ様。あ、冷蔵庫にあるゼリー食べていいよ」
職員室の隅っこにある冷蔵庫を開けると、箱付きの高そうな葡萄ゼリーが入っていた。本当に食べていいのかドキドキしながら持ち出す。
珠悠は、江川に礼を言いつつ職員室を出ると、そのままの足で、元文芸部室に向かった。
戸を開ける。部屋の中には、誰もいなかった。
「今日も……」
珠悠はしょんとして、いつも座っている椅子に腰かけ、ゼリーのフタを開ける。
台風の一件以来、律郎は元文芸部室に姿を現わさなくなった。
正確には、一度は現わしたのだが、珠悠が顔を見せるや、用事を思いだしたと言って、どこかへ行ってしまったのだ。
珠悠はゼリーを口に運びながら、溜息を吐く。
あの時、迎えに弟の衛志までついてくるとは、予想外だった。まぁ、それだけならまだしも、助けてくれていた律郎に勘違いして、暴言まで吐くなんて。
(あの過保護モンスターめ……)
珠悠は暗い気持ちになる。律郎には絶対に見せたくない、苛立った感情。
たぶん、衛志の愚かな行動のせいで、珠悠と接触しないほうが良いのだと律郎が気を遣ってしまって、元文芸部室に姿を見せなくなってしまったのだ。そう思うと、弟への怒りがふつふつと湧いてくる。
あの後、感謝と謝罪のメッセージを送ったけど、「気にしないで」「無事に帰れてよかった」とだけ返ってきただけ。何だか気まずくて、それ以降のやり取りは続かなかった。
(このまま夏休みに入ったら……会えなくなっちゃうかも……)
珠悠は、リュックの中身を覗く。そこには、お詫びとお礼を兼ねて、用意したプレゼントが入っていた。
男子の好みなんてわからないから、色々調べて、結局、たくさんキーボードを叩くから、という理由で手首を保護するリストレストを準備したのだ。
ラッピングを頼んだら、銀色のラインがピカピカ入った、いかにもプレゼントな包装になってしまい、気恥ずかしいのでできれば二人きりの時に渡したいのだけど、全然そのチャンスが訪れず、ただの荷物を増やす要因になっていた。
(このままは……嫌だな……)
梅雨は明けて雨も降らないし、犬の皆森も暑さにやられて動かない。
珠悠の目のオアシスは、律郎のタッチタイピングしか残されていない。
でも、それ以上に──ぽっかりと胸が空いてしまったような感覚が、珠悠の気持ちを占めている。珠悠はそちらの方に、言いようもない苦しさを感じているのだった。
◇◇◇◇
常政律郎は、キーボードを虚しく叩いていた。ダカダカダカダカと威勢よく打ち込んでは、書いた文章が気に入らなくて、同じ回数だけバックスペースを連打する。
彼は元文芸部室ではなく、いつか珠悠と来た喫茶店で作業をしていた。
理由は──やってくる珠悠に対して、いらない心配を働かせてしまうためだ。
台風未遂の日、その後、大丈夫だったのか? 身体に異常はないのか? 弟さんとの関係は平気なのか? 自分がいらない心労の原因になっていないか? などなど、質問攻めにしたくなる。
一度、珠悠の顔を見た時、そんな感情が湧いてきたが、すぐにあのドスの効いた声が蘇ってきて怯んでしまったのだ──「そういうの、いいから」という台詞。
もし面と向かって言われたら、よほどじゃないが立ち直れない。
だから、律郎は、下手なことを言ってしまう前に、彼女の前から立ち去ることにした。でも、それすらも“過保護な”判断だとしたら? こちらの気負いでうんざりとさせてしまっていたら? けど、そしたらこれから、どんな態度で彼女と接すればいいのか?
考えすぎの連鎖が、律郎の不調を招いた。お話を書くどころの騒ぎではなく、しょうもない文章しか書けず、とはいっても、こんな穴を掘ってる埋めるようなタイピングでは彼女は満足しない。
でも、物語を書けないのなら、自分は彼女にとって不要な存在では……?
「台風の目」としての自意識が、自尊心のデフレーションを起こしている。
そんな懊悩をする彼のもとに、ひとりの人物がやってくる。
「おい、常政律郎」
突然のフルネーム呼びに、律郎は驚いて視線を上げる。
そこには見慣れたようで見慣れていない、サッカーをやっていそうな顔つきの男子中学生がいた。
「……君は」
「流山衛志。珠悠の弟だ」
それを聞いて、記憶が蘇ってきた。
風の吹き荒れる中、正門前で待ち構えていた中学生だった。
「あー、あの時の……っていうか、何で俺の名前知ってんの」
「北梓から聞いた。この喫茶店もな」
北の名前が出て、一瞬、頭がバグったかと思ったが、なんてことはない。
北は珠悠と幼馴染ということは、弟の衛志とも幼馴染ということ。そして、珠悠との間の出来事は、ほぼほぼ北に筒抜けになっているらしいので、衛志も彼女から情報を聞き出せるのだ。
「っていうか、あの人全部話すじゃん……」
結果、こんな嫌な情報漏洩ルートがあるのだと考えると、頭を抱えたい気分になった。
「それで、何の用……」
衛志は律郎の向かいの席に、遠慮なくドカッと座った。
「何の用じゃねえんだよ。あのな、あの台風の日以来、姉さんの機嫌がクッソ悪いんだよ。一言も口利いてくれねえ……あ、えっと、オレンジジュースで」
注文を取りにきた店員に、怒りをひゅっとひっこめてそう告げる。なんか、別に悪い奴じゃない気がしてきた。
「はあ……それで」
「それでじゃねー! あんなん初めてだよ! だから、そのケジメをつけろって話をしに来たんだ!」
「ええ、それは家庭内の問題なんじゃ……」
一応、珠悠が闇の力をぶつけたのは、この弟に対してである。正直、律郎とは関係ない気がした。
しかし、衛志はその考えをばっさりと切り捨てる。
「違うね。姉さんの機嫌がオシャカなのは、あんたが姉さんを避けてるからだ」
「…………それも北のタレコミ?」
「そうだよ。俺たちは姉さんを見守る同盟みたいなもんだから」
その同盟、暴走してるじゃないか、と律郎はげんなりする。
「まあ、避けてるのは事実だけど……それと俺に何の関係があるの」
「はあ!? てめえ、ナメたこと抜かしてんじゃねえぞ」
衛志はキレて立ち上がった。
「テメエが、姉さんの彼氏だからだろうがよ!」
「──は?」
何を言ってんのか全然わからなかった。
「えっと……オレンジジュースでぇす」
間の悪く来てしまった店員に、衛志はペコっと頭を下げた。
「あ、どもっす」
オレンジジュースがテーブルにコトリと置かれる。その様子を見て、やっと律郎は色んな感情の整理をつけることができた。
「いやいやいやいや、彼氏じゃないからね!」
「はぁぁあああああ? 彼氏でもねえのに、白昼堂々抱き合ってたっつうのかよ! んなわけあるか。とぼけてねえで、とっとと別れろっつってんだよ、バカ!」
いきりたつ衛志に、律郎はこめかみを抑える。
「まずその誤解が、流山の不機嫌な理由だから」
北も何で肝心なところを注釈してくれないのかと恨みながら、仕方なく、律郎は、自分と珠悠の関係から始めて、その日あったことを丁寧に説明してやった。
「何でお前が台風の目にならなかったんだよ!」
すると、なんか変なところでキレ出した。完全に無意識だろうが、中学時代にそう呼ばれていた古傷を抉るのはやめて欲しかった。
「無茶言わないで。ともかく、俺は流山の意思を尊重しただけだから。彼氏じゃないし、抱き合ってたわけでもないから」
「ふん、でも、今避けてるのには変わりないだろ。それは何でなんだよ」
「それは……」
律郎は何と言おうか一瞬悩んだが──よく考えたら、自分も衛志も同じ穴の狢じゃないか、と気が付いた。
つまり、お互いに、珠悠への保護欲求がゆえに、悩んでいる者同士。
いがみ合っている、というか、勝手に敵対視されているが、本来はお互いに味方なのではないか。
そう思った時、律郎は素直に答えることができた。
「世話を焼きまくってしまいそうだから」
「……あ?」
衛志はその特徴的な三白眼で律郎を睨みつけた。律郎は怯まずに続ける。
「だからさ、守りてえ、ってなっちゃうんだよ、わかるでしょ、注意力散漫なのか過集中なのか、なんかフラフラしてて、ぽーっとしてて、実際、危ない場面もあるし、気が気でないというか、無駄に世話を焼きまくりたくなるんだけど、流山ってそういうの嫌がるじゃんか」
「……ああ、わかる」
衛志は深く頷く。
手応えを感じて、律郎は重々しく告げた。
「そういうわけで、今は、避けてる。なぜなら、顔を会わせると、無駄に守りたくなってしまうから」
衛志はオレンジジュースを手に取り、ごくごくと飲み干してから、言った。
「アホか」
流石の律郎も、その一言でプツンと来た。
「は? 人が真剣に言ってんのにその態度は──」
衛志は制止するように、手のひらをバッとかざした。
「確かに、姉さんはあんまり構うと嫌がる。でも、俺とアンタは違うだろ」
「……どういう意味」
「俺は家族で、人生単位で姉さんと生きてきたって意味だよ」
「マウントとるなよ」
「マウントじゃねーよ! はぁ、下らね。帰るわ」
衛志はいきなり興味をなくしたように、スマホをいじりながら立ち上がった。
「ええええ、ええ?」
謎の展開に律郎はうろたえる。そんな彼を見下ろして、衛志は言った。
「あ、今、姉さんに、常政とかいう奴の居場所教えといたから。ここから動くなよ」
「あのさ、さっきの話聞いてた?」
……あえて避けてるって話したよね?
しかし、衛志は聞く耳を持たない。
「常政って奴から話があるってよ。飲み物代は姉さんからもらってくれ」
「捏造するなよ。あと冷戦中なのにたかるなよ」
「情報料だよ。はあ~、下んね……」
そう言って、衛志はフラフラと店を出ていってしまった。
律郎はその後姿を見送りつつ、少しずつ恐怖に近いようなものが湧いていくのを感じる。
珠悠が来る。
そう考えた途端に、律郎の指は本当の一歩も進まなくなってしまった。水増しのための適当な文章の乱造も、同じキーを連打することも、できない。
マネキンのようにキーボードに指を置いて、ただひたすらに来るべき時を待ち続けた。
しかし──結局、珠悠は現れなかった。
いや、正確に言えば、痺れを切らした律郎が待つことをやめたのだった。
律郎は、衛志のオレンジジュース代ごと支払いを済ませて、喫茶店を出た。
続く。
(第十六話・終わり)




