【第十五話】台風未満の日
期末テストの最終日の夜に、台風が通過するだろうという予報があった。そのため、本来は部活動解禁日であったところを延期にして、生徒に早めの帰宅を促すこととなった。
まあ、律郎は別に部活動に所属しているわけではないので、いつものように部室に行って物語の続きを書いていた。テスト勉強にかまけていて、最近はお話をロクに進められなかったのだ。
その我慢を、ついに解放する日が来たというわけで、律郎は自分の行為に存分に酔い痴れることができた。気分はまるで、オーケストラと共にコンチェルトを弾くピアニストである。
キーボードを叩くことが、こんなに気持ち良いなんて──と律郎は打鍵感覚を堪能していた。
と、突然ガタガタ! と大きな音がした。
律郎は飛び上がって、振り向く。とっとと帰れ馬鹿、と教師がカチコミに来たのかと思ったが、音は窓ガラスが激しく揺れて出たようだった。
「うわ……嵐か……」
律郎は窓の外を見て、愕然とした。さっきまで小康状態だった天気が、いつの間にか荒れだしている。雨こそ控えめだがけっこうな強風が吹きていて、窓ガラスがずっと音を立てている。外では、暴れる傘を必死で制御する生徒たちの姿が見えた。
もちろん、部室内に流山珠悠の姿はない。こんな天気で指さばき見学なんかしている場合じゃないから、妥当だとは思ったが、少し残念に思う自分がいることも認識していた。
(久々に会えると思ったのにな……)
ふたりのクラスは離れているから、テスト期間は顔も見ていない。
まあ、仕方ないことと受け止め、律郎は最悪な天気になる前に、帰ることにした。
律郎が廊下を往き、階段を下った時、怯えた猫がいるような気配を感じた。
これ以上、天気が悪くなる前にと急いでいた律郎だったが、なぜか気になってしまって足を止める。
階段の裏側をのぞき込んでみると、流山珠悠が縮こまって座っていた。
「流山……そんなところでどうしたの」
「つ、常政くん……」
珠悠は弱々しく顔を上げ、切迫した口調で言った。
「どうしよう、私……帰れない……」
雷に強い恐怖を覚える人がいるように、珠悠は風に対して強く恐怖心を覚えるようだった。
戸や窓ガラスや強く揺れる。物が飛ぶ。大きな音が鳴る。のんびりとした風景や慎ましい物音を堪能できる繊細な感性を持つ彼女は、嵐の放つ過剰なエネルギーを多分に受け取ってしまうのだろう。
そんな状態で外を歩くのは苦行でしかない。しかし、台風が通過するのを待てば、真夜中になってしまう。まさか、通り過ぎるまで学校で待ち続けるわけにもいかない。
「ひ、ひとまず保健室に行こう。立てる?」
珠悠の顔色は優れない。こんな空気の悪そうなところ、とっとと離れた方が良さそうだった。
「うん……」
珠悠はよろよろと立ち上がると、律郎のシャツを掴み、おもむろに身を寄せてきた。
「……っ!」
律郎は息を呑む。
珠悠は体重を預けるように、おでこを律郎の肩に押し当てた。重みと温かさが、彼女の輪郭と共に押し寄せる。髪がふわりと垂れて、律郎の首筋にきめ細やかな感触が走った。
「ちょっと……こうさせて」
深い呼吸の音が、彼の心臓の近くで聞こえる。
「……いいよ」
律郎はできる限り、落ち着いた声音で言った。
保健室に行くと、ベッドをあてがってもらえた。
「恐怖心が和らぐかも」
と、養護教諭から受け取った耳栓を、珠悠は耳に入れる。
「どう?」
「窓の音が」
と言いさして、珠悠は押し黙った。落ち着かなさそうに、視線を泳がせる。
使い心地が悪いのかと律郎は心配したが、珠悠はそんな彼の耳に口を近づけ、吐息のような小さな声で言う。
「自分の声が大きく聞こえて……恥ずかしい……」
「そう……か」
「でも……ずっと、楽」
律郎は「よかった」と、つられたように小さな声で返した。それが珠悠の耳に届くかなんて、気にしてはいられなかった。
(くそ……まずい)
律郎は、内面からふつふつと湧き上がる衝動を、必死で抑えていた。
(守りたいが過ぎるだろうがよ……)
弱り切った珠悠に対して、保護欲が、吹きこぼれるようにダバダバと溢れ出てしまう。律郎が、特定の誰かに対して、そんな感情を抱くのは初めてだった。
できることなら、タクシーでもリムジンでもなんでも呼びつけて、珠悠の家へと送り届けてやりたかった。それが無理なら、学校で夜を明かしてやってもいい。そんな覚悟というか、強い庇護欲求がやにわに勃興してきた。
しかし、律郎はそんな自分をぐっ制した。
珠悠は、過保護を嫌う。過分に伸ばされた救いの手は、むしろ彼女の自尊心を傷つけるだろう。だから、律郎があれこれと尽くしてはいけない。珠悠の求める範囲で、杖のようにさりげなく助けることに努めなければ……と、律郎はこの保護欲を封印することを誓った。
「親御さんには連絡した?」
養護教諭が訊ねてきた。律郎が珠悠を見ると、上目遣いで見返してきた。耳栓効果で聞きそびれたらしい。
「……家族には連絡したのかって」
珠悠は両手を口元に構えた。半身を傾けて、耳を寄せる。
「した」
「したそうです」
「そう。えーっと、そしたら、君が面倒見てくれるのね」
律郎は珠悠を見る。
珠悠の上目遣いの仕方が控えめになった。
「はい」
養護教諭はすーっと目を細めて、「それじゃあ、よろしく」とだけ告げた。
迎えの来る間、律郎は強いて動かないようにした。心配ごとは尽きなかったが、あれこれ世話を焼こうとするのは心証によくないと思ったのだ。
「何かしてほしいことある?」
そう訊くと、珠悠は少し考えてから、言った。
「タイピングが……見たい」
その頼みを聞いて、血が一斉に通ったように、指先がじわりと温かくなった。
──常政くんが書くことで、私、助けられてるから。
いつか聞いた言葉が蘇ってくる。その時は、励ましの言葉だと思った台詞、だけど──彼女にとって、それは真実だったのだ。
そう思い至った律郎は、奮起する。
「いつものね……オッケー」
自己満足でしかなかった、このタッチタイピングで、珠悠を助けられるのなら、こんなにも嬉しいことはない。
律郎はラップトップを取り出し、さっきの続きから再開した。珠悠のためなら、何億字だって打ち込んでもいいと思った。窓を叩く、風と雨粒の音に負けないように、律郎はキーボードを叩いた。
いつもやっていることのはずだったが、何か、新しいことを始めたような心地がした。
(流山の視線を……強く感じているから……)
そうして生み出される文章は大胆で、粗削りで、どうせ後で斧鉞を施すことになるんだろう、と予感させるような出来栄えで……しかし、全く悪い感じはしなかった。
それはきっと、珠悠とのあいだで生み出されるものであるからだ。
律郎は、黙々と作業を行った。
珠悠はその様子を、静かに見つめていた。
たった、それだけの時間が、流れるように過ぎていく。
「……正門のとこに、車を停めてるって」
しばらくの後、スマホを見て、珠悠は言った。迎えが到着したらしい。
「そうか。歩ける?」
「室内なら……でも、外は、怖いかも」
律郎は外を見る。風はいよいよ激しさを増していて、耳栓だけで凌ぐのは厳しいところがあるだろう。
「それじゃあ、家族の人にここまで来てもらえば……」
一件落着だろうと、律郎がほっとしかけた時。
「それはダメ」
珠悠は、縋るように言った。
「え……」
「もう、自分で車まで行けるって、言っちゃった。これ以上、甘えたくない、から……」
珠悠が家に来た日の、帰り道でした話を思い出す。
垣間見えた、家族の過保護に対する嫌悪感──。
それは無茶だ、と律郎は思わず口にしかけて、止めた。無茶である根拠はないし、珠悠の求める範囲で助けると心に決めたばかりだった。
恐らく、彼女も見せたがっている。
守ってもらうばかりじゃない、成長しようとしている自分の姿を。
「よし、それじゃあ、頑張ろうぜ」
なので、律郎は力強くそう言った。珠悠は、安堵するように口の端を僅かに上げた。
「うん……ありがとう。常政くんなら、そう言ってくれると思った」
それは何者にも代えがたい、極上の賛辞だった。律郎は、顔が緩んでいくのが抑えられず、誤魔化すように窓の外を見た。
「……行くなら、早くした方がいい。風、強くなってるから」
と、言った途端に、窓の外に見えていた木の枝の一つが、音を立てて折れた。
珠悠の顔色を窺うと、彼女も窺うように、律郎のことを見上げていた。
「あ、あの、常政くん……ひとつ、お願い、してもいい……?」
是非もなかった。
ほどなく、ふたりは外に出た。風はかなり強いが、幸い雨量は大したことなかった。
律郎は無駄に風に煽られるばかりで、全く役に立たない傘を持って、珠悠の後をついて歩いていた。彼女はカバンをぎゅっと抱え込んで、背を丸くして、姿勢を低くして、深く積もった雪の上を往くかのように懸命に歩いていた。
──律郎が彼女に頼まれたのは、ただ、見守っていて欲しい、ということだけ。
本当はすぐ横に付き添ってあげたいのだが、少し後ろで見守ることが、彼女の最も望む距離感なのだと、律郎は呑み込む。そしてただ、心の中で頑張れ、と呟き続けた。
大丈夫、俺は「台風の目」だから──とか、無意味なことを思いながら。
そんな吹雪の中の行軍のような様相が続いた後、ついに珠悠は正門の近くまでやってきた。迎えが来ているのは珠悠だけではないようで、何台か車が停まっている。
夢中で歩いてきた珠悠はそれに気づいて、希望が見えたように背を伸ばした。
その時、突風が吹いた。
正門の外から吹き込むように空気の塊が吹き抜け、珠悠の身体がぐらりと揺らいだ。
「危ない……!」
律郎は傘を捨てた。深い藍色の傘が無残に宙を舞う。構わず、風に抗うように駆けた。
そして、風に踊らされる珠悠に近づき、その肩に手を伸ばす。
「ひっ……」
バランスを崩した彼女は、律郎の身体にしがみついた。
「だ、大丈夫?」
「う、うう……ありがとう……」
珠悠は潤んだ目で律路の顔を見上げ、それからおでこを律郎の首元に押し当てる。
(うわー……)
その弱々しい仕草に、心を持っていかれそうになる。頭を撫でたくなって、必死で思い留まった。これは魔性である、と律郎は結論付けた。
「アンタ、ウチの姉さんになにやってんすか」
また、突風が吹いたかと思った。
顔を上げると、短髪の少年が傘も差さずに立っている。恐らく、中学生。幼さの残る相貌から、変に浮いて気迫のある三白眼気味な眼光が、律郎を睨みつけていた。
律郎は状況を整理しようと、頭を働かせる。
──今、この人、流山のことを姉さんって言った?
でも、そうだよな、俺は姉さんじゃないしな。っていうことは、この中学生は、流山珠悠の家族っていうわけで──。
律郎の背筋が粟立つのを感じた。
こんなタイミングで、家族と、会ってしまった……。
中学生はのしのしと、律郎の方へ歩いてきた。
「ねえ、アンタ、姉さんのなんなんすか」
「い、いや、俺は……」
来年、復興するはずの部活の部員同士、とはふざけてると思われキレられそうで言えなかった。この中学生、なんだか殺気立っていた。
答えあぐねている律郎に、中学生は睨みを効かせる。
「もし、何か、いやらしいこと考えてんなら、俺が──」
「衛志、そういうの、いいから」
ふいに、恐ろしくドスの利いた声がした。
律郎は、ぎょっとしてしまった。体面にいる、衛志と呼ばれた中学生も、同様に目を見開いている。
その声を発したであろう珠悠は、律郎のもとをそっと離れると、よろよろと衛志の方へ歩いていくと、その肩を押して進路からどかした。
「お、おい、姉さん!」
衛志は狼狽えて、その後を追う。珠悠は全く意にも介さず、そのまま停車中の車のひとつに乗り込んでいった。運転は母親だろうか、一発触発の姉弟を乗せて車は去っていく。
(……うわー)
一連の光景を見てしまった律郎は、珠悠に対して、金輪際絶対に過保護な真似はしないと、肝に銘じるのであった。
その後、天気は珠悠の気迫に驚いたように落ち着いていき、台風も結局進路を逸れて、太平洋で熱帯低気圧と変わった。
(第十五話・終わり)




