【第十四話】ペイン・トゥ・ザ・スカイ
(誰だろう……え、誰!)
流山珠悠は、突然、ガレージに入ってきた中年の男を見て、パチンコ台のハンドルを握り締めたまま、背筋を張り詰めた。
相手も珠悠の存在を、一ミリも想定していなかったようで、やけに長い前髪の隙間から覗くつぶらな目を、ばっちり見開いた。
「え、誰……?」
「あ、あの、私は……」
焦った頭が、私ってなんだろう、と西洋哲学の扉を叩いた瞬間だった。
ポワワワワン! と甘美な効果音が響いた。
その音に、中年男が食いついた。
「おおっ、Vに入った!」
「ええっ!? なになに!」
慌てて台の方を見ると、いかにもおめでたそうに光が明滅していた。壊れたのかと思って、珠悠は頭が真っ白になる。
「なんだ、わからんで打ってたんか。入賞したんだよ!」
男がダカダカ近寄ってきて、台の様子をのぞき込む。
「にゅうしょう……?」
「アタリだよ、アタリ! 何ぽかんとしてんの、これのために打ってたんじゃないんか」
「ええ……ちがいます……」
「ええ! そんなことある? 変わってんなあ! ほら、ラウンド数が決まるぜ!」
男がルーレットのようなものを指さす。直後、針がなんかよさげなところに止まった。
「ウッシャー! 最大ラウンド引いたな!」
男は手を打って喜ぶ。珠悠は目を白黒させるばかりだったが、開放されたポケットに玉が入るたび、もりもりと持ち玉が増えてくるのを見て、驚いた。
「す、すごい……」
珠悠は手元でバカバカ吐き出される、パチンコ玉の方に心を奪われた。
当たり演出の真っ最中なのにディスプレイそっちのけで、ほぼ真下を凝視している珠悠を見て、男はゲラゲラ笑った。
「なんだよ、演出目当てかと思ったら、ガンガンに欲出してるわ」
「ご、ごめんなさい……玉が出てくるのが面白くて……」
思わず正直に言うと、男はまた一笑いする。
「そんな楽しみ方する子初めて見たわ。おもしろ。しかし……あー、なんつうか、大人としては、面白がっちゃダメなのか?」
「えっと……」
男が突然、真面目な顔つきになったので、珠悠は緊張する。確かに、高校生の分際でパチンコを触りたいなんて、不埒だったかも知れない。
んおっふ! と男は、喉を傷めそうな咳ばらいをした。
「君ねえ、大人として言うけども、パチンコなんて、確かに面白い遊戯だけど、キミみたいな女の子がハマっていいもんじゃない」
そして、シンプルにお説教が始まったので、珠悠はしょんとした。
「はい……」
「でもまあ、確かに面白い遊戯なんだこれが。当たって気持ちよかっただろ?」
「ええと、そうですね……」
「だから、この気持ちよさが忘れられなくて、どうしてもまたやりたいってなったら、ここに来なさい」
「はい……って、え?」
珠悠は思わず訊ね返す。男は真剣な顔つきで繰り返した。
「打ちたくなったら、いつでもうちに来なさい、いいね」
「えええ……」
大人として言うことが、それでいいのかと珠悠はちょっと心配になった。
「なに言ってんだよバカオヤジ!」
「ぐわああああああああ!」
「ひええっ!」
突然、目の前の男がシバかれて、もんどりうって倒れた。珠悠は驚いて後ずさる。
見ると、ホウキを持った律郎が息を荒く吐いていた。
「流山、今言われたこと、忘れていいから」
「え、う、うん……」
「んにすんだよ、リツロー!」
バカオヤジと呼ばれた男は、のっそりと起き上がって抗議した。律郎は睨みつける。
「見損なったぞ……女子高生に変態オヤジみてえに声をかけるなんて……」
「ちげーって! 俺はな、この子が将来ホールに入り浸らんように、この場所を欲望のはけ口にしてくれりゃいいと思ってだよ、打ちに来いって、大人として言ってたわけさ」
「大人なら話しかけんな! 黙って見てろ!」
「理不尽かよ」
律郎は再びホウキを、元テニス部仕込みの腕でスイングする。穂先がオヤジの腰にヒットして、「いああああああん!」と悲鳴があがった。
衝撃で、ガレージの空気が揺れる。
その時、珠悠は鼻の奥につんと、慣れた良い匂いを感じた。
(あ……常政くんと同じ匂い……)
そこでようやく、珠悠はこの男が律郎の父親であることを理解したのだった。
◇◇◇◇
「昨日からリツローがガレージに入っているのを見て、ついにエンジニア魂が目覚めてくれたのかと思い、ウキウキして立ち入ってしまった」
そう、父親は供述した。ちなみに、用事が早く終わったので、とっとと帰って来たらしい。イレギュラーの理由になんの捻りもないところがまた憎らしい。
なので、律郎は「俺はエンジニアにはならん」と改めて宣告する刑に処した。
「なんか邪魔入っちゃってごめん」
帰り道、バス停まで歩きながら、律郎は言った。どうしようもない気分だった。もとはと言えば、自分が今日の約束のことを家族に伝えなかったのが悪く、その自覚も相まってしんどかった。
「ううん。賑やかで面白かった。常政くんって慌てると、あんな感じなんだ」
近所からは変人扱いされる父親なので、律郎が手綱を引くのが日常だったが、それをよその人に見られるのは、なんとも言えない恥ずかしさがあった。
「……忘れて」
「ふふ……忘れられたらね」
珠悠が、満足そうにしているのが幸いだった。
しかし、突然、現れた中年男にあんな風に絡まれたら、普通は恐怖すると思うのだが──律郎は、彼女の危機管理能力が少し心配になる。
「あの小屋? って、あんまり入らないの?」
それから、珠悠が訊いてきた。父親の反応的に、律郎がガレージに入るのが珍しいことなのだと察したのだろう。
「小学生の時以来かな。あそこで手を怪我してから、近づかなくなった」
「怪我……」
「そう。工具でいじってたら、指を……まあ、縫うくらい深くやっちゃって。今は大丈夫だけど、その時は全く動かせなくなって、キーボードも思うように叩けなくなって……それで怖くなったんだ」
指の不能は、何か、物を書くことで生きていきたいと思う、彼の希望を奪いかねない暗雲だった。当時はガレージなんか、二度と入らないと泣いていた。
「そう、なんだ……だから、ミナに噛まれるのも怖かったんだね……」
「ま、まあ……甘噛みでも傷が開くかも知れないし」
「……じゃあ今日は私のために無理させちゃったんだ」
珠悠の顔に不安が浮かんでいる。律郎は慌てて手を振った。
「いやいや、昔の話だから。今はなんとも思ってないよ。ただ疎遠になってただけだから。なんなら、久々に入って懐かしさかったというか……」
「そっか……」
珠悠は頬を緩ませると、そっと、律郎の手を取った。
あまりにも自然な所作に、律郎は尻尾を掴まれた猫のように硬直して、引き寄せられた手の行く末を見つめるしかない。
珠悠は囁くように言った。
「いたいのいたいの、とんでけー……」
なんだそれは、と律郎は瞠目した。
今生で、味わったこともない抜群のヒーリング効果を実感した。
「え……っと……流山、もしかして眠いんじゃ……」
かろうじてそう言うと、珠悠は照れくさそうに微笑んだ。
「えへへ……今日の……お礼」
ぐぅっ、と心室あたりが締んだ。
「流山──言いにくいんだけど……」
まともに摂取したら、精神がどうにかしてしまいそうだったので、律郎は逃げ道を探すように言った。
「怪我した手、左手なんだ……」
「えっ」
珠悠は手元を見下ろした。彼女が掴んでいたのは、律郎の右手だった。
それで我に返ってしまったのか、ぼっ、と珠悠の顔が真っ赤になった。
「あ、え、あ、そ、そうなんだ、ごめん、いきなり変なことして!」
「あはは……まあ、左と右なんて誤差だから」
大慌ての珠悠を見て、律郎も余裕を取り戻せた。
「うううう……もー、何してんの私……」
珠悠はそう言って、両手で顔を覆ってしまった。それがアルマジロが丸まってるみたいでかわいらしく、口端が思わず上がってしまう。
「でも、ありがとう。手、大事にする」
「ほあ……はい……」
珠悠はのぼせたようにへなへなと応えた。
その後は、しばらくの間、両手で顔を覆ったまま歩いていたので、彼女が側溝に足を取られないように、律郎が少しの間エスコートしなければならなかった。
「でも……いいね」
バス停に着き、バスを待っている時、平常心に戻った珠悠はそう言った。
「何が?」
「怪我した場所にまた入っても、喜んでくれるなんて。うちだったら……そんなこと、許してくれないと思う」
少しいじけたような声音になる。ペット禁止などの家の方針を、珠悠が良く思っていないことを思い出し、律郎は内心で身構える。
「まあ、うちの親はあんなだから……」
「信頼してくれてるんだよ」
「そういうもんかな」
「うん、そういうもん」
律郎は遠くを見た。珠悠の家族のことを詳しく知らないので、それ以上はなんとも言えなかった。
(でも──過保護になる気持ちはわかる……)
ほどなくしてバスが到着し、珠悠が乗り込む。その姿を見送りながら、きちんと帰れるかどうか、気を揉んでいる自分がいることに気が付く。そういうところだぞ、と自制しつつ、おくびにも出さないように手を振って見送る。
珠悠は窓から顔を覗かせて、控えめに手を振ってくれる。
──そういうところなんだよ、と思いながら、律郎は手を振り返した。
バスの去った後には、妙に穏やかな空気が漂っていた。
律郎は、これから待っているであろう父親の質問攻めにげんなりしつつ、家路についた。
(第十四話・終わり)




