一. ミゼルコルディアの床
「デウスさま……マリアさま……」
真新しい竹矢来の向こうから無数の人びとの声が地を這うように聞こえてくる。跪いている私の視界には、慌ただしく行き交う町司たちの太い足が何度も現れては消えていく。
「パコ、君も可笑しさが込み上げてくるのか?」
私の左隣から男の声が聞こえてきた。どうやら私は無意識に笑みを浮かべていたらしい。
「見ろ、あそこ。……そっちじゃない。与力の向こう側だ」
私は十手で肩を叩いている与力の向こうで、竹矢来に小さな手を掛けてこちらを見ている子供たちに目を凝らした。
「……ああ、ミゼルコルディアの子供たちだ」
「そう、あの子たちは私たちのためにここまで来てくれたんだ」
カルロはそう言うと、先ほど町司の一人に殴られて腫れた右頬を邪魔そうに引きつらせた。私も首筋に焼き付けられた十字の焼き印の痛みに顔を歪めながら、カルロに笑い返した。カルロの首筋にも私と同じ焼き印の跡が見える。
「君にとっては、あの子たちだけが心残りだな」
私の言葉にカルロは何も言わなかったが、子供たちを抱きしめるように見つめる彼の眼差しが答えそのものだった。この西坂の丘からは長崎湊が一望できる。
「ほら、どけどけ!」
四、五人の獄屋番が竹矢来を囲む大勢の民衆を掻き分けながら刑場へ入ってきた。
「ルシア!」
私は獄屋番に引き連れられてきた人たちの中にルシアを見つけて立ち上がった。私の声が聞こえたのか、ルシアは黒く澄んだ瞳で私を見つけると微笑んでくれた。私が思わずルシアに駆け寄ろうとすると、カルロが私の会服の袖を掴んで止めた。カルロの目は私の後ろで打刀の柄に手をかけた町司を見上げていた。私はカルロの意図を察すると力なくその場に膝を落とした。私の後ろには一本の火刑台が見える。そこには私の師であるミゲル神父が縄で縛り上げられていた。
「こけーおる七名は、恐れ多くも公方様んご法度に背き、ここ長崎にてキリシタンの教えば広めた罪に問われた者たちや。中でもミゲル・ジョルジは、ジェズスん組で伴天連として長きに渡りキリシタンば増やし、コンフラリアん衆ば扇動した罪で火刑に処する!」
先ほどの与力がそう叫ぶと、刑場を隙間なく囲む民衆の間に怒気を込めた騒めきが広がっていった。町司たちが民衆を黙らせようとして一斉に喚き散らす。
「次に、フランシスコ・デ・メーニャ、並びにカルロ・オルファネルん両名については、商人の身分ば装い、慈悲ん組ば隠れ蓑として、フランシスコはジェズスん組ん教えば、カルロはドミンゴん組ん教えば広めた罪で、斬首とする!」
私の名がカルロの名と共に呼ばれると、ここにいる全ての人たちの視線を一身に浴びる感覚が稲妻のように全身を駆け巡った。
「最後に、徳山村安はこれら異国ん宣教師たちば屋敷にかくまった罪で、そん子頼安、藍子、鈴子諸共斬首とする!」
「あがん小さな子供も殺すんか」
「罰当たりなこつするもんやなか」
与力が罪状を読み終えるか終えないかの内に再び民衆が騒ぎ始めた。
「うちん名前は徳山藍子やなかとです。うちゃルシア徳山ばい!」
まるで一筋の陽の光のような細くも通るルシアの声が刑場を静まり返らせた。
「黙れ! 御本様ん命にけちばつくることは許さん!」
与力が町司の一人に向かって顎をしゃくると、町司は手に持っていた棍棒で小さなルシアの背中を何度も打ちのめした。ルシアのか細い呻き声が響き渡る。
「デウス様ば信じなっせ!」
役人の無情な空気を弄ぶかのように、突然ミゲル神父の高らかな言葉が刑場に響き渡った。ルシアの背を打っていた町司の手も思わず止まる。
「うちらは神ん導きで遠く東ん果てのこん地まで一人でも多くん人びとば救うためぎゃ来た。将軍様や御奉行様は何か誤解ばされとーようばい。ばってんそれも全て神ん導き。神ん教えば理解し、そん教えば守るために命ば捧げることは、うちらキリシタンにとっては喜ばしかことばい。さあ、祈ろう。こけーおる全てん人たちが救わるるごと。将軍様や御奉行様にも素晴らしかお導きがあるごと。さあ、皆さん、パライゾで会おう!」
ミゲル神父がそう叫ぶと、まるで私の血潮が湧きたつような思いがした。そして民衆の中から再びデウスとマリアの聖名を口にする声が、まるで西坂の丘に火を放つように広がっていく。場の空気を抑えきれないと悟った与力は一度溜息を吐くと、刑場の隅にある検使小屋に振り返りながら片手を掲げて町司たちに合図をした。与力の命を受け、二人の町司が勢いよく打刀を抜いた。掲げられた二振りの刀身は美しい空の青を映し出す。
「頼安、父と行くぞ!」
「はい! 父上! 藍子、鈴子、パライゾで待っとー!」
村安殿と頼安殿が声をかけ合うと、二筋の光が二人の首をさらっていき、二人の首からは勢いよく鮮血が噴き出した。そして二人の体は力なく前のめりに突っ伏した。
「父上ぇー! 兄上ぇー!」
末っ子の鈴子が二人の亡骸に向かって縛られた体を大きく揺すって泣き叫んだ。鈴子の横でルシアは目を閉じて静かに涙を流している。その瞬間、私は自分の中にとてつもない考えが沸々と湧き上がってくる感覚を覚えた。そして私は気づいたらこう口にしていたのだ。
「カルロ、私は今決して考えてはいけないことを考えてしまってる」
カルロは村安殿と頼安殿の首から視線を引き剥がすようにして私に振り返った。
「私はパライゾへも、インフェルノへも行かない」
「何だって?」
「カルロ、私はもう一度生まれ変わる。そしてもう一度ルシアに会いにいく」
「パコ、そんなことを言ってはダメだ。輪廻は異端の考えだ!」
私が見つめるルシアの斜め後ろに町司の男が立った。ルシアは打刀を振り上げている町司の気配を感じているはずなのに、少しも臆する表情を浮かべずに私に微笑みかけてくれていた。そして私の中で箍が外れる音がした。
「ルシア! もう一度会おう! うちゃもう一度生まれ変わって君に会いにいく! やけん、やけん、君も神に祈ってくれ! もう一度会えるごと! 愛しとー! ルシア、君ば心から愛しとー!!」
ルシアは私の言葉に涙を流して小刻みに何度も頷いた。そしてルシアと鈴子の首が赤黒い土に転がり落ちた。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!」
私は泣き叫んだ。二人の首が運ばれた後の血の海の中には、私がルシアに贈った白百合の髪飾りが一本落ちていた。
「久留子ば見えるごと置け!」
与力が二人の首筋に焼き付けられた十字の焼き印が民衆に見えるように置けと町司に怒鳴った。泣き崩れる私は肩に僅かな重さを感じた。カルロが額を私の肩に寄せていたのだ。
「パコ…いいよ、わかった。私も君と共に神に祈ろう。もう一度生まれ変わらせてほしいと。」
「カルロ、君までこっちの道に来てはダメだ!」
「パコ、いいか、よく聞いてくれ。私がこの肉体を失ってカルロではなくなったとしても、この私の魂は君の友としての記憶を持ち続けるんだ」
カルロの後ろに町司が仁王立ちすると共に、私の背後でも人の気配がした。
「君とはたくさん喧嘩もしたが、君は私を充分支えてくれた。だから次は私が君を支えてあげたいんだ。一緒に神に祈ろう。一度だけ神の教えに背くことを許してもらおう」
私は涙で滲むカルロの顔を必死に見失わないように見つめて何度も頷いた。
「神ならきっと許してくれるよ」
カルロのその言葉を最後に、私の視界は大きな衝撃と共に天地逆転した。私は首筋に鋼の冷たさを感じながら、青空に漂う羊雲を見た。
思わず吹き出してしまった。丁度私が計ったタイミングで、ジョーが面子のようにひっくり返って起きたからだ。ジョーはいつものように汗だくの髪を掻き上げ、荒い息をしながらやつれた顔を両手でのっぺり拭って、そしてこの後はいつものように大きなため息を————。
「アイ、見世物じゃないんだぞ」
バレたか……。ジョーは不機嫌そうに言うとゾンビのように立ち上がった。
「また前世の夢ね」
「前世? そんなオカルトチックな呼び方はよしてくれ。人間の脳内の神経ネットワークは宇宙の編目構造と似てるんだ。記憶が量子もつれを利用した高速で特異なネットワークだとすれば、脳内の情報が宇宙のどこか別の量子ともつれてバックアップされてる可能性もある。それが何かのトリガーで新しい個体に同期されたって不思議じゃないさ」
「つまり、そのバックアップのショックでひっくり返って起きてるってこと?」
「何とでも言えばいい」
「どうでもいいけど、いい加減、床で寝るのやめてくれない?」
私は白いタンクトップを脱いでシャワーを浴びる準備をしているジョーの背中に向かってぼやいた。ジョーの首筋には薄っすらと十字の痣が見える。
「ミゼルコルディアの床がまだ忘れられないんだ」
「ツインルームで絨毯だけ汗びっしょりって……それってミステリーよ」
「ベッドは二つとも綺麗なままなんだ、感謝こそしてほしいね」
「次呼ばれたらホテルじゃなくて馬小屋でいいですって言うわよ」
「馬小屋? こんな雪が降るダボスの馬小屋で寝たら凍死するぞ」
ジョーは喉を鳴らして笑いながらタオルを肩にかけると、バスルームに入っていった。
「雪は好きなんじゃないの?」
「ああ、大好きだ。降りそそぐ雪を見てると天に昇るような気がしてね」
ジョーの声がバスルームで響くと、間もなく勢いよく出るシャワーの音が聞こえてきた。
「ねえ、本当に私も行かなきゃダメなの?」
私はシャワー対策で声のボリュームを上げてジョーに聞いた。
「ああ、今日は猫の手も借りたいほどなんだ」
「あのドレスきついのよ」
「オーダーメイドだろ? 太ったんじゃないか」
「バカね、あり得ないでしょ」
ジョーは意地悪く笑うとシャワーを止めた。
「そう言えば今年のクリスタルアワードの受賞者見た?」
「誰だったんだ?」
「ドルフよ。ドルフ・クラーク」
ジョーからの返事は無く、ボディーソープの甘い香りだけが漂ってくる。私が気にせず暫くメールチェックをしているとタオルを腰に巻いたジョーが出てきた。
「あいつのことはどうでもいい」
ジョーはコーヒーメーカーの方へ歩きながら吐き捨てるように言った。なーんだ、聞こえてたんだ。私は仁王立ちでコーヒーを入れているジョーを横目にテレビを点けた。ジョーはテレビに映し出されたニュース番組に視線を移す。ニュースでは私たちの国の政府要人の急死について速報が流れていた。
「お、気が利くじゃないか」
とジョーが言うので、
「そうでしょ? 講演まであと十分だって教えたかったの」
と私が言うと、ジョーはコーヒーをひっくり返して茶色く染まったタオルを持ち上げながら飛び跳ねた。




