第9話 獄炎卿と混沌の魔女
ゴオン……ゴォン……。
頭の中で鳴り響く鐘の音で、目が覚めた。
いつの間にか眠っていたらしい。ソファの上で、ウイスキーの瓶を抱えたままで。
「ちっ。しつけーな」
苛立ちを隠す気もなく、無造作に伸びた赤髪をガシガシかきながら、アラベリク・ケクランは煙草の箱から一本抜き取り、咥えると人差し指で着火した。ボウッという音と共に、煙草の先端から煙が立ち上る。
この不快な鐘の音を聞くのは、三十年ぶりくらいか。
「また、お仲間が生まれたってか」
可哀想に。
フーっと紫煙を吐き出しながら、心の中で少しだけ憐れんだ。魔人になるということが、どういうことか——身をもって知っているから。
そして、三十年ぶりに思い出す。
銀髪の魔女、セフィロト。
「混沌」を司る神祖の魔女。
大陸の東の無法地帯を支配する女王。
かつてアラベリクを愛し、そしてアラベリクもまた愛した女。
——アラベリクを魔人とした女。
訣別はささいなことがきっかけだった。もう細かいことは覚えていない。ただ、それから既に百年以上が経過した。今さら戻る理由は見つけられない。
その後は目覚めた魔術で燃やしてきた。訣別の憂さ晴らしとでも言わんばかりに、何もかもをその地獄の炎で。気づけば『獄炎卿』などと恐れられるようになっていた。
恐れられるだけではなかった。
力なき民たちが庇護を求めて集ってきた。その数は年を重ねるごとに膨れ上がり、今では万を超える民を抱える街にまで発展した。無法地帯の一角に君臨する王。気づけば、そういう存在になっていた。
しかし、無為な日々を重ねるうちに、かつての激情の炎も鎮火していった。今では小さな火種が燻っているだけだ。
何の火種か?
分かっている。セフィロトだ。
煙草の灰が、静かに落ちた。
あいつからもらったこの種だけは、一生燻り続けるのだろう。
◆◆◆
天蓋付きの豪奢なベッドの上では、二人の男が搾りかすのように息も絶え絶え横たわっていた。
その様子を呆れたように一瞥し、セフィロトはベッドから抜け出すと、月明かりの射し込む大きな窓の前まで歩いていった。夜風が肌に触れる。冷たい。ただ、それだけ。
この程度では、まだまだ満足など出来ない。
いや——満足という感覚そのものを、いつからか忘れてしまった気がする。
満たされぬ思いに歯がゆさを感じる度に、思い出す顔がある。
アラベリク。
最初はそこで寝転がる男たちと同様の存在だった。しかし深く知るほどに、他とは違うと気づいた。燃えるような赤い髪と、その奥でさらに激しく燃える激情の炎。深く関わるほどに、この男は本物だと確信していった。
だから、血を与えた。
——0.6%。
魔女の血に適合し、生物として一段階進化できる確率。適合できなければ肉体は瞬時に崩壊し、灰となる。だから気に入った者がいても、躊躇いが生じる。やってみなければ分からない。しかしその確率は、あまりにも低すぎる。
今までに成功すると確信できたのは、アラベリクだけだった。
そして実際に成功し、永遠を共にするはずだった。肉体だけではなく、精神的にも確かに繋がっていた。愛し、愛されるということがどういうことなのかを、初めて知った。
しかし、あの男は去った。
理由など、今となってはどうでもいい。ただ、あの男が去った後の世界が、ひどく色褪せて見えたことだけは覚えている。
色は、今も戻っていない。
その後は気まぐれに、求める者がいれば喜んで血を与えた。成功したのは三十年前の一人だけで、後は全て灰と化した。そこに後悔などないだろう。灰になることを承知で血を求めた連中だ。
ゴオン……ゴォン……。
ぼんやりと月を眺めていると、突然頭の中で鐘が鳴り響いた。
セフィロトは目を細めた。
——これは、どっちだ。
この世界には、セフィロトの他に二人の神祖の魔女が存在している。『規律』のエデンと、『虚無』のアビス。
三十年前に自分が成功して以来、久しく聞いていない音だった。アビスが最後に成功したのは数百年前。エデンに至っては、一度も成功したことがないはずだ。試したことがあるのか分からないが。
アビスであればいい。あの女は自分と同じ、気まぐれな魔女だ。何かを企んでいるわけではあるまい。
——だが、エデンであれば?
あの女の行動は読めない。
明るい言動と涼しい顔。相容れない二つが同居していて、それが不気味だった。
魔人は戦力として切り札になりうる。
この三竦みのバランスを崩すブレイカーとして動き始める可能性も、ゼロとは言い切れない。
しかしあの女が、気まぐれに血を与えるとも想像がつかない。
ならば——何のために?
ざわざわとした胸騒ぎが、胸の奥で膨らみかける。しかしセフィロトはすぐに、それを煙草の煙でも吐き出すように手放した。
「ふん、くだらない。どうせ来たところで返り討ちにするだけだ」
私には、その力がある。
窓から離れ、ベッドへと引き返す。後ろで男たちが起き上がる気配を感じる。それでも背中は向けたままだった。振り返る気になれなかった。
月明かりだけが、静かに部屋を照らしていた。
色のない、白い光だった。




