第8話 魔人誕生――5
ヴォイドは、扉の影からその様子をこっそり窺っていた。
本当にヤバくなったら救出するつもりではいた。無愛想で何の面白みもない奴だが、この一ヶ月、死ぬ気で努力していたことはよく知っている。その点だけは認めていた。——まぁ、貸しを作って倍にして返してもらおうという打算も、もちろんあったが。
そして、コウの顔面に神話級武器が突き刺さった。
ここまでだな、と足を踏み入れかけたその瞬間——ゾクリとした気配を感じた。
天井の窓に、エデンが張り付いていた。
……なんだかんだ言いながら、甘いんだよな、あの御方も。
踏み入れかけた足を引っ込め、もう少しだけ様子を見ることにした。
◆◆◆
全身血まみれで今にも死にかけているコウに向かって、エデンは静かに歩を進めた。
「よくやったわね、コウ。《《最初の》》試験は合格よ」
反応はない。
声が届いている気配すらなかった。エデンはしゃがみ込み、コウの顔を覗き込む。
やはり、反応はない。
生きているのは分かる。ただ、それだけだった。
「アングラ・マイニュは呪いだったっけ。だとしたらもう、目も耳もダメになってるってことかしら」
困ったように腕を組み、少し考え込む。
「仕方ないわね。このままだと死んじゃいそうだし——このまま《《最後の》》試験を実施するか」
そう言って懐からナイフを取り出すと、躊躇なく自らの左腕を斬り裂いた。白い肌から、鮮やかなほどに赤い血が滴り落ちる。コウの頭を掴み、口を開けさせ、その血を静かに注ぎ込んでいく。
「さぁ、運命の答えを見せてちょうだい」
静寂。
ビクン、とコウの体が跳ねた。
じわじわと漆黒の炎が、その身体を覆い始める。
ぐちゃぐちゃになった右の拳が、《《赤いメリケンサックと同化しながら》》再生されていく。左手も欠損した指を取り戻しながら、神話級武器アングラ・マイニュを静かに呑み込んでいった。
顔の傷が塞がり、失われた左の眼球が、元に戻っていく。
ゴオン……ゴォン……。
その時、どこからともなく魂を凍りつかせるような鐘が鳴った。
耳から聞こえるのではない。頭の中で、直接鳴り響く鐘の音。重く低い響き。
それは、全世界の全ての人類に起きた——数十年ぶりの現象。
魔人が、誕生したのだ。
コウは人類史上六人目の魔人として、新しく生を受けた。
◆◆◆
ヴォイドは呆然とそれを眺めることしか出来なかった。
己が数百年もの間、切望し、焦がれてきたもの。
ヴォイドは魔界の精神生命体として生まれ、エデンの召喚魔術で受肉した悪魔である。神の力を引き継ぐ神祖の魔女の血を飲むことで、進化することが可能となる——上位悪魔へと。
人間がその高貴なる血を飲めば、不老の魔人へと生まれ変わる。死にかけのガラニン国王がエデンの首を欲したのも、正義のためなどという表向きの理由の裏に、それが本来の目的としてあることは想像に難くない。
いつかエデンに血を分けてもらうために、ずっと尽くしてきた。面倒ごとは全て己が処理してきた。何百年も。それだけやっても、未だ分けてもらえぬその血を——この世界に来たばかりの若僧に、こんなにもあっさりと。
神祖の魔女の力が通じない特異体質の持ち主だからか?
不干渉を貫いていた他の魔女たちといよいよ対決するつもりなのか?
拳が、震えていた。
エデンがどういうつもりで己をこの世界に召喚してくれたのかは分からない。しかし、それが単なる気まぐれであっても——その可能性は大いにある——感謝の気持ちは変わらない。エデンに恨みを向けることなど、出来るはずがない。
かといって、コウに怒りを向けるのもおかしな話だ。本人が望んだわけではない。エデンが選んだ。ただ、それだけのことだ。
矛先の向けようのない怒りというのは、どのように処理すべきなのか。
ヴォイドは一度だけ大きく息を吐くと、そっとその場を後にした。
そして、そのままエデンの城に戻ることはなかった。
◆◆◆
コウの五感が、少しずつ輪郭を取り戻していった。
ぼやけた視界がはっきりしてくる。聴力も戻ってくる。隣に座っているのがエデンだと気付くまでに、それほど時間はかからなかった。
全身が燃えるように熱い。いや——文字通り、黒い炎に包まれている。再生されていく自分の肉体を、コウは他人事のように眺めていた。
「貴重な超越能力をゲットしたわね」
「超越能力?」
「そう。魔人として生まれ変わると、何らかの力に目覚めるのよ」
魔人。生まれ変わる。
意味の分からない単語が並ぶ。脳の処理がフリーズしかけるが——まぁ、いつものことだ。
「君の場合は、『肉体再生』ね。現在の治癒魔術では欠損部位の再生は無理だから、めっちゃ貴重」
「……へぇ」
「リアクション薄いなぁ」
エデンが苦笑する。
「魔人の不老体質と合わせると、殆ど不老不死になったようなものじゃない」
不老不死。口の中で転がしてみたが、やはりピンとこない。
「そもそも、魔人になったというのが分からない。実感もないし」
「まぁ、そりゃそうか。でも、わたしがいなければ死んでたことくらいは分かるでしょ?」
「……まぁ、それは確かに」
右の拳に視線を落とす。
さっきまでぐちゃぐちゃだったはずのそれが、今は完全に元に戻っている。左手も、欠けていた指が綺麗に揃っていた。
ただ、なぜか両方の手の甲に趣味の悪いタトゥーのような、赤い紋章のようなものが刻まれている。
「ちゃんと借りは返してもらうわよ。こき使うことになるから覚悟しなさい。忙しくなるわよ」
「え……俺はまた何かさせられるのか?」
「そう、わたしは世界を支配する為に動くから、君はその手伝い」
「は……?」
思わず、エデンの顔をまじまじと見つめた。冗談を言っている様子はない。いつも通りの、涼しい顔だった。
「わたしは『規律』を司る神祖の魔女。規律で調和した美しい世界を築かなければならない。いい加減行動を開始しろって魂に急かされてるの。めんどくさいけど」




