第7話 魔人誕生――4
コウの気配を察知したのか、先輩は鋭い視線を訓練場の入口に向けた。
「お……?」
一瞬の静寂。
コウは覚悟を決め、一歩足を踏み出した。
「久しぶりっすね、先輩。何してんすか、こんなとこで」
「ハハハッ!! お前もこっちに転移してやがったのか。めちゃくちゃ酔わなかったか?」
以前と同じような軽い調子だった。しかし、その全身を纏う空気が違う。研ぎ澄まされた刃のような鋭さ。かつての面影は、あまり無かった。
「ゲロ吐きました」
「相変わらずしょぼいヤローだな。てか、何してんだはこっちのセリフだよ。勝手に入ってきやがったのか?」
「まぁそうっすね。ちょっと探し物をしてて。――先輩、アングラ・マイニュって知ってます?」
その言葉を聞いた瞬間、先輩の目つきが変わった。笑みは消えていない。しかしその瞳の奥に、ぞっとするような光が灯る。
「……ああ、知ってるよ。こいつがそうだ」
腰の鞘から、自慢げに、突きつけるように短剣を抜き出す。どす黒い赤い刃。レーヴァテインと同じ色、同じ質感。
「はぁ、良かった。最短ルートで辿り着いた……。先輩、それ俺に下さい。今までの借金チャラにしてあげますから」
「は……?」
瞬間、場の空気が凍りついた。
「舐めてんのかテメェ。やるわけねぇだろ、馬鹿が」
「……じゃ、ちょっとだけ痛い目見てもらいますけど、いいっすか?」
「——やってみろ、雑魚が」
スキンヘッドのこめかみに、青筋が浮かんだ。
自分に搾取されるだけのゴミのような存在が、生意気にも本気でやり合うつもりらしい。おかしくて仕方がない、とでも言うように口の端が吊り上がる。
コウが構える。先輩も短剣を構えた。
「ハハッ。本番前の試し斬りって奴だ」
静かな声だった。先ほどまでの軽い調子が、すっと消えていた。
「切り刻んで細切れにして、カラスの餌にでもしてやるよ」
それは脅しでも冗談でもないことが、すぐに分かった。その瞳に狂気の炎が揺れていたから。
コウはじりじりと間合いを詰めていく。この一ヶ月、ひたすら泥人形との戦闘訓練に励んできた。かつて、この男にボコボコにされた時の自分とは違う。
挨拶代わりの右ストレート。
レーヴァテインのメリケンが赤い残像を引きながら伸びていく——が、先輩はひょいっとステップバックするだけで難なく躱した。
躱すだけではない。
返す刀で短剣を軽く振るい、コウの右の二の腕を斬り裂く。
血飛沫が宙を舞った。
鋭い痛みが走る——が、すぐに薄れていく。その代わりに、キィィィ……という細い音が頭の奥で鳴り始めた。視界も、じわじわとぼやけていく。
「!?」
おかしい。痛みが消えるのが早すぎる。体勢を立て直そうとするが、感覚がどこかふわふわとしていた。
「ハハッ。どうだ? 呪いの王の力は? こいつに斬られるたびに、てめぇの感覚は奪われていく。視覚も、聴覚も、触覚も、何もかもだ」
……そういうことか。
耳鳴りも、先輩の声がやけに遠くから聞こえてくるのも、ぼやけた視界が戻らないのも。
じわじわと、背筋に冷たいものが走る。
斬られるたびに感覚が奪われていくなら、長引けば長引くほど不利になる。しかも、さっきの攻防だけで既に分かってしまった。《《分からされてしまった》》——格闘術の差は、埋まっていないことを。
一ヶ月の訓練では、まったく足りていなかった。
先輩の目は完全にイッてしまっている。こちらの焦りを楽しむように、ゆっくりと間合いを詰めてくる。獲物を前にした獣の目だ。急かされるように心臓が早鐘を打ち始めた。
別に死んでも構わないなどと思っていたはずが、今この瞬間、死ぬのが怖い。
かつての自分は本当に死んでも良かった。
いつから、こうなった?
『私と一緒に、その心を蘇らせる術を探してみない?』
エデンと初めて出会った夜の言葉が、脳裏に浮かんだ。
心が蘇るって何だよ?
世界はどんな風に見えるって言うんだ?
その答えを知るまでは、死ぬわけにはいかない。
コウは奥歯を噛みしめ、再びファイティングポーズを構えた。
「はっ。まだやる気満々ってか。いいねぇ。てか、やる気をなくしたところで、てめぇはメッタ刺しになるだけだけどな!」
薄暗い電灯の下で、先輩のピアスが妖しく光った。
フェイントを織り交ぜながら、突進してくる。コウはタイミングを合わせて拳を放つ——しかし、またしても余裕で交わされ、短剣が一直線に鋭く伸びる。
ぼやけた視界の中で、それが顔面に向かってきていると気づいた瞬間――左目が暗闇に覆われた。
視力を奪われたせいではない、と瞬時に理解した。耳の奥でにちゃっと肉から何かが引き抜かれるような不快な音が響いた。
痛みはなかった。
その一撃で痛覚もまた奪われたのだろう。視界はますます狭く、ぼやけていく。
——終わりか。
そう思った。思ったが——足が、動いた。倒れなかった。なぜ倒れないのか、自分でも分からなかった。ただ、膝が地面につくことを拒んでいた。
「ははははははははっ!! どうだ、目ん玉貫かれた気分は? 万が一、生きて帰れたら眼帯を買っとけ!」
先輩が何か言っているが、ほとんど聞き取れない。かつて左目のあった場所から血がどくどくと流れ落ちていることにも、コウは気づいていない。
「しかし、痛覚まで奪っちまうのは面白くねぇな。のたうち回って痛がる様を見れねぇんだから」
短剣が、また構えられる。
先輩は完全にコウの死角となる位置へゆっくりと移動し——そこから飛び掛かるように、赤い刃を振り下ろした。
コウがそこに左手を置いたのは、ただの勘だった。
短剣の刃は、コウの小指と薬指を切り落とし、中指の根元に喰い込んだところで止まった。
もう目も見えない。
だが、《《そこにいることだけは分かる》》。その短剣が居場所を教えてくれる。
コウは右の拳を握りしめた。
そして暗闇の中で、大体このあたりだろうという場所を殴りつけた。思い切り。
何かが当たった感触はあった。
しかし、それが先輩の顔面だったことまでは分からなかった。
その顔面が汚い花火のように弾けて飛び散ったことも分からなかった。
肉が飛び散る不快な音も、耳には届かなかった。
その一撃で自分の拳が砕けてぐちゃぐちゃになったことも、気づかなかった。
ただ、その場にへたり込むことしか出来なかった。
指が二本欠けた左手に神話級の短剣を突き刺したまま。
ガシャン!!
天井の窓から、何かが降りてきた気配だけは感じ取れた。
それがゆっくり近づいてくる。
もう動くことも出来ない。
――ああ、今度こそ終わりか。




