第46話 暗黒輪舞――3
コウはこの戦いをどう進めていくか、そのことにだけ考えを集中させていて、《《それ》》に関して深く考えることをしなかった。
足元からゾゾゾと這い上がってくるヴォイドの闇の魔力を――単なる魔力だと、そう思い込んでいた。
それが、致命的なミスだった。
冷静に考えれば分かることだ。
魔術とは魔力の変換。分かりやすいところでは己の操る「氷の王」。あれは魔力を凍結――氷に変換している。見た目からすぐに分かる変換だ。
《《だから、気づかなかった。》》
外見上、何も変化していなければ、まだ魔術は発動されていないのだと。
しかし、ヴォイドが上位悪魔に進化した際に授かった超越能力「常闇沈泥」は、闇そのものを司る。
コウの足元は既に変質していた。
底なしの黒い沼へと。
這い上がってくる闇の様は、地獄の底から亡者が生者を引き摺り込んでいく怨念のよう。じわじわと両足に絡みつき、その闇は少しずつ質量を伴い始める。
その段階でコウはようやく異変に気づいた。
???
慌てて振り払おうとする。
しかし、体にべっとりとへばりつくそれは異様なまでの吸着力を持っていた。
逃げることを許さない。
もがけばもがくほど深く沈んでいく。
実際に地面が沈んでいくわけではない。
だが、泥のような闇が足元から膝へ、膝から腿へ、腿から腰へと侵食していく感覚は――底なし沼に引き摺り込まれているのと、何も変わらなかった。
「な――!?」
体を覆う泥の量が増えるにつれ、質量も増す。コウは身動きすらまともに取れなくなっていく。
そして――もう一つの事実に気づいた。
魔力が《《吸われている》》。
全てを呑み込む泥は、魔力さえも呑み込んでいく。
脱しようと魔力を解放しても、その瞬間に消滅する。
呑まれる。
暗闇の中でろうそくの火を灯そうとするような、虚しさだった。
――どうする!? どうすればいい??
闇は既にコウの首のあたりにまで達し、すぐに口元まで這い上がる。
口から。
鼻から。
体内へと侵入を開始する。
味など無い。
ただ、泥を押し込まれていく感覚。
肺が圧迫され、呼吸が封じられていく。
喉が動かない。
声が出ない。
言葉を発することさえ出来ない――。
「男の嫉妬か。さっきはカッとなって否定しちまったが、その通りかもしれねぇ。オレは純粋にあの方のお役に立ちてぇんだ。誰よりも。ただ、それ以外の全てにおいてはお前のことは嫌いじゃなかったぜ。愚直に努力する才能がある。泣き言も言わねぇ。お前を認める部分なぞいくらでもあった」
もはやコウにその言葉は届いていない。それどころではない。
体は冷え切っている。
指一本動かせない。
生命活動を維持するためだけに、魔力が恐ろしい勢いで消費されていく。
視界は真っ暗だ。
目を瞑っているからなのか、頭まですっぽりと闇に包まれているからなのかすら、もう判別できない。息を吸おうとするたびに泥が気管へ流れ込んでくる。
気持ち悪い。
苦しい。
このまま溶けて消えてしまいそうな感覚。
思考もまた、闇に染まっていく。
――死ぬ。
しばらくすると、必死に足掻き、もがいていたコウの動きがピタリと止まった。
「……終わったか?」
ヴォイドは一瞬、魔術を解こうかと考え――しかし止めた。
「こいつのしぶとさは侮れねぇ。しばらくキープだ」
そう言って、周囲に警戒の目線を配る。
「常闇沈泥」発動中は当然ヴォイドも魔力を消費している。魔力が尽きたところをランに襲われたら本末転倒だ。あいつを殺せる程度の余力だけは残しておかないと。
コウとの闘いはもう終わったとばかりに、別のことへ意識を割く余裕まで生まれていた。
当然だ。
誰が見てもこの状況から逆転などあり得ない。というより、コウは既に死んでいる可能性の方が極めて高い。
――だから、それを油断と断ずるには少々気の毒だ。
ランを警戒するために一瞬だけコウから目線を切った。
戦いの最中、一瞬目を離すことなど普通にある。その一瞬後も、コウの体は闇に覆われたまま全く動いていなかったのだから。
運が悪かった。
たまたま、そのタイミングでコウの体がわずかに跳ねたことに気づけなかった。
コウはまだ死んでいなかったことに、気づけなかった。
「さすがに、もういいだろう」
ヴォイドは徐々に魔術を緩め始めた。
コウの生命は風前の灯火だった。あともう少しだけ闇に呑まれていれば、間違いなく絶命していた。
しかし――コウは窒息寸前の極限の中、全魔力を体表に集中し展開し続けていた。
意識は細い一本の糸で繋がれたままだった。
だから、ヴォイドが緩めた瞬間にそれは発動した。
氷の王。
ヴォイドの泥が絡みつく魔力を、コウの魔力が上回る交差地点。
パキッという音と共に、粘りつく闇の泥が瞬時に塗り替わっていく。
絶対零度の氷。
泥からガラスへと変質し、変質した箇所から次々と砕けていった。
「な――!?」
驚きの声を上げたのは今度はヴォイドの方だった。
慌てて「常闇沈泥」の出力を上げようとする。だが、既に遅い。闇はコウの体から完全に取り払われていた。
コウは右手を伸ばし、掠れた声で呟いた。
「凍天絶華」
氷針の弾幕が展開された。
音速を超えた速度で、無数の針がヴォイドへと撃ち込まれる。
全身を突き刺す、鋭い痛み。
それは同時に、熱をも奪っていく。
泥を感じるのは今度はヴォイドの方だった。
血が凍り始め、泥のようなシャーベットへと変わっていく。動きが鈍くなる――というより、動けない。四肢が言うことを聞かない。
ヴォイドは瞬時に全魔力を回復へと集中させる。
その隙を逃さず、コウは足を引き摺り、よろめきながら近づいた。
そして右の拳――「破壊の王」をヴォイドの腹に、軽く叩き込んだ。
それだけでも骨を砕き、内臓を潰す感触があった。
全力で叩き込めば風穴を空けることが出来た。
顔面に叩き込めば、スイカのように粉砕し一瞬で絶命させることも出来た。
だが、そうしなかった。
何故か。
純粋に、殺したくなかった。
この男を殺すことを、本能が忌避していた。
自分にとって、この世界で生き抜くための戦闘技術を鍛えてくれた師匠だったから――というのももちろんある。
だがそれ以上に、エデンにとってもヴォイドはきっと大切な存在だからと感じていたからだ。
きっとヴォイドがエデンを思うのと同じくらいに。
何百年も仕えてきたのだ。
そうでなければ報われない。
ヴォイドは全魔力を使い果たし、何とか一命を取り留めた。
そして地面に倒れ込み、荒い息を吐きながら、問いかけた。
「……何で殺さなかった? お前をマジで殺そうとしたのに」
コウは答えるまでに少し間を置いた。
「お前を殺したらエデンが悲しむ」
「……ハハッ。そんなわけねぇだろ。オレはあの方にとって都合の良い駒の一つに過ぎねぇ」
吐き捨てるように言いながら、しかしヴォイドの目線は地面に向いたままだった。否定の言葉のわりに、その声にはどこか力がなかった。
コウは地面に座り、ヴォイドへ真っ直ぐに視線を向けた。
「そんなことねぇ。俺には分かる」
「お前に何が分かる」
ヴォイドは吐き捨てた。
しかし顔を上げ、コウを見た。睨みつけるような目だったが、その奥には何かを問いかけるような色があった。
「他人同士がどういう関係性かなんて、第三者目線で見た方が分かる時もある」
「……」
ヴォイドは何も言わなかった。ただ、反論もしなかった。
コウは続ける。
「帰って来いよ。エデンは今めちゃくちゃ忙しくしてんだ。お前が戻ってくれたら、色々助かる」
しばらくの沈黙があった。
風が吹いて、二人の間を通り抜けていく。
ヴォイドは目を伏せ、何かを噛み締めるようにしていたが、やがて静かに口を開いた。
「どの面下げて戻れってんだ。今さらオレの居場所なんてねぇだろ」
「あるさ。俺がエデンの右腕なら、お前は左腕になればいい」
その言葉に、ヴォイドはわずかに目を見開いた。それからフッと、小さく鼻で笑う。
「……確かにそりゃ悪くねぇ。だが、左腕になるにはまだ力が足りねぇ」
そう言いながらヴォイドはゆっくりと身を起こした。
全身はボロボロで、立ち上がるだけでも相当の気力を要しているのが見て取れた。しかし、その背筋は真っ直ぐだった。
「もっと強くなってから戻る。そう伝えといてくれ」
「分かった」
さっきまで死闘を繰り広げていたとは思えない、今にも和解の握手をしそうな空気になりかけたところで――二人は同時に口を閉じた。
再び緊張感が、空気に満ちていく。
その緊張の源へと目を向ける。
そこには、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくるランの姿があった。
――コウにもヴォイドにも、もはや魔力は残されていない。




