第44話 暗黒輪舞――1
馬車は夜道を駆け抜ける。
獄炎卿の残した魔力の残滓が、風に乗って追いかけてくるような気がして、二人は落ち着かなかった。
のんびりとした気の抜けた行きの空気は跡形もなく消え去り、今さらながら緊張感に包まれている。
ようやく気づいたのだ。
ここは混沌の領域。気安く遊びに来れるような場所ではないということを。
何度か休憩を挟み、数日が過ぎた。
山道に差し掛かる頃には、木々の色が変わり始めていた。毒々しい紫がかった緑から、見慣れた深い緑へ。空も、じわじわと青みを取り戻していく。体に纏わりついていた湿気が薄れ、空気が軽くなっていくのが分かった。
山の景色が広がってくると、安堵で胸が満たされ始める。
「ここまで来れば安心ですね」
「ああ、そうだな」
御者台でウーログの握る手綱から、力が抜けていくのがコウにも伝わってきた。
「ふっ。お前、何か大人っぽくなった気がするな」
「いやいや、隊長こそ。魔力が引き締まったというか」
「お? 分かるか? 何か自分でもそんな気がしてたんだよ」
軽口を叩きながら、馬車は山道を登っていく。
この数日、過度に緊張を強いられてきた二人は、完全に弛緩していた。獄炎卿を間近で見た後では仕方がないのかもしれない。あれを経験した後では、全てが軽く感じられる。
だから、気づかなかった。
コウはともかく、普段のウーログであれば百メートル以上先でも探知できたはずの魔力。即ち、警戒しなければならないレベルの何かが。
それが突然、目の前に現れた時も、二人はただぼんやりと前を向いていた。
「止まれ」
声が、投げかけられた。
馬車の前に、男が立っていた。
両手を広げ、道を塞ぐように。
黒髪に褐色の肌。年はコウと同じか少し上くらいだろう。目立った特徴はない。まるで最初からそこにいたような、いなかったような。
ウーログの細胞が、じわじわと反応し始めた。警戒信号が鳴り始める。弛緩していた体が、音もなく緊張を取り戻していく。
「……隊長。まずいです」
男へ向けた視線を外さず、隣のコウへ静かに伝える。
「見りゃ分かる。何か普通じゃねぇ」
「こいつの相手をお願いしていいですか?」
「ああ。お前は馬車が壊れないようにどっかに避難しとけ」
「いえ。そういうわけにはいきません」
ウーログの声のトーンが変わった。
「もう、囲まれてます」
「え? マジで?」
コウはキョロキョロと周囲を見渡す。木々の影が、妙に濃い。
なるほど。確かに人の気配がある。
「三十人くらいですかね。こっちは僕がまとめて相手します」
「そんなに!? 大丈夫か、一人で??」
「問題ないです。隊長はこいつに集中してください」
ウーログは御者台から飛び降り、馬車の扉を開けて車内から愛用の槌を引き抜くと、森の中へと駆け出していく。
コウは男を正面に見据えて口を開いた。
「おい、何が目的だ? 俺たちはここを通りたいだけだ。金なんて殆ど持ってねぇぞ!」
「ああ、そうだろうな」
男は動じない。表情も、姿勢も、何一つ変わらない。
「でも馬車自体はいい造りだ。売れば多少の金になるさ」
「多少の金程度で、命を無駄にする気か? 俺は上手く手加減が出来ねぇ。死ぬぞ?」
「そいつは怖えな」
怖えな、と言いながら、その瞳は少しも揺らがない。
「だが、あいにく金なんぞオマケでしかねぇ」
「なに?」
「俺の名はラン・フォンユ。この山の主だ。お前に求めるのは金じゃねぇ。お前の魔力だ」
魔力? コウは頭の中で繰り返した。
意味は分かる。
しかし、他人の魔力を求めて何をするつもりなのか。聞いたところで答えるような男でもないだろう。重心を落とし、いつでも動けるよう態勢を整える。
そして、男が静かに呟いた。
「多層殻」
最初に音が来た。
メキ、と。
皮膚の内側から何かが押し上げてくるような、湿った音。
次の瞬間、ランの皮膚が弾けた。
裂けたのではない。
内側から突き破られたのだ。
そこから現れたのは真っ黒な甲殻に似た何か。血管のような筋が表面を走り、規則的に脈打っている。自身の体そのものが変質したのだと理解するまで、少し時間がかかった。
そして指の間から、関節から、黒い水晶のような鋭い殻が次々と押し出されてくる。光を反射しない。飲み込んでいる。やがてその全身が、闇そのものを纏ったような外骨格の鎧で覆われた。
コウの頭でクエスチョンマークが乱れ飛ぶ。
今まで色んな魔術を目にしてきた。欠損部位まで再生させるコウが言えた義理ではないが——こいつのこれは何だ? 体をこのように変質させる魔術など、見たことも聞いたこともない。
すると黒い甲殻の兜の下から、ランは問いかけた。
「何だぁ? 何が可笑しい?」
コウの口元に、笑みが浮かんでいた。
本人は気づいていない。ヒリヒリするような命のやり取りの予感に——本能が、静かに喜び始めていた。
「ハッ。てめぇもイカレてやがるか。ならぶっ殺しても心が痛まねぇな。世の中の為って奴だ」
言葉が終わる前に、ランが飛び込んできた。
鎧に重さはないのか。その外観からは想像もできないスピード。
だが——目で追えた。
反応できる。躱せる。叩き込める。
あの凶雷の魔人の雷速とは、比べるべくもない。
拳が来る。
軽くステップバックして躱すと——コウは右の拳を、顔面へと叩き込んだ。
が、コウの一撃も躱された。しかし完全には間に合わなかったようだ。
バキッ。
頭部の殻が、発泡スチロールのように粉砕した。
「なに!?」
ランが驚き、一歩後退する。
「……俺の鎧がこんなに軽く砕かれるなんざ初めてだぜ。しかも、拳でだと?」
「俺のこの拳の前では全ての防御力は無効になる。ただ固いだけっつーんなら、お前は俺の敵じゃねぇぞ?」
一歩、踏み出しながらコウは続けた。
「隠してんじゃねぇよ。お前に感じたヤバさは、これじゃねぇ」
ランはククッと、楽しそうに喉を鳴らした。
兜の奥の顔は窺い知れないが——身に纏う雰囲気が、変質していく。
その体から、不吉な魔力が滲み出してくる。
空気が、歪んだ。
「そうか。バレてたか。少し痛めつけてからと思ってたんだが、仕方ねぇ。見せてやるよ。——『多次元・捕――」
その瞬間——
ドンッ!!
何かが、落ちてきた。
いや。
降りてきた、と言うべきか。
二人の視線が、同時にそちらへ吸い寄せられる。
そこには、背中から黒い翼を生やした、スーツ姿の男。
黒髪で、細身で——どこかで見た気がした。
いや、知っている。
脳の奥から記憶が引き出されてくる。
忘れるわけが、なかった。
「よう、久しぶりだな、コウ。西へ向かう途中にお前の魔力を探知してな。ちょうど探してたんだ。会いたかったぜ」




