第42話 名前のない怪物
それは、太古より存在するナニカだった。
名はない。
名をつける者が、かつて一人もいなかったからだ。
人の形をしていない。
獣の形もしていない。
強いて言えば、形がない。透明で、粘性があり、闇の中ではほとんど視認できない。触れれば分かる。しかしその時にはもう、遅い。
不穏や禍々しさ、人類の奥底に眠る根源的な恐怖を呼び起こす何か。
それがこの生き物だった。
いつ生まれたのか、誰も知らない。
神々の時代から地べたを這いつくばり、捕食し、生き延び、数千年の時をかけてようやく知性というものを獲得するに至った。
それはその夜も、いつものように狩りに出た。
闇の中を移動するナニカに、音はない。気配もない。ただ、地面を這う透明な染みのように、馬車との距離を縮めていく。
馬が異変に気づいたのは、それが車輪に触れた瞬間だった。激しくいなないて、立ち上がろうとする。
しかし遅かった。
ナニカは馬の足元から這い上がり、全身を包む。外から見れば、馬は突然その輪郭を失ったように見えただろう。
消えた、というより、溶けた。何かに呑み込まれた。
しかしそれがどう消化されたのか、痕跡は何一つ残らなかった。骨も、血も、毛一本も。ただ静寂だけが後に残る。
それは馬車の中へ入り込んだ。
御者たちも、馬と同じ運命を辿った。声を上げる間もない。
全てを捕食し、寝床へと戻ろうとする。
しかし。
荷台の隅に、小さな命があったことに気づいた。
赤子だ。
毛布にくるまれ、静かな寝息を立てている。
ナニカはその傍らで、動きを止めた。数千年生きてきて、初めて覚える感覚だった。食欲ではない。それとは別の、奇妙な衝動。知性を得たことによって芽生えた、知的好奇心とでも呼ぶべきもの。
この生き物と融合したら、どうなるだろうか。
ナニカは赤子の顔に近づいた。透明な体の一部が細く伸び、糸のように鼻孔へと侵入していく。粘性を持った体が、少しずつ、少しずつ、赤子の体内へと流れ込んでいく。赤子は目を覚まさなかった。抵抗もしなかった。ただ、寝息が止まった。
心臓の鼓動が、一度、二度と間隔を空け——止まった。
ナニカは生命活動の終わりを認識した。そして、自身を溶かし始めた。体内で広がり、細胞の隙間へ染み込み、血と混ざり、骨に沿って広がっていく。
赤子の心臓が再び動き始めた。
そして目を開く。
思った通り、上手くいった——はずだった。
誤算だったのは、自身を溶かしてしまったことで、自身の存在をも消滅させてしまったことだ。数千年の記憶も、ようやく獲得した知性も、形も、全てが失われた。もはやそこにあるのは、普通の赤子と何も変わらない小さな命だけだ。
赤子は泣き声を上げた。
闇の中に、その声だけが虚しく響いた。
◆◆◆
ラン・フォンユはしがない山賊のボスである。
しがない、というのはあくまで彼が率いる山賊団のメンツや規模の話であって、彼自身に対する評価ではない。彼の繰り出す魔術は人類未踏の領域であり、唯一無二。この混沌が支配する領域の一角で、大きな顔をするだけの資格はある。
強さこそが全て。
そうやって生きてきて、これからもそう生きていく。
そんな彼が、悪夢にうなされ目を覚ました。
暗い天井が視界に広がる。
息が荒い。
心臓が、まだ夢の中にいるように脈打っていた。
たまに見る夢だ。
しかし夢と言い切れるのか、いつも自信が持てない。夢にしては、あまりにもリアルすぎる。匂いがある。感触がある。そして何より——あの感覚が、毎回全く同じなのだ。
夢の中で、ランは人間ではなかった。
形がない。
透明で、粘性があり、地べたを這いつくばっている。
動物を見つければ近づいて、包んで、溶かす。
相手が凶悪な魔獣でも同じだ。
見境がない。知性の欠片もない。ただ本能に従って動くだけの、不気味で惨めな原始生物。捕食するたびに何かが積み重なっていく感覚があった。記憶でも知識でもない、もっと得体の知れないナニカが。
気持ち悪いのは——その捕食の感覚が、自身の魔術の一部と、妙に似ていることだった。
偶然だ。
そう片付けるのは簡単だ。
しかし毎回この夢を見るたびに、その言葉の重さが少しずつ薄れていく。夢というよりも、失われて断片となった記憶を、眠るたびに少しずつ思い出しているのではないか。
もしそうだとしたら自分はかつて、この悍ましい――。
「ふっ。まさかな」
ランは誰にともなく一人呟いた。暗い天井に向かって。
「んー? どうしたの?」
隣から声がした。
マー・ミンシャ。
ランより少し年上の女だ。起き抜けでも、その声はいつものように落ち着いていた。眠そうに瞬きをしながら、丸みのある体をこちらへ向ける。月明かりの中で、豊かな黒髪が乱れていた。
「いや、何でもない。悪りぃな、起こしちまったか」
「んーん。ウトウトしてただけだから」
マーは体を起こすでもなく、横になったまま柔らかくランを見た。
「また、嫌な夢でも見てた?」
「……ああ、ちょっとな」
それだけ言うと、マーは無言でそっと腕を伸ばした。ランの背中に回り、引き寄せる。言葉はなかった。ただ、優しく包まれる。
温かい。重みがある。柔らかい。
ランは目を閉じた。
さっきまで荒かった呼吸が、少しずつ、落ち着いていく。
母親の顔を知らない。
だから、抱きしめられた記憶もない。子供の頃からこの感覚を知っていたら、今の自分は何か違っていただろうか。
——いや、考えるだけ無駄だな。
それより今は、これで十分だ。
板張りの壁の節穴から、月明かりが一筋だけ差し込んでいた。




