第41話 混沌接蝕――3
混沌領域に侵入して三日目の夜になると、ようやく風景が変わり始めた。
草原が終わり、なだらかな山脈地帯へと景色が切り替わっていく。空は低く、雲が厚い。草原の単調な灰緑とは違う重たさが、山全体を覆っていた。
遠くで何かが吠えている。
恐らく獣だろう。それが反響して、山のどこから聞こえているのか分からない。不気味ではあったが、ここが死んだ世界でないことだけは分かった。
草原と違い、山道は一応存在していた。荒れてはいるが、馬が通れる程度の幅がある。誰かが使っている道だ。
「この山に入ってから、魔獣だけじゃなく人間の気配もあちこちから感じられますね」
「そうなのか? 相変わらず俺には全く分からんけど……」
「一般人レベルの微弱な魔力なので、隊長が気にするレベルではないです。小さな集落が点在しているようです」
「マジで? だったら一番近いとこに行ってみようぜ。とりあえず情報収集したい」
「了解です」
ウーログは馬を右へ誘導し、道沿いに進んでいく。よく見れば、道の脇の草が定期的に刈られているような痕跡があった。放置されているわけではなく、最低限の手が入っている。
山道を進むにつれ、岩肌が露出した箇所が増えてきた。岩の色は黒みがかっていて、表面がうっすらと光を帯びているように見える。魔鉱石を含んだ地層なのかもしれない。山肌のあちこちに坑道の入口らしき黒い穴が口を開けていた。今は使われていないのか、どれも静まり返っている。
しばらく進むと、木々の間から煙が細く立ち上っているのが目に入った。
「到着したみたいです」
馬車を止めた先に広がるのは、森の一角を切り拓いた集落だった。
丸太を組んだ素朴な柵が申し訳程度に周囲を囲い、その内側に数十軒の家が肩を寄せ合うように建ち並んでいる。家々は丸太造りで、屋根には苔が生えていた。煙突からは夕餉の煙が上がり、どこからか肉を焼く匂いが漂ってくる。
馬車が止まった音を聞きつけたのか、集落の奥から子供たちが数人、転がるように駆け寄ってきた。
「お兄ちゃんたち、どこから来たの? 旅してるの?」
警戒している様子は微塵もない。
純粋な好奇心だけを顔に貼り付けて、コウとウーログを交互に見上げている。中の一人、まだ幼い男の子がウーログのズボンの裾をぎゅっと掴んだ。
ウーログは巨体をゆっくりとかがめ、子供たちに視線を合わせた。
「ちょっと西の方からね。この村は何て言うの? お兄ちゃんたち、この山を越えてもっと先へ進む予定なんだけど、情報が全然なくて困ってたんだ」
その声のトーンは、普段とは少し違っていた。
柔らかい。コウは一歩引いて眺めていた。子供たちとどう接していいのか、自分には皆目見当がつかない。ここはウーログに任せるのが一番だ。実際、コウの近くには誰も寄ってこなかった。
「ここはロロの村だよ。俺たちは夏まではここで過ごして、寒くなってきたら山を抜けて南の方まで移動するんだ。山の冬はめっちゃ寒いからね」
男の子が胸を張って答える。
時折よそ者に話しているのか、説明慣れした口ぶりだった。
「へぇ。南の方は暖かいんだ。でも、なんでわざわざそんな生活を送ってるのかな?」
「うん。父ちゃんたち男衆はみんな、春から夏にかけて近くの鉱山で魔鉱石を採掘してるんだ。危険な仕事だけど、その分、質のいい石が採れるんだって。寒くなったら鉱山には入れなくなるから、夏までは集中して作業してる。それを街で売れば、暖かくなるまで働かないで暮らせるくらいのお金が稼げるんだよ」
なるほど、出稼ぎ労働みたいなものか。道中で見かけた坑道の入口が頭をよぎった。あの黒みがかった岩肌の下に、良質な魔鉱石が眠っているということだろう。一年の半分を遊んで暮らせるとは羨ましい、とコウは思った。
「その街は大きいの? お兄ちゃんたちも行ってみたいんだけど、地図とかある?」
「あるよ!」
男の子は集落の方へと一目散に駆け戻っていった。そして、しばらくすると、息を切らしながら地図を持参して戻ってくる。
「これ!」
「ありがとう。ちょっと模写させてもらってもいいかな?」
「いいよ!」
ウーログは両腕に数人の子供をぶら下げたまま、器用に自分の地図へ書き加えていく。コウはその地図を横から覗き込んだ。山を抜けると南側に大きな街があり、そこから街道が東西に伸びているようだった。山道の険しそうな箇所にはバツ印が打たれ、「ここ通れない」と子供の字で書き添えてある。なかなか実用的だ。
書き終えると、ウーログは地図を返し、男の子に問いかけた。
「お兄ちゃんたちみたいなよそ者が行っても大丈夫の街かな?」
「大丈夫だと思うよ! 獄炎卿は見た目は怖いけど、本当は優しい人だから。アリゼ様とは違ってね」
「バカ! そんなこと言うとアリゼ様にお仕置きされるよ!」
隣の女の子が青ざめた顔で男の子を肘でつつく。男の子はしまったという顔で、コウとウーログを見上げた。
「お、お兄ちゃんたち、アリゼ様には言わないで!!」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんたちはアリゼ様のこと知らないから」
ウーログが穏やかに笑いかけると、男の子はほっと息をついた。
「じゃ、ありがとうね。僕たち、この獄炎卿の街まで行ってみるよ。山道、気をつけて通ればいけそう?」
「山の中腹あたりに見張り小屋があって、そこのおじさんたちが通してくれるかどうか決めるんだ。よそ者は通行料を取られることもあるけど、変な人じゃなければ大丈夫だよ。お兄ちゃんたちなら問題ないと思う!」
「助かったよ、ありがとう」
「うん、気をつけてね!」
子供たちに手を振りながら、コウとウーログは馬車へ戻った。
「獄炎卿、ねぇ。恐ろしい異名だけど」
コウは御者台に腰を落ち着けながら、呟くように言った。
名前からしてヤバいのは間違いない。エデンへ報告するに値するだろうか。
「アリゼ様、とやらの方が気になりましたけどね」
ウーログが手綱を取りながら、どこか楽しそうに答えた。
「まぁ、今回はあくまで視察だ。ヤバそうだったら即撤収だな」
「了解です」
コウたちはまだ知らなかった。
子供たちの笑顔も、夕餉の煙も、整備された山道も——全てはここが混沌領域の、ほんの縁に過ぎないことを。
闇は奥にある。
深く、静かに、何かが蠢いている。
それを知るのは、もう少し先の話だ。
◆◆◆
全身を引き裂かれるような、と言ったら少し生ぬるい表現だろうか。
もっと手荒い。
もっと根本的な何かだ。
骨が軋み、内臓が位置を変え、血管の一本一本が焼けるように脈打つ。体が内部から破壊され、分解され、再構築されていく。痛みというより、存在そのものが一度ばらばらに解体されていくような感覚。自分が自分であるという輪郭が、溶けて、消えて、また別の形で固まっていく。
外から見ている限りでは、ただ痙攣しているだけのように見えた。
しかし、じっくり観察していると、ただの痙攣ではないことが分かる。顔は苦悶に歪み、体中の血管が皮膚の下で浮き上がり、激しく脈打っている。喉から漏れる声は言葉にならない。何かの酷い発作で、このまま絶命するのではないかと思わせた。
セフィロトはその様子を、窓際に腰を下ろしてぼんやりと眺めていた。
別に失敗したところで自分には痛くも痒くもない。エデンは怒りを向けてくるかもしれないが、そもそも望んだのはこの男の方だ。切望して、自らここまで来た。文句を言われる筋合いは無い。
月光が窓から差し込み、床の上でのたうち回るヴォイドの輪郭を白く縁取っていた。
三十分が経った頃、ヴォイドはピクリとも動かなくなった。
死んだか、とセフィロトは思った。しかしよく見ると、胸が静かに上下していた。
しばらくの沈黙。
ヴォイドは、ゆっくりと起き上がった。
キョロキョロと辺りを見渡し、セフィロトの姿を視界に捉える。そして、深々と頭を下げた。言葉はまだ出てこないようだった。
「どう、気分は?」
セフィロトは静かに問いかけた。
「最高です……」
掠れた声だった。
しかし、その目は違った。さっきまでとは別の光が宿っている。
「魔力が溢れてきて、止まらないです……!」
言葉が終わるより先に、ヴォイドの体が禍々しい闇の魔力で覆われていった。月光と混ざり合い、黒と銀が滲むように広がっていく。部屋の空気が、わずかに重くなった。
「それは良かったわね」
セフィロトは小さく笑った。
「ま、これであんたは文字通り生まれ変わった。今日があんたの誕生日よ」
「ありがとうございます。この御恩、決して忘れません」
上位悪魔へと進化したヴォイドは静かにベッドから立ち上がった。床に落ちていたシャツを拾い、羽織る。それから寝室の扉へと歩いていく。その足取りに、さっきまでの痙攣の面影は微塵もなかった。
そして、扉に手をかけたところで、振り返らずに言った。
「では、ご依頼の仕事へ行ってきます」
扉が静かに閉まる。
月光だけが後に残されていた。




