第39話 混沌接蝕――1
「どうやらエデンは本気で動き始めたようね」
セフィロトは天井を見上げながら、独り言のように呟いた。
小国ガラニンの併合までであれば、まだ理解できた。
あの女のことだ、何か気に喰わないことがあれば、それくらいのことをしてもおかしくはない。しかし大国グレーゲルまで呑み込んだとなれば、話は変わってくる。グレーゲルの東はセフィロトの支配する混沌領域と隣接している。
つまり、あの女の版図が自分の領域の真隣まで迫ってきたということだ。
そしてグレーゲルを足場に、今度は西側諸国へと手を伸ばし始めた。確信へと至るには、それで十分だった。エデン率いるオルドリア王国は、もはや正当な理由もなく各国へ宣戦布告を開始していた。
天蓋付きのベッドの上。
薄い天蓋越しに差し込む月光が、シーツの上に淡い模様を落としている。室内には魔導灯がいくつか灯されていたが、明かりは小さく、部屋の隅は闇に沈んでいた。
セフィロトは横になったまま、隣に寝転がる黒髪の悪魔へと視線を向けた。
「長年尽くしてきたあんたから見て——大陸の西を支配するだけで満足すると思う?」
「……どうっすかね」
ヴォイドは天井を眺めたまま答えた。
「危険を冒して三竦みをぶち壊すとこまで視野に入れてるとは、さすがに考えづらいっすけど」
「……普通はね」
セフィロトは静かに同意してから、しかし続けた。
「でも、あれは何を考えてるか分からないところがある。あんたもそう言ってたじゃない」
明るく飄々として、乾いた笑顔を絶やさない。あの女の笑顔は窓ガラスのようなものだ——向こう側が透けて見えそうで、実際には何も見えない。
「まぁそうっすけど」
ヴォイドは苦笑いを滲ませた。
「オレのような凡人には計り知れない、ってだけで」
「厄介なのはね」
セフィロトは細い指を持ち上げ、天蓋の布地をゆるりと撫でた。
「仮に私たちが衝突しても、アビスは漁夫の利を狙ってきたりはしなさそうなことよ。あれはあれで、もう百年以上自分の世界に閉じこもってるから」
「つまり——背中を警戒することなく、喧嘩を仕掛けられるってことすか?」
「ふっ」
短い笑いが零れた。
「喧嘩で済めばいいけど」
そこで言葉を切り、ゆっくりと息を吸った。
「私たち神祖は相容れない。ぶつかれば——どちらかの存在が消滅するまで、止まらない」
セフィロトは、するりと体を起こした。シーツが滑り落ちる。月光に照らされた白い裸体が、魔導灯の橙と混ざり合い、息を呑むほどの輝きを帯びた。
「いいわ」
セフィロトは振り返らずに言った。
「あんたに血を上げる」
「——え? マジすか……?」
ヴォイドは勢いよく起き上がる。信じられないという顔が、自分でも分かるくらい表に出ていた。
「ご満足頂けたってことすか!?」
「まだ全然よ」
あっさりと言い放ってから、セフィロトは振り返った。その顔には薄い笑みが浮かんでいる。
「その代わり——あんたが無事に進化できたら、仕事を一つやってもらう」
この数ヶ月。文字通り全身全霊を注いで奉仕したつもりだった。それが「まだ全然」という事実に、じわりとしたショックを覚えながらも、今はそこに引っかかっている場合ではないと自分に言い聞かせる。
「仕事……?」
「エデンが突然動き始めた理由は一つしかない」
セフィロトはベッドの縁に腰を下ろし、月明かりの差し込む窓へと目を向けた。
「この前、誕生した魔人。そいつが切り札になると考えてる。ならば——」
そこで一度、間を置く。
窓の外では、混沌を包む夜が静かに広がっていた。遠くで何かが鳴いている。あるいは、何かが軋んでいるのか。
セフィロトは口元に笑みを浮かべたまま、ゆっくりとヴォイドへ視線を戻した。
「そいつを始末してちょうだい」
ヴォイドは一瞬固まった。
「あんたからしても——あの女の隣に立つというなら、邪魔な存在でしょ?」
「オレが……コウを」
名前を口にした瞬間、胸の中で何かが引っかかった。
迷い、と呼ぶほど大げさなものではないかもしれない。
だが確かに、何かが。
しかしそれは——ほんの一瞬だけだった。
「承知しました」
ヴォイドは迷いを断ち切るように、静かに、しかしはっきりと言い切った。
◆◆◆
グレーゲルを併合したエデンが真っ先に着手したのは、軍の立て直しだった。
グレーゲルは大国と呼ばれながらも、長年にわたって軍縮を進めてきた国だ。その国軍——今やオルドリア王国第一師団と名を変えた三万の兵——は、戦う集団としての牙をすっかり抜かれていた。装備は古く、練度は低い。数だけは揃っていても、実態は張り子の虎に近かった。
その立て直しの主役を担うことになったのが、魔導技師団長のエルゲだ。
これまでエルゲはエデンに同行し、魔法陣の構築サポートという任を与えられてきたが、今回からその任は解かれた。念願だった魔道具の開発に、ようやく専念できるのだ。
環境も、規模も、別物だった。
かつてのエルゲの研究チームは、自分を含めて非常勤が二人だけの零細所帯。それが今や、大国となったオルドリア全土から選りすぐられた優秀な技術者たちが次々と加わり、総勢三百人を超える規模に膨れ上がっていた。
資源は潤沢にある。
予算に上限はない。
良質な魔鉱石が――これまで市民の生活利便性向上に回されていたものを――優先的に軍備へと供給されるようになった。
六大元素魔法を付与した武具と防具の開発。その量産体制の構築。やることは山積みで、寝る間も惜しいほどだったが——エルゲは苦にしなかった。むしろ目が冴えて仕方がなかった。これが本来やりたかったことだ、と全身が喜びに震えていた。
合わせて、エデンは旅の道中、魔力量の多い者たちを選抜し、次々と軍へ補充していった。優秀な兵と最先端の武具を手にした軍は急速に力を取り戻し、やがてオルドリア王国は他国への宣戦布告へと踏み出していく。
戦争から遠ざかって十年以上。まずは実戦経験を積ませることから、とエデンは小国相手の圧勝を足がかりにすることにした。勝ち、呑み込み、拡大する。
全ては、エデンの描いた絵図の通りに進んでいった。
そして、特別選抜部隊——といってもコウとウーログの二人だけだが——にも、指令が下る。
エデンの執務室は、大総統府の中でも上階に位置していた。
広い窓から差し込む光が、整然と並んだ書類の山を白く照らしている。書類の山、と言えば聞こえが悪いが、乱雑というわけではない。それぞれがきちんと分類され、積まれている。ただ、量が多い。
魔法陣構築の旅から一時的に戻っていたエデンは、大きな執務机の向こうに座り、普段と変わらない涼しい顔で、二人に視線を向けた。
「待たせたわね。君たちにやっと仕事を与えられる。混沌領域に行ってきてちょうだい」
「混沌領域?」
聞き慣れない単語に、コウは眉を上げた。
「そう。ちょっとどんな感じか様子を見てきて。いわゆる視察ね。あまり奥深くまで行かなくていいから」
ふわっとした物言いだった。コウの隣で、ウーログが困ったように視線を泳がせているのが気配で分かった。
「様子って言われてもな……。混沌とか言われてもよく分からんし。街や村がどんな感じか、とかでいいのか?」
「修学旅行じゃないんだから」
エデンは小さく息をついた。
「ヤバそうな奴がどこにどれくらいいるのか。それを調べてきて」
「調べるだけ? 倒さなくていいのか?」
「まだ手は出さなくていいわ」
珍しく、言葉を選ぶような間があった。
「それをしちゃうとガチで始まっちゃうから。その辺の雑魚国家とは訳が違う。ちゃんと準備が整ってからね」
その言葉の温度は、いつもと同じだった。淡々として、感情の起伏がない。しかしコウには何となく分かった。
相手を、本気で警戒している。
「——了解」
コウは短く答えた。
ちょっとした冒険感覚。
それはそれで悪くない。




