第38話 月下の蛹と紅蓮の天使
東の混沌領域の最奥。
どこまでも続く森を抜けた先に、その城はあった。
月明かりの下で見れば、外壁は灰色というより白骨に近い色をしていた。石造りの尖塔がいくつも天を指し、その輪郭はまるで巨大な獣の肋骨のように夜空へ溶けていく。
城を取り巻く結界は目に見えるものではなかったが、確かにそこにあった。肌を撫でるような、しかし内側から締め上げるような——優しさと禍々しさが同居した、奇妙な感触。踏み込んだ者に「ここから先は我が領域だ」と静かに告げてくる。
その謁見の間は、城の威容に見合った広さだった。
高い天井まで続く大きな窓が等間隔に並び、月光が幾筋もの銀の帯となって石畳の床を照らしている。玉座の周りには燭台が灯されていたが、炎はほとんど揺れていない。風が死んでいるのか、それともここでは空気の動き方さえ違うのか。
その床の上でヴォイドは片膝をつき、頭を垂れていた。
「お初にお目にかかります、セフィロト様。オレはヴォイドと申します。しがない悪魔をやっております」
床の冷たさが膝から這い上がってくるのを感じながら、それでも姿勢は崩さない。
「知ってるわ」
玉座から声が降りてきた。
低くも高くもない、しかし妙に耳に残る声だった。
「あんた、エデンの下僕でしょ。よくもまぁ堂々とやって来れたわね」
銀色の髪が、窓から差し込む月光を受けて静かに輝いている。その瞳の色は——ヴォイドが顔を上げる前から、なぜか分かっていた。
真紅。
エデンと同じ色。
魔女の証。
「ま、私の領域に入った以上、殺すのは簡単だし」
セフィロトは続けた。
玉座の肘掛けに頬杖をつき、品定めをするように目を細める。
「一応、目的だけ聞いておこうかしら」
その言葉を受け、ヴォイドはゆっくりと顔を上げた。
「はい。エデン様とは色々ありまして、離れることにしました。あの方の元にいては——オレの願いは、叶いませんから」
「願い?」
セフィロトの声のトーンがわずかに変わった。興味というより、試すような響き。
ヴォイドは一度だけ息を吸い、そして静かに額を床へ擦りつけた。
「単刀直入に申し上げます」
石畳の冷たさが額に触れる。それでも声は揺れない。決意と同じく。
「オレに——血を下さい」
謁見の間に沈黙が落ちた。
燭台の炎が、初めてわずかに揺れる。
セフィロトが、小さくため息をついた。呆れているのか、それとも別の何かなのか。
「あんたさ。成功確率、知ってるの?」
立ち上がりながら、彼女は続ける。玉座を離れ、ゆっくりとヴォイドのほうへ歩み寄ってくる足音が、静かな謁見の間によく響いた。
「まぁ悪魔のあんたであれば、人間よりは多少望みがあるけど」
「承知の上です」
「……」
セフィロトは足を止めた。ヴォイドの手が届きそうな距離だった。
「エデンがあんたに血を与えなかったのはね」
声が、少しだけ低くなった。
「あんたを失いたくなかったからでしょ。大事に思われてんのよ。分かってる?」
ヴォイドは少しだけ間を置いてから、答えた。
「……恐らくそうかもしれないと思うこともありました。でも、あの方は何を考えているのか分からないことが多いですから」
「あはは。確かに」
セフィロトは喉をくくっと鳴らして笑った。その笑い声は場違いなほど柔らかかった。
一歩、また一歩。
彼女はヴォイドの周りをゆっくりと歩き始める。獲物を値踏みする獣のように、あるいは骨董品を吟味するように。
「どうして、そんなに進化したいのかしら?」
問いは静かだったが、その目は静かではなかった。
「分かりません」
ヴォイドは正直に答えた。
「でも——このままでいることに、ずっと息苦しさを感じてきました。蛹が蝶になれないまま死ぬとしたら、それは果たして生まれた意味があったと言えるのか。オレにはそれが……耐えられない」
「ふーん」
セフィロトは立ち止まった。ヴォイドの真正面だった。
「あんたは蛹ってわけね」
その唇が、微かに弧を描く。
「蝶になって、どこへ羽ばたきたいの?」
「——エデン様の隣に」
静寂。
セフィロトはしばらくの間、ヴォイドの目を見ていた。見定めるというより、奥底まで覗き込むような視線。
「……いいわ」
やがてセフィロトは、そう言った。
「あんたの覚悟、受け取った。あたしの血をあげる」
「ほ、本当ですか」
思わず素の声が出た。
ヴォイドが顔を上げた——その瞬間、表情が固まった。
セフィロトが笑っていた。
笑っているのだが、それはさっきまでの笑みとは違った。隠そうとすらしていない。快楽のみを見据えたような、底のない目の色。
「ただし、条件があるわ」
セフィロトは一歩だけ距離を詰めた。
「あたしを満足させなさい」
燭台の炎が、また揺れた。
「最近の男どもは軟弱でね。欲求不満が溜まってるのよ」
月光が謁見の間を静かに満たしていった。
◆◆◆
ゴドフロアの軍事施設内にある食堂は、昼食の時間を過ぎると途端に人気が引く。給仕係がテーブルを拭いて回り、残り香のスープの匂いだけが漂う、そんな片隅の席で——ウーログ・リングダールは、盛大に縮こまっていた。
「おい、お前ちゃんと分かってるんだろうな」
向かいの席から、圧が来る。
レキエル。
オルドリア王国序列第一位にして第二師団長。
――この世界に受肉した上位天使。
見る者が思わず息を呑むほどの美貌の持ち主が、今この瞬間、ウーログを真正面から見据えている。食堂の片隅という場所が、なぜか謁見の間のような雰囲気を帯びていた。
「す、すみません! 何をですか……?」
二メートルを超える巨体が、これ以上ないほど萎んでいた。椅子が小さく見える体格の持ち主が、向かいに座る人物の迫力に完全に押されている。
「だ・か・ら!」
レキエルは一音ずつ区切った。こういう言い方をする時の大人は、大抵本気で呆れている。ウーログはそれを経験則で知っていた。
「コウのことだよ! お前がこれからあいつの側につくことになるんだろ? あいつの行動を監視できるのはお前しかいねぇ」
「か、監視!?」
ウーログは目を丸くした。思わず背筋が伸びる。
「僕が……隊長をですか?」
「そうだっつってんだろ。あいつが変な女に引っかかったりしねぇように、お前が注意しなきゃなんねぇんだよ」
「な、何故ですか?」
レキエルは一瞬だけ視線を泳がせた。ほんの一瞬だったが、ウーログはしっかり見ていた。
「……あいつは、この国の重要人物だ。変な女に何かされて、おかしなことになったら国益を損ねるだろうが」
「そ、それは確かにそうですね」
ウーログは素直にうなずいた。それから、ふと思いついたように首を傾げる。
「——変な女ではなく、素敵な女性だったら、大丈夫なんですよね?」
「ダメだ」
即答だった。コンマ一秒の迷いもなかった。
「な、何故ですか?」
「き、決まってんだろ! あいつは今、女と遊んでる暇なんてねぇんだ。仕事に集中してもらわねぇと」
「は、はぁ」
ウーログは曖昧な相槌を打った。少し考えてから、また口を開く。
「でも……惚れた女の子のために、仕事をいつも以上に頑張ったりするかもしれませんよ? そういう話、よく聞きますし」
「ダメなもんはダメだ」
「な、何故ですか?」
沈黙。
レキエルは腕を組んだ。視線がわずかに斜め上へ逃げる。
「……ひょっとして」
ウーログの口が、独り言のように動いた。
「レキエルさん、隊長のことが好きなのですか?」
その瞬間、レキエルがフリーズした。
文字通り、止まった。瞬きも、呼吸も、何もかもが。食堂の空気までが一緒に止まったような、奇妙な静寂が二人の間に広がる。
そして——じわじわと、始まった。
耳が赤くなる。首が赤くなる。みるみるうちに、レキエルの神々しいまでの美貌が、上から下へ、まるで夕焼けが広がるように朱色に染まっていく。序列一位の天使が、今や頭から湯気が出そうなほど真っ赤だった。
「バッ——」
出かかった言葉が、詰まった。
「バカヤロウ!!」
食堂に声が響いた。思わず給仕係が振り返る。
「あたしは天使だぞ!? 人間ごときを好きになんてなるわけねぇだろ!! 生命体としての格が違うんだ!!」
いつもの凛とした声が、盛大に震えていた。
「す、すみません! そうですよね!」
ウーログは慌てて頭を下げた。そして、そのまま口が滑った。
「確かに隊長は冴えないですし。性格も地味で面白みもないですもんね。強さは凄いですけど、その唯一の取り柄もレキエルさんより下ですし——レキエルさんほどの方が好きになる要素は、一ミリも無かったです! 僕が間違ってました!」
言い終えてから、ウーログは「うまくフォローできた」と思っていた。
しかし。
レキエルのこめかみに、青筋が一本浮いていた。ピクピクと、リズムよく脈打っている。その目が、じっとりとウーログを見ていた。
——気づかない。ウーログは気づかない。
「……ああん?」
声のトーンが、明らかに変わった。
「てめぇ、今なんつった? コウを馬鹿にしやがったのか?」
「お前」が「てめぇ」になっていた。ウーログの本能が、ようやく警戒信号を鳴らし始める。背中に冷たいものが走った。
「い、いえ! とんでもないです! 僕は隊長のこと、心から尊敬していますから!」
これは本心だった。あの父に勝ったのだ。凄すぎる。また、人として悪い人物では断じてない。それは間違いない。
レキエルは数秒間、ウーログを見つめた。
それから、深く息を吐いた。
「……だったらいいがよ」
まだこめかみはピクついていた。
「とりあえず、分かったな? あいつに近づく女は、お前が全て排除しろ」
「は、はい! 承知いたしました!」
ウーログは元気よく返事をした。
しかし内心では、一つだけ確信していた。
——この人、絶対に好きなんだろうな。
もちろん、口には出さなかった。今度ばかりは、本能より学習が勝った。ただ、こんな美人に惚れられる隊長が羨ましいとちょっとだけ思った。ちょっとだけの理由は、このヤンキー感がそれ以上に苦手だったからだ。




