第26話 夜明け前
「な、何だと……? 失敗、しただと?」
王都ガラの王宮。その奥まった応接室に、王の搾り出すような声が低く響いた。魔導灯の青白い光が室内を満たし、重厚なオーク材の長机に三つの影を落としている。
「ああ。ありゃ無理だ」
白金の髪をさらりとかき上げ、レキエルは溜め息を吐いた。呆れを通り越して、どこか感心したような色さえ、その深紫の瞳に滲んでいる。
「てか、よくあんな化物と事を構えようと思ったな?」
「お、お前を召喚するのにどれだけの犠牲があったと思ってる!? この国の高位聖職者の、その殆ど全ての命を捧げたのだぞ!?」
思わず机に手を突いた王の眼に、怒りと恐怖が入り混じって揺れていた。目の前に座る存在の美しさ――直視することすら憚られるような、神々しいまでの顔立ち――が今この瞬間だけは、どうでも良かった。
「――お前、だと?」
静かだった。だからこそ、恐ろしかった。
レキエルの目が細まる。深紫の瞳が、まるで品定めをするように王を射抜いた。
「ひっ」
身を乗り出していた王の体が、本能のまま椅子の背もたれへと後ずさる。それだけの圧があった。人の形をしているのに、人ではない何かと対峙しているような――そんな悪寒が、王の背筋を這い上がる。
「まぁいい」
レキエルは興味を失ったように視線を外すと、何でもないことのように言った。
「とりあえず魔女からの伝言だ。首を洗って待っとけ――だってよ。この国を滅ぼすとも言ってたな。ご愁傷様」
「な……!?」
恐れていた言葉が、現実として耳朶を打つ。王の口がぱくぱくと動くが、声にならない。頭の中で何かが割れるような感覚がした。
「じゃ、確かに伝えたぜ」
あっさりと言い放ち、レキエルはすっと立ち上がった。絹を滑るような所作だった。用は済んだ、とでも言うように。
「お、お待ちください!」
声を上げたのは、王ではなかった。
長机の端、王の横に腰かけていた修道服姿の中年男――ラニエリ枢機卿が、椅子を引く音も厭わず立ち上がっていた。この国に残った数少ない高位聖職者の一人である。
「あん? なんだ?」
「ど、どちらへ行かれるおつもりでしょうか」
「ああ、とりあえず魔女の城で世話になることになった。魔人に修業をつけてやることにしたんだよ。あいつは見所がある――あたしを退屈させねー男だ」
満足そうな笑みがレキエルの口元に浮かんだ。それは彼女が初めて見せる、心からの表情のように見えた。
ラニエリの胸の中で、何かがゆっくりと動いた。
――この方は、強さと可能性のある者の傍に在ろうとされている。
天使召還の儀。
その成功のために捧げられた命は、あまりにも多かった。そして王はその報告に、眉ひとつ動かさなかった。
「であれば――」
ラニエリは一度だけ、深く息を吸った。
「我々も一緒に連れていって頂けませんでしょうか」
応接室が、静まり返った。
「は……?」
レキエルと王が、同時に間の抜けた顔になる。魔導灯の青白い光の下、三者の間に奇妙な沈黙が満ちた。
何を言っているのだ、こいつは。ガラニン王国の聖堂会のトップが、亡命するとでも言うのか? しかも――《《我々》》だと?
「魔女がこの国を滅ぼすというのであれば、確実にそうなるのでしょう。ならば、この国に残る道理はありません」
言葉は静かだったが、その底には長年押し込めてきたものが滲んでいた。
「王は我々を、使い捨ての駒か何かのようにお思いの節がある。その御姿を、ずっと拝見してまいりました」
「ラ、ラニエリ!! 貴様、何を言いだす!!」
王が血相を変えて立ち上がった。椅子が床を叩く音が、室内に鋭く響く。
しかしラニエリは、今度は退かなかった。
「事実ではないですか」
静かに、しかし揺るぎなく、言葉を続ける。
「レキエル様を召喚するためとはいえ、高位聖職者たちの命が、まるで消耗品のように費やされた。聖堂会の内部でも、不信感は静かに、しかし確実に募っております」
「ぐっ……」
王は言葉に詰まった。
確かに、犠牲が出ることを承知で儀を命じた。だが、これほどまでとは思っていなかった。消耗品のように扱った覚えなど、断じてない――そう言いたかったが、口が動かなかった。犠牲になった者の名を、自分はいくつ言えるだろうか。そう思った瞬間、反論の言葉が砂のように崩れた。
「我々の信仰の対象は神でありますが、その御言葉の代弁者は、この世に顕現されたレキエル様をおいて他にございません」
ラニエリはレキエルへと向き直り、深々と頭を垂れた。長年の礼節が、自然と体を動かす。
「我々の道標なのでございます」
しばし、沈黙があった。
「んー」
レキエルは腕を組み、軽く天井を仰いだ。それから、ふっと息を吐く。
「まぁ来たいんなら来ればいいんじゃねぇか。ただし、てめぇの世話はてめぇで見ろよ? 魔女の国のルールにも絶対に従うこと。それが条件だ――それを守るって約束するなら、あたしが何とかしてやる」
その楚々とした外見からは想像もつかない、漢気あふれる、力強い言葉だった。
「もちろんでございます。決してご迷惑はおかけいたしません」
恍惚と、安堵と、そして長年くすぶっていた何かが晴れたような――そんな表情が、ラニエリの顔に広がった。
王は何も言えなかった。
言うべき言葉が、もはや何も残っていなかった。
その代わりに、思考は既に別の場所へと移り始めていた。魔女がこの国を滅ぼすと言っていたこと――そちらの方が、遥かに重要な問題だった。
この国に残された手札は、もうない。
◆◆◆
「エデン様、本当にガラニンを滅ぼされるおつもりですか?」
三ヶ月に及んだオルドリア王国東部――元・ガラニン王国の西部――の併合作業をようやく終え、エデンとエルゲは久しぶりに城へと戻っていた。エデンの執務室、長机を挟んで向かい合う形で、それぞれの手元には書類の束。山積みになったそれらをまとめる作業が、まだ待ち構えている。
「そうよ。鉄は熱いうちに打て。こっちに大義がある時にガンガン行かなきゃ。こういうのは勢いが大事なのよ」
エデンはあっさりと言ってのけた。
自身が不在の間に、コウへ差し向けられた暗殺の手。それも二度。かつて何度となくエデン自身を狙っておきながら、懲りることなく今度はコウへと矛先を向けてきた。エデンやコウ単体が持つ武力はともかく、小国だからと舐められているのだろう。
「やっと城に戻れたばかりですのに……」
当分の間、研究室に籠ることは出来そうもない。エルゲとしては、そろそろ禁断症状が発症しそうだった。
「でも今回の遠征で、腕の良い魔術師を何人か見つけられたじゃない。彼らにも手伝わせるから、今回ほどの長旅にはならないわよ」
「だと、宜しいのですが……。それよりガラニンの周辺諸国の反応が気になります」
「いちゃもんをつけてくるなら、大歓迎じゃない。攻める口実が出来るわけだし」
「また、物騒なことを……」
「世界の全てを支配するんだから、いずれはやらなきゃいけないことよ。めんどくさいことは、早めに片付けておく方がいいでしょ」
世界を支配し、平和な世の中を実現する。今回の遠征中、エルゲはそのエデンの野望を初めて聞かされた。確かにエデンの支配下に入れば、それは可能かもしれない――頭では理解しながらも、まだどこかぼんやりと、半信半疑のまま捉えていた。
だが、エデンの目に冗談の色はない。
やると言ったらやるのだ、この人は。
「じゃ、わたしはコウを連れてガラに向かうから、この書類片付けといて。終わり次第、研究室に戻っていいから」
エデンはそう言って立ち上がると、ひらひらと手を振って部屋を出ていった。
嵐のように現れて、嵐のように去っていく。後に残されたエルゲは、山積みの書類と、まだ追いつかない現実だけを抱えて、一人執務室に座っていた。
――世界は再編成の波に呑まれていく。
エルゲの想像を遥かに超える、荒く激しい波に。
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あとがき。
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
これにて第一章完結です。
引き続き読んで頂けますと、大変嬉しいです。
宜しくお願いいたします。




