第23話 天上の華――4
「ジャオ、巻き込まれる前にお前は避難を——」
少し落ち着きを取り戻したコウがそう言いかけた時、近くに老猫の姿は既になかった。
光の結界も、いつの間にか消えていた。
「……いや、いいんだけど別に。でも、もうちょっとこう」
言葉が続かなかった。
残っていたら邪魔になる。それは分かってる。でも、自分一人を置き去りにしてとっとと逃げるというのも——。
渋々避難するようなやり取りを、心のどこかで期待していたのだ。
ジャオにとって、自分はその程度の存在かと思うと少し寂しい。
「ハハッ。おもしれー猫だな。さっきの一撃を弾く結界なんて滅多にお目にかかれるもんじゃねー。大したもんだ。ま、それで魔力を使い果たしたみたいだが」
——そういうことか。
魔力が尽きた。だから最速で離脱した。最善の判断だ。
それだけのことだ。
「……で、あんた一体誰だ? なぜ俺の命を狙う?」
「あたしは上位天使のレキエル。何の刺激もないクソみてーな天界で暇をぶっこいてたら、こっちの世界に召喚されてな。受肉するチャンスなんて滅多にあるもんじゃねー。召喚の礼に一つ二つ願いを叶えてやるっつったら、お前と魔女の討伐を依頼されたんだよ」
コウとエデンの討伐。
そんな依頼をしてくるのは——ガラニンの王しかいないだろう。
「で、どうする?」
「どうする——とは?」
質問の意図が読めない。コウは目の前の女から目を逸らせなかった。逸らした瞬間、殺される。本能がそう告げていた。
「さっきの『原初の光』で一瞬のうちに灰になるか、それとも——」
レキエルが、すっと構えを見せる。
「この『聖装』の聖なる剣で、一思いに首を刎ねられるか」
全く、見えなかった。
純白の装束に手ぶらだったはずが——いつの間にか白金色の兜と鎧を身に纏っている。右手には光り輝く一振りの剣。左手には中型の盾。
魔力で、物質を創造できるのか。
そんなことが可能なのか。
目の前の急展開に、心が追いつかない。
今すぐ魔力を解放しなければならないのに——怒りが、まだ湧いてこない。
「どっちも嫌だと言ったら?」
「そしたら、こっちだな」
本能が、叫んだ。
後ろへ——!
まだ剣が届く距離ではない。なのに、レキエルが軽く剣を一振りしただけで、空間ごと切断するような斬撃が飛んできた。とっさに心臓をガードしていた左手が、宙を舞う。
時が、止まった。
ボトリ。
コウの左の手首から先が、地面に落ちた。
一拍遅れて、鮮血が噴き出す。
熱い。燃えるように。
「ぐあああああああ!!」
絶叫と同時に、闇の炎が噴き出した。
瞬時に、左手が再生する。手の甲の赤い紋章も一緒に。
「おお、聞いてた通りだ。マジでとんでもねー再生力だな。面白くなってきた」
兜の下から覗く口元に、笑みが浮かんでいる。
「ぜんっぜん面白くねーから」
足元に転がった赤い指輪を拾い上げ、左手の人差し指に装着する。
「なんだよ……何なんだよ。俺、死にたくねーんだよ。ようやく、少しずつ楽しみを見つけ始めてきたんだから、放っといてくれよ」
声が震えていた。
しかしレキエルはすぐに気づく。その震えは——恐怖じゃない。
「やりたくねーけど、お前が俺を殺そうとするなら、俺だってお前を殺してやる」
「やりたくねー? 嘘ついてんじゃねーよ。ハハハッ。お前、気づいてるか? 今のお前、めっちゃいい笑顔してやがる」
——気づいていなかった。
心の奥底で、狂喜乱舞していた。
命のやり取りを。生きていることを全身で実感できる、この感覚を——また、求めていた。
緊張感が、満ちていく。
レキエルが間合いを一歩詰める。
そのタイミングに合わせて——コウは指輪を拾うついでに握り込んでいた砂を、顔面に向けて思い切り投げつけた。
この世界に召喚された時、エデンを討伐しに来た時、散々やらされた投球練習。まさかこんなところでまた役立つとは。
砂の塊は兜の隙間から覗くレキエルの両目に、見事に命中した。
大した効果はない。一瞬の目くらまし。
それで充分だ。
瞬時に間合いを詰め、右の拳を振るう。
バキィッ!!
レキエルがとっさに構えた盾が、砕け散った。
まさか砕けるとは思っていなかったのだろう。一瞬の隙が生じる。
逃さない。
露わになった左手の甲に、左の拳——呪いの王——を叩き込む。
骨ごと粉砕しろとばかりの、全力の一発。
ゴンッ!!
骨と骨がぶつかる、鈍い音。
怯んだレキエルの顔面に右の拳を振るう——剣で防がれる。
バキッ!!
防いだ剣が、粉砕した。
ならば左だ。
相手が女だからと容赦しない。顔面だって潰す。殺らないと殺られるから。
ガンッ!!
顎にクリーンヒット。兜ごと殴り、拳に強烈な痛みが走る。骨が折れた。でも闇の炎が瞬時に再生する。
逃がさない。
ここで一気に仕留めないとダメだ。こいつが力を発揮する前に。
もう一発——右。
空振った。
目の前に、レキエルの姿がない。
「ハハハハハッ!! お前、すげーな。こんなにおもしれーのは初めてだ」
声は、上空から届いた。
見上げると——レキエルは翼を広げ、空中に静止していた。
「お前のその拳、右は『防御力無視』ってとこだな。で、左は何だ? そっちにも何かの力が宿ってるんだろ?」
呪いの王は五感を奪う。
二発、クリーンヒットした。これまでの経験上、それで十分のはずだった。
しかし、この女は——
「ただ、殴られただけにしか感じねーが、うーん」
上空でぶつぶつと何か呟き、考えている。
「あ。ひょっとして、毒とか呪いとかそこらへんか?」
速攻でバレた。
まあ、隠すほどの情報でもない。
「ああ、そうだけど?」
「やっぱりか。でも、残念だったな。性質上、あたしにはそういうの効果ねぇから」
天使。聖なる力。
――ああ、そうかよ。




