第21話 天上の華――2
それは、奇怪で複雑な紋様が刻まれた、巨大な魔法陣だった。
巨大なそれを取り囲むように上下左右に、四つの小さな魔法陣。
その四つのそれぞれの中心に、白い修道服の男が一人ずつ、微動だにせず直立している。そして全体をさらに取り囲むように、百人ほどの修道服の男たちが手を繋ぎ、直径十メートルを超える大きな円を描いていた。
シンとした室内に、息を呑む音だけが聞こえる。
中央の巨大な魔法陣の真ん中には、うっすらと淡く発光する一メートルほどの木材が一つ、静かに置かれていた。
神話級武器を二つ失ったガラニン王国に残された、最後の切り札。
聖なる古代樹の木片。
「では、始めよう」
白髪の老人が、厳かに告げた。
その声を合図に、低く重い詠唱が室内に満ちていく。壁に反響し、幾重にも折り重なって、まるで空気そのものが震えているようだ。男たちの全身が白い輝きに包まれ、魔法陣の紋様が淡く、しかし確かに光り始めた。
この場に集められているのは、ガラニンが誇る聖堂会の高位聖職者たち。
王命により、彼らの聖なる魔力をもって天界から精神生命体を召喚すること――それが今回の使命だった。神木は受肉の為の依り代。ガラニンに伝わる秘伝の儀式であり、過去に成功した記録はたった一度きり。儀式の詳細以外は何も伝わっていない。
どれほどの代償を払うことになるのか、誰も知らなかった。
詠唱は延々と続く。
呪文と呼ぶには長すぎる。
呪詛とでも言うべきか。
やがて、苦悶に顔を歪める者が現れ始めた。しかし神木を覆う淡い輝きは確実に強さを増している。
進んでいる。
確かに、進んでいるはずだ。
とうとう堪えきれなくなったか、一人が、音もなく崩れ落ちた。
ミイラのように干からびた体で――
絶命していた。
それを皮切りに――
一人。
また一人。
魔力を使い果たした者から順番に倒れていく。全員がBランク以上の実力者。Aランクの者だけでも十人以上いた。それでも容赦なく、陣は魔力を喰らい続ける。
儀式が始まってから、既に三十分。
未だ立ち続けているのは、二十名かそこら。
神木の光は、もはや直視できないほどの輝きを放っている。
それでも、まだ足りないのか。
終わりの気配が一向に見えない。
焦りが生まれ、集中力が乱れ、乱れた者が魔力制御を失い、残された力を一気に陣へと注ぎ込んで――倒れる。
また一人。
また一人。
もう限界だ。後は、託した。
一人の男がそう覚悟を決めた瞬間――光が、爆発した。
眩い閃光が室内を白く塗りつぶし、そして静かに、収束していく。
薄暗がりを取り戻した室内。巨大な魔法陣の中心に、一つの人影が立っていた。
若い女だった。
白い装束を纏い、肩で揃えた白金の髪。紫の瞳が、静かに周囲を見渡している。
「おお……」
どこからともなく声が漏れた。
その神々しさに。
その美しさに。
人間が《《ここまで美しくなれるわけがない》》。誰もが儀式の成功を確信した。
「ふう。あたしを召喚したのはお前らか?」
凛として、心に真っ直ぐ響き渡る声。しかし、その清楚な見た目には似つかわしくない、姉御肌の口調だった。
「何かお願いでもあるのか? 言ってみろ。召喚の礼に一つや二つくらいなら叶えてやる」
上位天使レキエル。
その召喚の為にガラニン王国が支払った代償は――シバルバ聖堂会の高位聖職者、九十三名の命だった。
◆◆◆
「エデン様。そろそろ一回、城に戻りませんか……?」
エルゲの声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
ガラニンから割取した領土の街巡りは、既に二ヶ月目に突入している。小さな村まで含めれば、その数は数百を超える。全ての土地に魔力吸収と転移の魔法陣を構築するという気の遠くなるような作業は、終わりが見えない。
移動手段はエデンによる飛行だった。
襟元を鞄のように掴まれ、空中でぶら下げられるような格好。
馬車より遥かに速いのは確かだが、エルゲとしてはたまったものではない。高所は怖いし、服の襟はよれよれになる一方だ。しかし、さすがに抱きかかえてくれとはお願いできないので、涙を呑んで従っている。
「ダメ。面倒なことは早めに片付けておかないと。また来る方が面倒でしょ?」
「それはそうなのですが……」
城の研究室が恋しい。中途半端に投げ出したままの実験が、頭の片隅でずっと引っかかっている。
「もう残り半分をとっくに切ってるじゃない。あと少しよ」
「……そもそも、こんな小さな村にまで陣を設置する必要はあるのでしょうか。大した魔力量にもならないでしょうし」
「まだまだ全然足りないわよ」
エデンはきっぱりと言った。
「あと、全てを支配するの。例外はない」
「全て……ですか」
エルゲは少し間を置いてから、恐る恐る続けた。
「エデン様はいつから……昔から、そうお考えだったのですか? なぜ今になってそのようなことを?」
風が吹いた。
エデンの黒髪が、さらりと流れる。
「昔から考えてた、というより……魂に刻まれてるって言った方が近いわね」
ぼんやりと、遠くを見るような目だった。
エルゲには珍しく思えた。
いつものエデンなら、こういう話題はさらりと流す。
「神と呼ばれた存在たちがいたの。昔ね。超常的な力を持って、この世を動かしてた」
「……はい」
子供の頃、そのような物語は聞いたことがあった。
「でも争いが絶えなかった。理想を掲げて他の全ての神と戦う者もいれば、手を組んで相容れない神を葬ろうとする者もいた。倒れて、生まれて、また倒れて。その繰り返し」
数千、数万年の刻を超えて語り継がれる古の神話。そこに刻まれた英雄神の軌跡に、エルゲもまた他の子供と同じように、憧れを抱いていたこともある。
「疲れた神たちは、自らの力の一部をヒヒイロカネに封じてこの世を去った。あるいは、精神生命体に全てを託して消えた」
「……精神生命体、というのは?」
それは聞いたことがなかった。エルゲは思わず疑問を口にする。
「魂だけの存在よ。肉体を持たない。でも《《わたしたちは器を与えられた》》。この体に宿って、初めてこの世界に存在できる」
衝撃の告白だった。
エデンはもともと精神生命体だったのか?
そして「わたしたち」という言葉も、ひっかかった。
「……エデン様だけではないのですか」
「神祖の魔女は三人いるでしょ」
エデンはさらりと言った。
「みんな同じよ。それぞれ別の神から、別の使命を押しつけられた、哀れな受肉体」
自嘲めいた笑みが、口の端に浮かぶ。
「わたしの場合は『規律』。それが魂にべったりこびりついてて、達成しろってうずくの。しつこく、ずっと。本当にめんどくさい」
それ以上は語らなかった。エルゲも、それ以上は聞かなかった。
しばらく、二人の間に風の音だけが続いた。
「ん……?」
不意にエデンが、上空へ目を向けた。
「どうされました?」
つられてエルゲも空を見上げる。
雲一つない、抜けるような青。何もない。
しかしエデンは動かなかった。笑みも、軽口も、消えていた。ただ、どこか遠い一点を射るように、じっと空を見ている。
エルゲは息を呑み、続きの言葉を待つ。
「天界から、何かが降りてきた。ガラのあたりで」
低く、静かな声だった。
そして一拍の間を置き、続けた。
「あんたはここで待ってなさい。ちょっと行ってくる」




