第19話 虚月死線――4
その男に向かって、コウは一歩踏み出した。
しかし男は、静かに一歩退く。
この距離感で戦いたい——そういうことか。
付き合う必要はない。
もう一歩、踏み込もうとした、その瞬間。
「凍天絶華」
鉄扇が、無造作に一振りされた。
来るッ——と思った時には、もう遅かった。
衝撃は、なかった。
あったのは、『現実』だけだ。
音速を超えた白銀の針が、全身へ一斉に打ち込まれたという、ただそれだけの現実が、脳の奥底に直接響いた。
「——ッ」
熱い。
いや、違う。
冷たい——のに、焼けるように痛い。
血が、出ない。
流れない。
血管の中で、血液がシャーベット状に変わっていく感覚。その泥の中で無数の氷晶が産声を上げ、内壁をズタズタに切り裂きながら全身へと爆発的に広がっていく。
皮膚の下の血管が、雪の結晶模様を描きながら青白く浮き上がった。
まずい!
これは、まずい!!
黒き炎による再生の熱が血管内の氷晶を気化させ——
パキィィィィィンッ!
沸騰した飛沫が周囲に散る。体の内側で爆発が起きたような感覚。再生はした。
した、が——
「へぇ」
男の瞳が細くなった。
「血液さえもあっという間に凍りつかせるはずだったんだけど」
はったりじゃなかった。
神話級武器No.3グラキリス——本物だ。
二発目が来る前に間合いを詰める。
一瞬で距離を殺して、右の拳を叩き込んだ。
バキィンッ!!
——砕けたのは、氷の壁だった。
いつの間にか男の前に展開されていた、分厚い防壁。
「ははっ。遠目で見てて予想してたけど、その右拳はヤバいね。鎧すら簡単に叩き壊してただけはある」
「左もヤバいぞ」
ダンッ!!
またしても、氷の壁。
本気で殴りつけた左の拳が、虚しくその表面を叩いただけだった。
骨が砕ける感触。指が、ぐちゃぐちゃに潰れる。
闇の炎が瞬時に再生する——その一瞬を、男は見逃さなかった。
鉄扇の先端が、コウの心臓を捉えていた。
零距離。
逃げ場、なし。
「凍天絶華」
ドォッ——!!
無数の氷の結晶が重なり合い、全方位から同時に刺さってくる。
熱と冷が体内で激突し、神経が悲鳴を上げる。
再生しようとする黒い炎が、極低温の質量に次々と打ち消されていく。
崩壊と再生。
崩壊と再生。
その無限ループの中で、コウの肉体はひび割れながら、それでも辛うじて繋ぎ止められていた。
まだ、死ねない。
死ぬわけには、いかない。
「おいおい、二発目も耐えるのかよ」
男が目を見開いた——その隙を、今度はコウが見逃さなかった。
右腕はまだ凍結していて動かない。
なら、左で。
ズドンッ!!
全てを呪う左の拳が、男の顔面を捉えた。
肉が肉を叩く、鈍い音。
「ぐあっ」
よろめく男に、すかさず二発目。
ドゴッ!!
男はバランスを崩し、尻もちをついた。口をパクパクさせながら、あたりをキョロキョロと見渡している。目の前のコウの存在に気づいていないかのように。
呪いの王——五感を奪う左の拳。クリーンヒット、二発。視界はぼやけるどころか、ほぼ何も見えていないはずだ。
畳み掛ける——
しかし、男は立ち上がった。
痛覚まで奪われているのだろう、殴られたことすら感じていない様子で、ヤケクソとばかりに鉄扇を振り回す。
白銀の針が、四方八方に撒き散らされた。
ッ——!
全力で転がって回避。地面を何度もバウンドしながら、何とか弾幕の外へ抜け出す。
「危ねぇ……。マジで死ぬとこだった」
身に纏う闇の炎の勢いが、弱まっている。
膨大な魔力が、尽きかけているのだろう。
再生が、遅い。
ヤバい。
早く終わらせないと、もう一発喰らったら——
男は五感を失ったまま、神話級武器を闇雲に振り続けている。
その背後へ、足音を殺してゆっくりと近づく。
気づかない。
気づけるはずがない。
コウはようやく動くようになった右の拳を振り上げ——男の背中に、全力で叩き込んだ。
ドガァッ!!
花火のように肉片が飛び散る。
痛みを感じることなく逝けただろうことに、少しだけ——ほっとしていた。
「ふぅ……」
大きく、息を吐く。
先ほどまで雲に隠れていた満月が、再び顔を覗かせた。
白い光が、静かに地面を照らしている。
人間の気配は、もうない。
辛うじて生き残っていた者たちは、とっくに逃げ出していた。
コウは男の遺した鉄扇を拾い上げた。
神話級武器No.3グラキリス。
血のような赤に、男の血がどす黒く滲んでいた。
改めて、周囲を見渡す。
無数の死体が、打ち捨てられていた。
これを誰が処理するんだよ——と、心の中でぼやく。我ながら呑気だとは思う。
でも、笑えなかった。
怒りの炎が収まり始めた今、静かに忍び込んでくるものがあった。
重苦しい何かが、胸の奥をギリギリと締めつけてくる。
罪悪感、と呼ぶには少し違う気がした。
でも、何と呼べばいいのかも分からなかった。
殺さなければ、殺されていた。
それは事実だ。最初の攻防でも嬲り殺されかけた。鉄扇の男にも、もう少しで仕留められていた。
だから間違っていない。頭では分かってる。
でも。
死にたくない——あの気持ちは、本物だった。
命が奪われることへの怒りは、本物だった。
そして、怒りに身を委ねている時、確かに生に満たされていた。
ジャオの言っていたことは、正しかったのだろう。
コウは満月を見上げる。
今まで怒ることすら、諦めていた。
侮辱されても。搾取されても。殴られても。
そのまま受け入れることが、当たり前だと思っていた。気づかないうちに、そういう人間になっていた。
ガラニンの王宮で、エデンが侮辱された瞬間に込み上げたあの怒り——あれはきっと、エデンに対してのものだけじゃなかった。
生まれた時からずっと侮辱されてきた、自分自身の姿が重なったのだ。
積もり積もった分が、今になって溢れ出している。
まだ、自分でもよく分からない。
何が正しくて、何が間違っているのか。
この怒りがどこへ向かっていくのか。
ただ――
ずっと眠っていた何かが、目を覚ましているのだけは——間違いなかった。
コウは鉄扇を握り締めたまま、月明かりの中に立ち尽くしていた。




