第17話 虚月死線――2
エデンたちが長期出張に出てから、そろそろ一ヶ月が経過しようとしていた。
その間、コウは何をしていたかというと――王都エデンの散策を日課にしながら、静かに、しかし確実に、目覚めつつあった。
何に?
お洒落に。
メイドから支給される服はどれも似たようなシンプルな柄で、無地のTシャツやら何やら、そんな物ばかりだ。
今まで流行だの着こなしだのに一切興味を持ったことがなかったのだが、さすがに毎日同じような格好で石畳を歩き回っていると、じわじわと気恥ずかしさが込み上げてきた。
十七歳の夏。
人より少し遅めの思春期が、コウにも訪れた。
心が蘇りつつある兆候なのかもしれないが、それは本人にも分からない。
ともあれ、エデン不在の間は城の諸々を任されているのだから、多少の金を受け取る権利くらいはあるだろう――コウは勝手にそう解釈し、メイドに金をせびっては服やらアクセサリーやらをこっそりと買い揃え始めていた。
そんなある夜のこと。
食堂で晩飯を食べていたコウは、完全に無防備だった。
椅子に浅く腰かけ、スープを口に運びながら、頭の中は明日どの店を覗くかでいっぱいだった。
だから気づかなかった。
音もなく近づいてくる、小さな影に。
「うわ!!」
背中に突然の衝撃。心臓が口から飛び出るかと思った次の瞬間、右肩にずしりと馴染んだ重みが乗った。
「少しは警戒せんか」
低く、しわがれた声。
茶トラの老猫――ジャオが、肩の上でどっしりと丸まりながら呆れたように続ける。
「なんじゃ、その隙だらけのだらしない姿は」
「……城の中でくらいリラックスさせてくれよ」
コウは跳ね上がった心拍をなだめながら、スープの椀を置いた。
「ずっと気を張ってたら疲れるだろ」
「ふん」
ジャオは短く鼻を鳴らした。
「どうせ外でも何も変わらんじゃろ。王都も安全じゃからな」
見透かしたような目だった。まったくもってお見通しだ。今のコウには緊張感を覚えるような要因が何一つない。それは自分でも分かっている。
コウは観念したように肩をすくめた。
「……で。ジャオが戻ってきたってことは、何か報告があるのか?」
「もちろんじゃ」
老猫はひと呼吸置いた。
「お主を狙った暗殺部隊が動き出しとる。数日以内に到着するはずじゃ」
コウの手が、椀の上で止まった。
「……俺が目当てなのか? エデンじゃなく?」
「そのようじゃ」
ジャオは尻尾をゆっくりと揺らした。どこか愉快そうにも見える。
「ガラニンの連中はよっぽどお主を恨んでおるようじゃの」
……まあ、それは仕方ない。
エデンの書簡を持って王宮に乗り込んだ時に、あれだけ大暴れしてしまったのだ。ある意味、コウにビビった結果として、屈辱的な和解を結ぶ羽目になったとも言える。自業自得ではある。
「城や街中で戦って荒らされでもしたら、エデンが怒るじゃろ。街に到着する前に叩けよ」
「分かってるよ」
コウは残ったスープを一口飲んでから、静かにため息を吐いた。
そして、心の中で「めんどいなぁ」とつぶやいた。
いつものエデンのように。
◆◆◆
二日後の晩。
蒼白い満月が、静かに大地を照らしていた。
風はなく、草むらからは虫の鳴き声だけが単調に続いている。遠くに見える王都の灯りが、夜霧の向こうでぼんやりと滲んでいた。こんなに穏やかな夜に、これから血を流しに行くのかと思うと、どこか現実感がなかった。
ジャオから敵の到着を知らされたコウは、破れても構わない服に着替えて、街のすぐ外の開けた野原へと歩き出した。
「ワシは補助系魔術専門じゃからの」
出がけにそう言い放ったジャオは、ついてくる気配が微塵もなかった。補助系だって役に立つような機会はいくらでもあるはずだ。まったく酷い話である。
コウは一人で草を踏みながら歩いた。
『魔力の源は心。心が閉じておると魔力は流れん』
ジャオの声が、頭の奥で静かに響く。
『お主は怒りで心が開放される。心が蘇るようじゃ。普段、魔力が流れんのは、心が死んどるからじゃろうな』
なるほど、とは思う。
では今の自分はどうだ。怒ってもいない。
どうやって怒る?
あの時はエデンに対する侮辱が許せなかった。今はただ草を踏んで、夜の野原を歩いているだけだ。
遠目に、人影が見え始めた。
足音が聞こえてくる。それは軍隊のように整然とした行進ではなく、各々が自由気ままに歩いてくるような、バラバラで無秩序な音だった。
人影は、どんどん大きくなる。
大きくなる。
大きくなり――コウは、絶句した。
目で確認できる限り、百人近い集団。
コウがこの世界に召喚され、エデン討伐隊の一員として送り込まれた時は二十名程度だった。だから今回も、せいぜいその程度だと高を括っていた。エデンより格下の自分が相手なのだから、もっと少ない可能性すらあると踏んでいたのだ。
しかも。
近づいてくるにつれ、彼らの纏う空気が尋常ではないことが分かってきた。強くなったからこそ分かる。一人一人から滲み出る圧が、普通の兵士とは明らかに違う。寄せ集めのようでいて、その実、一騎一騎が選び抜かれた精鋭だ。
「……ふざけんなよ」
声にならない声で、ようやくそれだけが口から漏れた。
じわじわと、じわじわと、絶望が足元から這い上がってくる。念波でエデンを呼ぶことすら頭に浮かばないほど、思考が真っ白に塗り潰されていく。
集団の輪郭が、はっきりと形を成す距離まで迫ってきた。鎧を着こんだ戦士、杖を携えた魔術師、聖典を抱えた聖職者――多種多様な者たちが、扇状に広がるようにコウを包囲し始めていた。
「おーい、あんたがコウって奴か?」
先頭の男が、軽い調子で呼びかけてくる。
距離が詰まるにつれ、その顔に浮かぶ余裕の笑みがはっきりと見えた。場違いなほど穏やかな、狩人が小動物を前にした時のような笑顔だった。
「わざわざ出迎えしてくれたのか」
男は歩みを止めながら、腰の鞘から静かに剣を引き抜いた。白刃が満月の光を受けて、冷たく、不吉に煌めく。
「探す手間が省けて助かったわ」
一瞬の沈黙。
虫の声だけが、変わらず鳴き続けている。
「大人しくしてるなら、苦しませずに殺してあげるぜ?」
男の口元が、弧を描いた。
「抵抗するなら――まあ、悲惨なことになると思うけど」
月が、雲に隠れた。
地獄の夜が、始まる。




