第15話 善悪一如――3
ただの冴えない少年だったはずだ。
――どうしてこうなった?
王子たちは、目の前の光景を理解しようとして——諦めた。
致命傷を三撃喰らった。それは確かだ。誰の目にも明らかだった。しかしこの少年は平然と立っている。全身を覆う黒い炎が増していくたびに、みるみる再生されていった。
異様だ。
狂っている。
こんな能力は見たことも聞いたこともない。
それだけではない。
頑丈な鉄も、磨き上げた硬質な木材も、この少年の拳の前では紙くず同然だった。かつてこの国にあった至宝、神話級武器No.6レーヴァテインを思わせる、無慈悲な破壊。——いや、それ以上かもしれない。
この少年がその気になれば、この場にいる全員を皆殺しにできる。
嫌でも、思い知らされていた。
あの魔女は分かっていたのだ。王国軍を送り込めば、小都市エデンなど容易に攻め落とせる。しかしそれと同じくらい容易に、この少年はこの国の王侯貴族を始末できる。エデンが出るまでもなく。
見せつけてきたのだ。この少年を。
応援を呼ぼうにも、この場から逃れられるとも思えなかった。少年の両手の甲で赤く脈打つ紋章が、値踏みするようにこちらを見ていた。
「……分かった。和解しよう。そちらの条件を受け入れる」
王子の声は、重く、苦かった。
領土の西半分を無条件で割譲する。
周辺諸国にどう思われるか。存在感も発言力も削がれる。
しかし命あっての物種だ。そのうち難癖をつけて奪い返せばいい。この屈辱は必ず晴らす——そう自分に言い聞かせながら、王子は書面に署名した。
「物分かりが良くて助かる。じゃ、交渉成立ってことで。諸々の手続きはエデンがやるそうだから、連絡を待っててくれ」
次の瞬間、少年の瞳から黒い炎がすっと消えた。まるで何事もなかったかのように。署名が記された書面を受け取り、懐にしまうと、挨拶もそこそこに部屋を後にする。
来た時と同じように、肩に猫を乗せて。
扉が静かに閉まった後、誰も口を開かなかった。
衛兵の一人が、気づかれないように深く息を吐いた。
◆◆◆
王宮からの帰り道。
コウは王都エデンとは真逆の喧騒を眺めながら、ゆっくりと歩いていた。威勢のいい売り声、行き交う人々の笑い声。来た時と同じ景色のはずなのに、どこか遠く見えた。
肩の上で、ジャオが口を開く。
「お主の先ほどの戦闘。流れるような魔力操作じゃったの。あっという間に傷が塞がった。見事なもんじゃ。何故、修業ではそれが出来ん?」
「……自分でも分からん。なんか、エデンを侮辱されてカーっと頭に血が昇って、魔力操作のことまで頭が回ってなかった」
「ふむ」
ジャオはしばらく黙った。
「怒りが原動力——といったところか。まるで『怒りの魔人』じゃな。それにしても、エデンに対してそんな強い思いがあるようには見えんかったのじゃがの」
「ああ、自分でも驚いた」
頭が真っ白になって、気づいたら動いていた。あんな感覚は初めてだった。
「ひょっとしたらエデンの血で魔人になったことと関係してるのかも」
「どうじゃろうな。そんな話は聞いたこともない」
ジャオの尻尾が、ゆっくりと揺れた。
「お主自身が気づいていないだけで、何らかの強い思い入れがある——そんな気がするのじゃが」
エデンに対する思い入れ。
命を救われたことは確かに感謝している。
心を蘇らせると言ってくれたことも。ただ、それだけではない何かが、あの瞬間に弾けた気がした。言葉にはできないが。
「さっきのお主は、普段の死んだ魚とは真逆の目をしておった。生きていることを、全身で主張しているような」
コウは何も言わなかった。
露店の前を通り過ぎる。焼き鳥の匂いが鼻をかすめた。来た時はあれほど腹が鳴ったのに、今は食欲が湧かなかった。
「あいつら、このまま大人しく従うかな」
「いんや、一波乱はあるじゃろうな。人間は執念深い。奪われることを極端に嫌う。最初は大人しく従うじゃろうが、落ち着いた頃に何か仕掛けてくる」
「だよな。エデンはもちろん分かってると思うけど」
「当たり前じゃ。だから調印後、すぐに動くじゃろう。しばらく城に戻ってくることも出来んほど忙しくなるはずじゃ」
「……俺もそれに付き合わされるのか?」
「いんや」
ジャオは短く答えた。
「魔術師の出番じゃな。エルゲがこき使われる。お主は今まで通り、修業の継続じゃ。怒らんでも、あの魔力操作が出来るようにならねばの」
自分にとっては、いつも通りの日常が続くわけか。
ほっとしたような、少しがっかりしたような——その二つが入り混じった、妙な気持ちだった。
いつからこうなった、とコウは思った。
死んでも構わないと思っていた頃の自分は、こんな気持ちになることなど想像もしなかっただろう。
ジャオの魔法陣へと続く路地に入ると、喧騒が少し遠のいた。
「なぁ、ジャオ」
「なんじゃ」
「エデンって、信じてついていってもいいんだよな?」
ジャオはすぐには答えなかった。尻尾だけが、ゆっくりと左右に揺れている。
「……それを決めるのはお主じゃ。自分が正しいと思えばついていき、違うと思えば自分の正義に従って行動すれば良い」
それきり、老猫は黙った。
コウも何も言わなかった。
正義とは何か。
考えたこともない。教わったことも。
ただ、自分が決めなければならないことは分かる。今までは考えることを避け、誰かの言うことばかり聞いてきた。
きっと、それではダメなのだ。
二人分の足音——いや、一人と一匹分の足音だけが、石畳に静かに響いた。




