9話 記録の限界
「キリが……ない!」
エルヴィンの叫びが、泥の鳴動にかき消される。
彼の鉄手甲から火花が散り、青白い炎が消えかかっている。限界だった。彼は深層心理にある喪の核を引きずり出そうと、右腕の装甲を限界まで開いている。
私は焦っていた。
このままでは、彼は人としての形を保てない。
記述、記述をしなければ。
私は虚空に、私自身の輪郭を固定するための定義を綴った。
私の名はセリス。記録者であり、この世界を観測する者。
だが、先ほどの戦闘で、私の筆跡はすでに酷く震えている。
今の状態じゃ、長くはもたない。私自身の定義が削られ続ければ元に戻れなくなる。
それでも、彼に属性の記述を、
その時、――酒場の扉が力強く押し開かれた。
「――待たせたね!大盤振る舞いだよ」
リリィの声が響く。
彼女が路地へ投げ込んだのは、硝子瓶に詰められた『粘着質な泥』の塊だった。
瓶が砕け散ると同時に、路地に奇妙な引力が発生する。
周囲の空間が歪み、蠢いていた無数の喪たちが、逆らうことのできない磁石に引かれる鉄粉のように、一か所へと殺到した。
喪の習性――意味の抜け殻を無条件に貪るという本能を、リリィは瓶一つで制御したのだ。
「今だ、エルヴィン! そこが奴らの墓場だよ!」
巨大な質量となって圧縮された泥の渦。
私は脳の奥で叫んだ。
今、すべてを書き込む。
私は自分自身の記憶の奥底に保管していた『私という定義』の断片を、強引にインクへと変換する。
焼けるような激痛。
それは、自分の一部を削り取って、エルヴィンの刃をより鋭利にするという自傷行為だった。
「――断絶!」
エルヴィンの軍刀が、圧縮された泥の核に突き刺さる。
空間を焼き切る閃光が路地を呑み込み、灰の雨が瞬時に蒸発した。
雨がやんだかのような錯覚の後、訪れたのは絶対的な静寂だった。
エルヴィンはその場に膝をつき、軍刀を杖にして荒い呼吸を繰り返している。
私はふらつく足で彼に駆け寄る。
「……セリス」
彼が私の顔を見上げ、眉をひそめた。
その瞳には、先ほどまでの荒々しさはなく、むしろ深い疲労と、かろうじて繋ぎ止められた理性が同居している。
「……セリス、顔色が悪いぞ。……大丈夫か?」
私は、自分の手を見た。私自身の指先には、インクの代わりに黒い血が滲んでいた。
五本の指が、まるで硝子のように透明に見える。
けれど、大丈夫だ。私はまだ、『自分』という定義を書き留めている。
「……大丈夫よ。あ、えーと……エル、エルヴィン?」
私は笑ってみせた。
自分が今、誰に向かって笑っているのかさえ判然としない。輪郭が曖昧に揺れ、視界が白く霞む。
彼の瞳に、動揺が走った。
彼は私の手を握る。
先ほどのような荒い所作ではなく、まるで壊れやすいものを扱うような、慈しむような手付きで。
彼は私の指先に付着した黒い血を、そっと拭い取った。
「……無理をするな。俺の業に、あんたまで道連れにするつもりはない」
彼は自嘲気味に呟くと、ゆっくりと立ち上がり、私の肩を支えた。皮纏の軋む音が、路地に響く。
所作の端々には、隠しようのない品位が漂う。
その手から伝わる温もりは、紛れもなく、泥にまみれながらも必死に生きる同じ人間の熱だった。
「……少し休もう。リリィの店まで歩けるか? 路地の先に、リリィの店の魔導燈が瞬いている。あそこなら、少なくとも今の俺たちよりは安全だ」
彼は私の反応を待つように、優しく視線を合わせた。
そこには、かつてのような拒絶も、無関心もない。同じ傷を負い、同じ泥の中を歩む者としての、静かな連帯があった。
「エルヴィン、ありがとう」
「礼には及ばない。……あんたが俺の『余白』を埋めてくれる限り、俺はあんたを護る。それが俺たちの契約だ」
エルヴィンはぎこちなく少しだけ口角を上げると、店の方へと歩き出した。
その背中は、心なしか大きく見えた。




