表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
絶蝕のアルカイヴ  作者: 天色うさぎ
吸着者の残香編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/38

9話 記録の限界


「キリが……ない!」


 エルヴィンの叫びが、泥の鳴動めいどうにかき消される。


 彼の鉄手甲てっしゅこうから火花が散り、青白い炎が消えかかっている。限界だった。彼は深層心理にあるの核を引きずり出そうと、右腕の装甲を限界まで開いている。



 私は焦っていた。

 このままでは、彼は人としての形を保てない。



 記述、記述をしなければ。

 私は虚空に、私自身の輪郭を固定するための定義を綴った。



 私の名はセリス。記録者であり、この世界を観測する者。

 だが、先ほどの戦闘で、私の筆跡はすでに酷く震えている。


 今の状態じゃ、長くはもたない。私自身の定義が削られ続ければ元に戻れなくなる。


 それでも、彼に属性の記述を、




 その時、――酒場の扉が力強く押し開かれた。



「――待たせたね!大盤振る舞いだよ」



 リリィの声が響く。

 彼女が路地へ投げ込んだのは、硝子瓶ガラスびんに詰められた『粘着質な泥』の塊だった。



 瓶が砕け散ると同時に、路地に奇妙な引力が発生する。



 周囲の空間が歪み、うごめいていた無数の喪たちが、逆らうことのできない磁石に引かれる鉄粉のように、一か所へと殺到した。



 喪の習性――意味の抜け殻を無条件に貪るという本能を、リリィは瓶一つで制御したのだ。



「今だ、エルヴィン! そこが奴らの墓場だよ!」



 巨大な質量となって圧縮された泥の渦。



 私は脳の奥で叫んだ。


 今、すべてを書き込む。



 私は自分自身の記憶の奥底に保管していた『私という定義』の断片を、強引にインクへと変換する。

 焼けるような激痛。


 それは、自分の一部を削り取って、エルヴィンの刃をより鋭利にするという自傷行為だった。



「――断絶!」



 エルヴィンの軍刀が、圧縮された泥の核に突き刺さる。

 空間を焼き切る閃光が路地を呑み込み、灰の雨が瞬時に蒸発した。


 雨がやんだかのような錯覚の後、訪れたのは絶対的な静寂だった。



 エルヴィンはその場に膝をつき、軍刀を杖にして荒い呼吸を繰り返している。


 私はふらつく足で彼に駆け寄る。



「……セリス」



 彼が私の顔を見上げ、眉をひそめた。

 その瞳には、先ほどまでの荒々しさはなく、むしろ深い疲労と、かろうじて繋ぎ止められた理性が同居している。



「……セリス、顔色が悪いぞ。……大丈夫か?」



 私は、自分の手を見た。私自身の指先には、インクの代わりに黒い血が滲んでいた。

 五本の指が、まるで硝子のように透明に見える。



 けれど、大丈夫だ。私はまだ、『自分』という定義を書き留めている。



「……大丈夫よ。あ、えーと……エル、エルヴィン?」



 私は笑ってみせた。

 自分が今、誰に向かって笑っているのかさえ判然としない。輪郭が曖昧に揺れ、視界が白く霞む。



 彼の瞳に、動揺が走った。

 彼は私の手を握る。


 先ほどのような荒い所作ではなく、まるで壊れやすいものを扱うような、慈しむような手付きで。

 彼は私の指先に付着した黒い血を、そっと拭い取った。


「……無理をするな。俺のごうに、あんたまで道連れにするつもりはない」



 彼は自嘲気味に呟くと、ゆっくりと立ち上がり、私の肩を支えた。皮纏かわまといの軋む音が、路地に響く。


 所作の端々には、隠しようのない品位が漂う。


 その手から伝わる温もりは、紛れもなく、泥にまみれながらも必死に生きる同じ人間の熱だった。



「……少し休もう。リリィの店まで歩けるか? 路地の先に、リリィの店の魔導燈まどうとうが瞬いている。あそこなら、少なくとも今の俺たちよりは安全だ」



 彼は私の反応を待つように、優しく視線を合わせた。

 そこには、かつてのような拒絶も、無関心もない。同じ傷を負い、同じ泥の中を歩む者としての、静かな連帯があった。



「エルヴィン、ありがとう」



「礼には及ばない。……あんたが俺の『余白』を埋めてくれる限り、俺はあんたを護る。それが俺たちの契約やくそくだ」



 エルヴィンはぎこちなく少しだけ口角を上げると、店の方へと歩き出した。



 その背中は、心なしか大きく見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ