10話 漂白の序曲
空を覆っていた灰色の泥雨は、ようやくその勢いを失った。
だが、リリィの店の外側は、地獄の残滓が澱となって静かに蠢いている。
店内に残る鉄錆と薬草の匂い。
俺は椅子に深く腰掛け、鉄手甲の装甲を固定する金具を外した。
右腕に走る灼けるような痺れは、今も消えていない。
視線をやれば、セリスがカウンターの隅で突っ伏している。
彼女の筆跡が、あの戦いの中でどれほど世界を固定し、どれほど自らを漂白したのか。その消耗は、俺の想像以上に深刻なものだ。
その時、店の扉が音もなく開いた。
「いやはや。見事な綱渡りでしたね。……拍手喝采を送りたくなるところです」
入ってきたのは、不揃いな時計を指先で弄ぶ道化――ジギタリス。
あいつは灰に汚れることもなく、路地の泥を避けるようにして店の中央へと歩み寄った。
リリィが煙管を置く気配がし、店内の空気が一気に凍りつく。
だが、あいつはそんな殺気には目もくれず、セリスのそばに歩み寄ると、小さな琥珀色の瓶を彼女の手元に置いた。
「これでも舐めていな。記録者さん。……せっかくの美しい文脈が、疲労で途切れては目も当てられませんからね」
「……あんた、何の真似だい?」
リリィの鋭い声に、ジギタリスは愉しげに肩を竦める。
「ただの同業者としての手土産ですよ。……この飴は、摩耗した自意識を一時的に安定させる。彼女が記述を続ける限り、私にとっても利益がありますからね。まあ気休め程度ですけど」
俺は軍刀の柄に手をかけた。こいつの言葉には、常に何かを裏から操っているような腐臭がする。
「ジギタリス。あんたが外で何を見ていたのかは知らんが、次は俺の刃がその頭を数えるぞ」
「おやおや、怖い怖い。私は情報屋。足が速く、耳が大きく、そして少しばかり物語の結末を覗き見るのが好きなだけの通りすがりさ」
こいつは愉悦を隠そうともせず、セリスの眠る姿を飽くことなく見つめている。
「エルヴィン。あなたは知らないほうがいい」
いつの間にか目を覚ましていたセリスが、掠れた声で呟く。
彼女は差し出された瓶の匂いを嗅ぎ、それが確かに「記述」の負担を軽減するものであることを悟ったのか、不信感を募らせながらも受け取った。
「彼女の言う通り。私と彼女の関係性は、いわば利害の一致で成り立ってるだけにすぎない。ですが、記録者さん。あなたがその『銀の鍵』を握り続けている限り、私たちは協力関係にあると言ってもいい」
ジギタリスは俺に向き直り、不揃いな時計をカチリと鳴らした。
「今後のことですが、エルヴィン。この下層街の均衡は、あと数日も持たないでしょう。騎士団は『剥落』の発生を、記録の破綻として組織的に抹消するつもりだ。……大規模な漂白作業が始まりますよ」
「……俺たちが、街ごと消されるってわけか」
俺は思わず、低く唸る。
騎士団にとって、俺たちのような不具合は、世界の純潔を汚す汚物でしかない。
「ええ。だからこそ、記録者さん。あなたの記述が鍵になる。エルヴィンの持つ不具合を、この街の記録そのものに『接続』するんです。それが、騎士団の漂白に対抗する唯一の道でしょう」
ジギタリスはそう言い残すと、出口へと踵を返した。
俺は背中越しに、あいつの不吉な影を睨みつける。
あいつの言うことは胡散臭い。だが、騎士団が動くという情報は、耳の早い情報屋であるこいつが嘘を吐く理由がない。
店内に残ったのは、重苦しい沈黙と、ジギタリスが置いていった琥珀色の飴の甘ったるい香りのみ。
「……信じていいのか、セリス」
俺の問いに、セリスは疲労の滲む瞳で俺をじっと見つめた。
「分かりません。……けれど、彼の差し出す情報と毒に頼らなければ、今の私たちには、この街の『剥落』を止める術がないことも事実です」
俺は深いため息をつき、冷めた魔力糖の包み紙を握りつぶした。
この歪んだ世界で、俺たちは互いの傷を舐め合いながら、誰の台本かも分からぬ物語を生きている。




