11話 旅立ちの時刻
店内に満ちる紫煙の向こう側で、リリィはいつものように煙管を燻らせていた。
だが、その眼差しは、今夜ばかりは慈しむような熱を帯びている。
「……長居は無用だよ。あんたたちがこの店に長く留まれば留まるほど、騎士団の白銀どもがここを汚染された温床だと見なして、無粋な掃除を始めるからね」
リリィの言葉は冷淡だが、その手元は忙しく動いていた。彼女はカウンターの下から、使い込まれた皮袋を二つ、放り投げるようにして差し出した。
「中身は当面の食い扶持と、気休め程度の魔力糖。それと……」
リリィは視線をエルヴィンの右腕へ向けた。
鉄手甲の表面には、戦いのたびに刻まれる裂傷が、治りかけの瘡蓋のように無数に走っている。
「エル、あんた。旅路でその右腕がぶっ壊れたら、誰も直せやしないよ。どこかで、腕のいい技師を探すことだね。もっとも、あんたの不具合を吸い込む趣味には誰だって、呆れ返るだろうがね」
エルヴィンは無骨な手で皮袋を受け取り、短く礼を言った。
「ありがとう、リリィ。たくさん世話になった」
そして、リリィの視線は隣に立つセリスへと移る。
彼女は、エルヴィンと対照的に、まだこの旅の重さを計りかねているような、心許ない面持ちだった。
「セリス。……あんたに一つだけ忠告だよ。守るために自分を削るのもいいが、あんたが先に倒れたら、あいつも含めて、自分が何のために戦っているのかさえ忘れて、ただの澱の塊に成り果てるだろう。……自分という『定義』を忘れるんじゃないよ。あんたが自分を忘れたら、誰がその歪な物語を正典に書き直すんだい?」
リリィの鋭い一言に、セリスははっと息を呑む。
それは、ただの助言ではなかった。
セリスという「記録者」の存在意義を、あえて彼女に突きつけることで、生き残るための執着を植え付けたのだ。
「……肝に銘じます、リリィさん」
「……ま、せいぜい長生きしな。ほとぼりが冷めたら、手土産を持って、またこの酒場に来な。その時は、今夜よりももう少しだけ旨い酒を用意しておいてやるよ」
リリィはそう言って、煙管を灰皿に叩きつけた。
リリィは我が子の旅立ちを見守る母のように。そしてまた、獅子のように、厳しい視線で彼らの背中を見送っていた。
愛着を断ち切ることで、旅立つ者の足取りを少しでも軽くせんとでも言うように
二人は店を出た。
外の世界は、漂白の予兆に包まれた灰色の闇が支配している。
酒場の扉が閉まる音は、まるで彼らの過去を切り離す音のように、石畳に重く響いた。
「行くぞ、セリス。……あいつの助言は、命よりも重い」
「はい、またここに戻って来れたらいいですね……」
二人は、背後に残した聖域を一瞥してから、夜の闇へと足を踏み出した。




