8話 灰の雨
酒場を出た直後、空が崩落した。
尖塔の裏側から滲み出した黒い泥が、夜の帳を侵食する。空が溶け、灰色の雨となって地上を焦がす。
それが、酒場へ向かう道すがらジギタリスが語っていた『剥落』の正体だった。
灰に触れた石畳が音を立てて崩れ、人型の澱が、まるで泥の粘膜を突き破るように次々と湧き上がる。
「……セリス! これが剥落か!」
灰の雨が降る中、エルヴィンは手早く腰の小袋から魔力糖を取り出し、無造作に口へ放り込んだ。
エルヴィンが折れた軍刀を抜き放つ。空間がノイズで揺らぎ、刃の形を形成していく。
私は呼吸を整え、彼に背中を預けた。脳が焼けるように熱い。記述すための言語が、頭の中で砂のように零れ落ちていく感覚がある。
「エルヴィン、聞いて。私の記述は、彼らを完全に消去するわけじゃない。世界の理に『ここは平穏である』と、歪な形で固定するだけ」
私は震える指先で空をなぞる。
インクの軌跡が、虚空に青白い光の檻を刻む。
「一度に固定できるのはおそらく、数体まで。それ以上は私の脳が持たない。記憶が、知識が、全部零れ落ちてしまうから。……私の記述が途切れたら、その時は」
「その時は、俺がただあいつらを葬るだけだ」
青白い放熱光が、灰の雨に煌めく。
「セリス、いいか。この程度の澱なら、今の俺の刃で十分だ。だが、もし大物が混じれば、俺自身が喪を深層まで吸着する必要がある。その時は俺の脳も記憶も、保ちが良いとは言えない。記述を途切れさせないでくれ」
エルヴィンの警告に、私は深く頷く。
彼がどれほど右腕を酷使しようと、それは痛みという肉体的な代償に過ぎない。
だが、彼が自らに「喪」を吸着させた瞬間、その心身は不可逆的な崩壊へと向かう。
だからこそ、私の記述が必要なのだ。
その時だった。皮膚が粟立つような嫌な気配が路地の隅から這い寄ってきた。
――喪。
人型を歪に引き伸ばした、粘着質な絶望の塊。思考よりも先に、私の背筋が凍る。
だが、私が振り返るよりも早く、灰の雨を切り裂いてエルヴィンの影が躍り出た。
「下がれ、セリス!」
鋭い声が響く。
衝撃と共に突き飛ばされた私は、泥濘に足を取られ、無様に転がった。
痛い。
でも、助かった。
土の味を噛み締めて顔を上げた私に、エルヴィンは振り返りもせず、だが私の気配を背中で確かめるように短く唸る。
エルヴィンの右腕、重厚な鉄手甲がガシャリと音を立てて展開する。
装甲の隙間から溢れる青白い放熱光が、灰の雨を蒸発させて白煙を上げた。
私が空に描いた血のインクの軌跡が、エルヴィンの軍刀へと吸い込まれる。
折れた刀身が青白い光を帯び、物理的な質量を伴った『刃』として再構築された。
その刀身が赤熱を帯び、空間を焼き切った。
――断絶。
金属の摩擦音が耳を切り裂く。
エルヴィンは鉄手甲を盾にし、喪の凶刃を受け流した。
衝撃で鉄手甲の表面に亀裂が走り、青白い光が火花のように散る。
軍刀が空間を焼き切った。
喪の身体が泥とも霧ともつかぬ黒い粒子へと分解された。
だが、安堵する暇はない。
断絶の衝撃で空間に生じた歪みから、さらに無数の澱が、この世の理から溢れ出すように湧き出たからだ。
「……セリス、記述を途切れさせるな」
エルヴィンの声が低い。彼は荒い呼吸を刻みながら、なおも軍刀を構える。
その背中越しに、鉄手甲の隙間から漏れる彼自身の血が、雨に混じって赤黒く滴るのが見えた。
彼が振るう刃は、私たちが生きるこの世界の均衡を、文字通り削り取っているのだろう。
エルヴィンは微塵の躊躇もなく、次の澱へと視線を向けている。
灰の雨が激しさを増す。私は唇を噛み、インクの残滓を右手に集めた。
目の前の灰色の泥から、醜悪な腕が幾本も鎌首をもたげた。
人型を歪に引き伸ばした澱が、音もなく床を滑り、エルヴィンの死角へ肉薄する。
「……ッ!」
エルヴィンは振り返りもせず、厚底の皮纏で石畳を蹴ると、地響きのような鳴動とともに鉄手甲が火花を散らす。
彼は迫りくる澱の腕を、軍刀の柄で力任せに弾き飛ばした。
弾かれた澱は泥のように床にへばりつき、すぐさま形状を崩しながら背後へと回り込む。
「属性を、セリス!」
背後で吠えるエルヴィンの声。
私は、脳を焼くような激痛を堪え、震える指先を虚空に走らせる。
『灼熱』の文字を空中に刻み、それを強引にエルヴィンの折れた軍刀へと叩きつける。
記憶が一つ、私の脳から零れる。
刹那、彼の軍刀が真紅の光を纏うとエルヴィンは腰を深く落とし、澱の懐へ飛び込む。
熱を帯びた刃が、粘膜のような澱の身体を両断した。
「断絶!」
裂けた断面から不気味な叫び声が上がり、泥が蒸発していく。
だが、休む間もなく次の澱が、天井を這いながらエルヴィンの頭上へと襲いかかってきた。
「キリが……ない!」




