7話 余白の再生
鉄手甲の鳴動が、ようやく静寂を取り戻した。
私の指先はインクの染みと血で汚れ、鉛のように重い。
視界の端が上手く見えない。
私は、記述すという行為そのものが、世界の理を書き換えるほどの負荷であったことを、この身が痛いほど理解していた。
「……やり遂げたんだね、あんた」
リリィの声が、遠くから聞こえる。
彼女は私の肩を支え、そのまま背中を向けてジギタリスの方へ鋭い視線を投げた。
「おい、道化。セリスの魂まで澱に吸い込ませる気かい? これ以上の干渉は、あんたの不揃いな時計の音ごと、この店で噛み砕くぞ」
ジギタリスは愉しげな笑みを深めたまま、礼儀正しく一歩引いた。
だが、その双眸だけは、私の膝の上に転がっている「銀の鍵」を、獲物を狙う猛禽のように射抜いている。
私は呼吸を整え、エルヴィンを見た。
あれほど黒く染まり、死の淵を彷徨っていた彼の首筋の澱は、消えていた。
鉄手甲の隙間から漏れていた青白い炎も、今や穏やかな光の粒子となって、彼の鼓動に合わせて律動している。
……よかった。どうにか、落ち着いたみたい。
彼がゆっくりと、その重い瞼を上げた。
濁っていた灰色の瞳に、僅かながら正気の色が戻っている。
私の記述が、彼の崩れかけた現在を、辛うじて固定したのだ。
エルヴィンは自分の右腕を見つめ、それから、震える私に視線を戻した。
「……俺は……」
その声には、以前のような完全な諦念は混じっていない。
代わりに、何かを必死に手繰り寄せようとする、昏い灯火が揺れている。
私は喉の奥にこみ上げる血の味を飲み込み、無理に口角を上げた。
「……あなたは今、ここにいます。私の記述の中に」
彼はゆっくりと、よろめきながら立ち上がった。
先ほどまでの死に体のような重苦しさはどこへやら、その動きには澱の侵食を受けていた人間特有の、あの不気味な軋みが消えている。
エルヴィンは、自分の右腕を恐る恐る動かした。
鉄手甲の表面に走る無数のヒビを指先でなぞり、彼は眉を寄せた。
「あんたは……誰だ」
掠れた声が、狭い店内に響く。
感謝の言葉など、そこには欠片もない。ただ、得体の知れない事象を前にした男の、純粋な警戒と拒絶があった。
私は喉の奥にこみ上げる鉄の味を飲み込み、震える指先を隠すように裾を握りしめた。
彼に告げるべきか。
私が彼という存在を、世界という名の書きかけの原稿から消さないために、その身を捧げて『固定』したということを。
――いいえ。今は、まだ。
彼は自分が何者によって、どうやって救われたのかすら理解していない。
ただ、自分の身に起きた説明のつかない異変に吐き気を感じているかのように、顔をしかめているだけだ。
「私は、あなたに救われた者です」
精一杯、声を平坦に保つ。
今の彼には、私が何者であるかよりも、自分の肉体に宿るこの違和感の方が、毒のように回っているはずだ。
彼は視線を巡らせ、テーブルの上に置かれた煙管と、その傍らにある銀の首飾りへ目を留めた。
彼は震える手で、首元の鎖を握りしめる。
「そうか、あんた、あの図書館の司書か……」
エルヴィンの瞳が、僅かに揺れた。
極限の戦いの中で濁っていた灰色の瞳に、記憶の断片が重なる。
彼は私の名前すら知らない。ただ、閉ざされたあの場所での記録者としての面影を、戦いの最中に微かに見出したのだ。
「あんたが、俺に何かをしたのか? ……先ほどまでの痛みが嘘のように治まっている」
彼は言葉を継ぎ、帳場の端に視線を落とした。
その瞳には、安堵など微塵もない。
かえって、己の内に巣食うはずの毒が消えたことへの、得体の知れない恐怖が滲んでいる。
「この中には、俺が守りたかった『誰か』がいるはずなんだ」
彼は銀の首飾りに優しく触れた。
「どれだけ思い出そうとしても、泥を飲み込むような嫌な感覚だけが頭を覆い尽して、自分のものではない、他人の悔恨のようなものが、いつも、俺を蝕んでいた」
彼は歯を食いしばり、自嘲気味に鼻を鳴らした。
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
泥のような悔恨。
それは彼自身の苦悩ではない。
かつて図書館を去ったヘレナ先輩の……あの、最期にまで消せなかった未練の残滓が、彼の精神に寄生している。
あの時、私がそう記述したから。
彼は、その悔恨が他者の未練であることに気づき始めている。
だが、それがヘレナ先輩のものであるとは知らない。
今はまだ真実を伝えることはできない。
私は、彼の灰色の瞳をじっと見つめた。
彼の瞳に宿るその濁り。
それを拭い去る方法は、一つしかない。
私が記録者として、ヘレナ先輩の残滓を彼の記憶から引き剥がし、その空いた余白に本当の文脈を固定すること……そう。それこそが、私の使命だ。
思考が、軋んだ音を立ててすり減っていく。
記述を強行した代償は、決して軽いものではない。
全身を走る倦怠感に加え、脳の深部で、愛おしい記憶の欠片たちが音を立てて零れ落ちていく感覚がある。
大事なはずの知識が、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように消えていく。
「……セリス」
不意に、リリィの声が横から響いた。
彼女は私の肩に手を置き、冷ややかな視線をジギタリスへ向けた。
「あんた、客を追い出すよ。この子には、少し休息が必要だ。……あんたも、店を荒らす気なら相応の覚悟をしておきな」
リリィの背中越しに、ジギタリスが愉しげな笑みを浮かべて頷く。
「おや、それは無粋だね。……いいとも。この『銀の鍵』は、またの機会にゆっくりと紐解かせていただくよ」
道化は店を出る際、振り返りもせずに不吉な影を落とした。
「そうだ、忠告しておこうか。……今夜、尖塔の裏側で『剥落』が起こる。空が溶け、灰の雨が降り注ぐだろう。君たちが記述し続けるその脆い現が、どれだけ保つのか、せいぜい愉しませてもらうよ」
道化が店から消え、リリィもまた、静かに帳場の奥へ姿を消した。
残されたのは、薄暗い店内に残る煙管の香りと、私とエルヴィンだけ。
エルヴィンは無造作に顔を上げ、私を射抜くような鋭い視線を投げた。
「……なあ、司書。あんた、俺の何を知っている」
拒絶ではない。
それは、溺れかけた者が、一筋の光を掴もうとするような、必死の縋り付きであった。
「あんたは、俺の中に『俺のものではない何か』が入り込んでいると知っているんだろう。……この身体から、その泥を剥がせるのか?」
私は掠れた声で告げた。
「……できます。その悔恨を解き、あなたが守りたかった人の記憶を、あるべき場所へ戻します。ですが、それには……」
「代償が必要なんだろう?」
エルヴィンは私の言葉を遮った。
彼は隠れていた灰色の瞳を剥き出しにする。かつてのダルそうな気配は消え、そこにあるのは、死線を越えてきた男の鋼のような決意だ。
「俺の記憶が書き換わるにせよ、魂が摩耗するにせよ、これ以上、他人の未練に自分の生を食い荒らされてたまるか。……やってくれ。俺という存在が、最後まで俺であり続けるために」
彼は無遠慮に手を伸ばし、私の肩を掴んだ。
その指先は酷く冷たい。
けれど、鉄手甲から伝わる彼の鼓動は、驚くほど力強かった。
「あんたが俺になにかをしたなら、最後まで責任を持て。俺の『余白』をあんたの記述で埋めてみせろ」
彼は荒っぽく言い放ち、私を射抜くような鋭い視線を投げた。
この男は、泥に塗れた記憶を抱えながらも、それでも「自分」であり続けようともがいている。
そんな彼の覚悟を前にして、私は、名を明かすべきだと直感した。
「……分かりました、私の名はセリス。セリス・フィア。エルヴィン、あなたの余白を埋めるための、記録者です」
私は掠れた声で、精一杯の敬意を込めて告げる。その姓を口にした瞬間、私の胸の奥で小さな痛みが走る。それはヘレナ先輩の影を、私が捏造して彼に与えるという、度し難い罪の味だった。
彼は一瞬だけ目を丸くし、次いで、灰色の瞳に微かな熱を宿して私を見下ろした。
彼の瞳の奥で、微かな電光のような閃きがあった。
無意識の反応か。それとも、かつて聞いたことのある響きが、彼の深層心理を刺激したのか。
「……セリス・フィア、か」
エルヴィンはもう一度、その名を舌の上で転がすように呟いた。
彼の表情からは先ほどまでの荒々しさが抜け、どこか懐かしむような、それでいて深い霧の中で何かに触れようとするような、複雑な色が滲む。
「……不思議だな。初めて聞く名のはずなのに、妙に耳に残る」
彼は自嘲気味に鼻を鳴らし、ふっと口角を上げた。
「……セリス、か。俺はエルヴィンだ。これから、よろしく頼む」
外では遠雷のような音が鳴り響き、街を包む影が溶け出そうとしている。
私たちは銀の首飾りを介して、共犯者になった。彼が世界を削り、私がその綻びを記述す。
しかし、私には一つ、越えなければならない壁があった。
「エルヴィン。……一つ、伝えておくことがあるわ」
私は彼を見上げ、決意を込めて告げる。
「この店の中では、記述の干渉はごく限られたものになる。もし街を蝕む喪の『剥落』が始まったら、私たち、いえ……私は、外へ出なければならない。この街そのものを『固定』し、あなたを護る為には、淀みのない『余白』が必要なの」
私の言葉を理解したように低く唸った。
「店の外か。……あそこは、今や喪の巣窟だぞ」
「それでも、あなたが『剥落』の渦中で消えないために、私は外で記述さなければならないの。あなたの存在を、世界から書き漏らさないために」
私の記述は、彼という強靭な個体にのみ定着する。他の人間であれば、私の言葉の重みに耐えきれず、魂そのものが崩壊するだろう。私たちは、最初から互いの存在を摩耗させることでしか、この世界の不具合と対峙できないのだ。
私は掠れた声で、精一杯の敬意と覚悟を込めて告げた。
「……責任を持ちます。あなたの記憶が、あなたの魂が、たとえこの世界の不具合に食い尽くされようとも、私が記述を書き連ねて、あなたという人間を形作り続けます」
彼は私の手の上に、自分の手を重ねた。
それは誓いであり、呪いの始まりだった。
私たちは王都に積み重なる過去の残滓を捨て、この歪んだ理の先へ行かなければならない。そうしなければ、私たちが積み上げてきたこの対話すらも、明日の朝には意味のないものに還ってしまうのだから。
「……あぁ、そうだな。俺という呪いを、あんたの言葉で縛り付けるのは、あんたの業だ。……まずは、この後に来る『剥落』をどうにかしよう。手伝ってくれ、セリス」
「喜んで、エルヴィン」




