6話 銀の鍵
「お嬢さん、ぼさっとするな! さっきの『保管品』をこっちへ寄越しな。あいつの脳が焼き切れるのが先か、あんたのその力が間に合うのが先か……ここが死線の競り合いだよ!」
リリィの怒号が、私の鼓膜を激しく震わせた。
床にのたうち回るエルヴィン――彼の右腕は、すでに鉄手甲の原型を留めていなかった。装甲の隙間から噴き出す青い火花は、肉の焦げる異臭と共に店内の酸素を貪り食っている。
首筋を這い上がる漆黒の澱は、彼の喉元を締め上げ、その灰色の瞳から光を奪い去ろうとしていた。
ジギタリスが告げた最悪の答え合わせが、私の胸を酷く抉る。
明日、この下層は丸ごと歴史の底へ消し飛ぶ。
それを繋ぎ止めるためだけに、あの人は私を置いて去ったあのわずかな時間。
一人で世界の不具合を限界まで飲み干し続けていたのだ。
「……あ、……ぁ…………」
エルヴィンの唇から、言葉にならない掠れた呻きが漏れる。
忘却の深淵に沈みかけながらも、彼の指先だけは、未だなお、軍刀の柄を血が滲むほどの力で握りしめたままだ。
その執念が、哀しくて、たまらなかった。
「セリスフィア!」
リリィが私の新しい名を呼ぶ。
私は弾かれたように、懐から「保管品」
――王国騎士図書館の地下から盗み出した、特上の魔力糖を取り出した。
「それをあいつの口へ! 私が顎を固定する!」
床に片膝をつき、エルヴィンの身体を支えていたリリィが、彼の頭部を強引に抑え込んでその顎を力任せにこじ開ける。
私は震える指で包み紙を破り、純白の結晶を、彼の割れた唇の隙間へと押し込むと、エルヴィンの身体が弓なりに弾けた。
魔力糖の過剰な摂取による拒絶反応。
口元から、白煙と共に凄まじい魔力の奔流が吹き荒れる。
押し寄せた純白の光の濁流が、首筋の黒い澱と衝突し、彼の皮膚の下で狂ったように沸騰していた。
「糖の純度が高すぎる……! 濾過が追いつかない、このままじゃ吸着した喪ごと、脳の回路が焼き切れてしまう……」
リリィの顔に、初めて明確な恐怖が走った。
エルヴィンの瞳孔が、完全に赤色に染まり、焦点を見失って激しく明滅する。
――作動させるたびにあの人の心が欠落していくのなら、私がそれを補完する。
自分で言った言葉が、脳裏を過る。
覚悟はできている。
私は、自分の懐から「銀の鍵」を引き抜いた。
砕けた硝子障の向こう、ジギタリスがその双眸を細め、愉しげに口角を歪めた。
奴は助けもしない。
ただ、見ているだけだ。
私という呼び水が、この鍵をどう使うかを品定めしている。
不揃いな秒針の音が、私の背中を狂おしく急かしている。
「……開いて、お願い」
私は祈るように呟き、剥き出しになったエルヴィンの右腕の青い火花が狂い咲く鉄手甲の『隙間』へと、銀の鍵を迷いなく突き立てた。
キィィィィィィィン!!
脳髄を直接針で刺されたような、不協和音が店内に響き渡る。
鍵が手甲の核に触れた瞬間、銀色の冷徹な光が鉄を侵食し、カシャカシャと音を立てて装甲が強制的に解放されていく。
熱い。
いや、冷たい。
手甲から溢れ出した漆黒の澱が、鍵を伝って私の指先、速度を上げて腕へと蛇のように這い上がってくる。
その泥のような冷気に触れた瞬間、私の意識は、強引に向こう側へと引きずり込まれた。
視界が、真っ白に染まる。
大理石の床。美しく整列した書架。
私が見慣れた王国騎士図書館の光景
――ではない。
すべての書物の背表紙が白く塗りつぶされ、文字が塵となって剥がれ落ちていく、崩壊の最中にある書庫。
その中央に、一人の少年が立っていた。
あれは、彼だ。
まだ鉄手甲を嵌めていない、綺麗な両手を持った、若き日のエルヴィン。
彼の前には一人の、消えかけの影が倒れていた。
その顔も、姿も、世界の綻びによってすでに強引に抉り取られ、文字の塵を吹き荒らしながら、まるで、粗悪な絵具のように掻き消えようとしていた。
消えゆくその『誰か』に向かって、少年は泣き叫びながら、真っ白な正典のページに必死に指で文字を刻み込もうとしていた。
「……の名前を、書き留めなきゃ」
けれど、彼が文字を綴る端から、世界の理がその文字をなかったことにして消し去っていく。
「忘れるな、あいつのこと」
少年がその喪失を拒絶し、世界の不具合をその右腕で無理やり掴み取った瞬間。
彼の腕に、あの呪わしい鉄手甲が肉を焼く音を立てて出現した。
それが、エルヴィン・ラグナ・ゼノヴィアが掃除屋となった最初の記憶。
そして、彼が最初に失った、決して思い出せない「誰か」の文脈。
「あ……あぁあ、あ!」
彼の脳内に渦巻く、文字にならない絶望と痛みの奔流が、記述者である私の脳へと直接流れ込んでくる。
鼻血がたれるのが分かった。
正気が引き裂かれそうだ。
完璧に漂白されたあの白亜の塔には、私がペンを執るべき場所など、どこにもなかった。
美しく固定されたあそこでは、私のこの「余白に新たな文脈を定着させる力」は、世界を汚すだけの毒でしかなく、見つかればどうなるかわからない本能的な恐怖から能力を隠し続けていたのだ。
けれど、今は違う。
あの図書館の地下で、初めて彼の戦いを見たあの瞬間、世界の不具合を吸着した彼が作り出す喪の余白を目撃した瞬間、私の脳裏で何かが弾けた。
あの空白が、司書である私には、私に書かれるのを待っている真っ白なページに見えた。
そこで、私は自分の役割を自覚したのだ。
――けれど、その自覚を引き裂くように、彼のひび割れた記憶の底から、あまりにも見覚えのある、けれどここに在るはずのない悍ましい思念の断片が溢れ出してきた。
――ヘレナ、先輩。
なぜ、あの人の記憶が、エルヴィンの頭の中に融け込んでいるの。
意味がわからない。
少年の目の前でかき消えようとしている、あの名もなき『誰か』の穴へと、先輩の生々しい気配が泥のように流れ込み、悍ましい速度で混ざり合っていく。
……待って、消えちゃう。
エルヴィンの壊れかけた脳が、忘却の激痛から逃れるように、先輩の思念を必死に引きちぎって、その消えゆく穴へと押し込んでいるような――泥を乾いた傷口に塗りたくるような、そんな、おぞましくも哀しい世界の錯覚。
真実を突きつける言葉が喉元まで競り上がってくる。それは違う、触っちゃダメだと叫びたいのに、私の指は動かない。
崩壊していく書庫のどこを見渡しても、あの少年が失おうとしている『誰か』の本当の名前なんて、もう一文字も見当たらないのだ。
私のこの不完全なペンでは、彼の最も大切な核心を、正しく修復してあげることなんてできない。
圧倒的な力不足の絶望が、私の胸を酷く引き裂く。
もし、この歪な混濁を中途半端に暴いてしまえば、彼の心は今度こそ唯一の拠り所を失い、完全な虚無に呑まれて、精神ごと欠落してしまうかもしれない。
――私は、あなたを救いたい。これ以上、あなたに傷ついてほしくない。
ならば、私ができることは。
ヘレナ先輩の思念と混ざりあい、歪んでしまった、その不完全な余白を『正しい歴史』として、上書き、固定をする。
それが、どれほどに歪な欺瞞であろうとも。
これが、どれほどに恐ろしい間違いであろうとも。
この手の中の言葉が、あの人の壊れかけた心を世界に繋ぎ止める盾になるのならば。
「私は……ずっと、見ているわ」
私は精神の世界の中で、泣きじゃくる少年の背中を抱きしめるように、虚空へと指を伸ばす。
現実世界の私が、インクの染みついた指先で、千切った魔力糖の包み紙へ、彼の溢れた血を混ぜて狂ったように文字を書き殴る。
溢れ出た糖の輝きが文脈を固定し、消えゆく彼の記憶の余白に、新たな記述を定着させていく。
「あなたは、誰かを救うためにその腕を捧げた。その孤独な始まりを、私はここに記述す――」
現実の世界で、鉄手甲の装甲が激しく鳴動した。




