5話 境界線
錆びついた蝶番が、獲物の骨を砕くような軋み声を上げた。
開かれた扉から流れ込んできたのは、夜霧の湿り気と、場違いなほど清潔な「紙」の匂いだ。
私は特製の煙管を燻らせながら、紫煙《 しえん》の向こう側に立つ影を眺める。
「久しぶりだね……ジギタリス。あんた、うちを観光名所にでもするつもりかい?」
吐き出した言葉は、自分でも驚くほど冷えていた。
案内役の道化は答えず、ただ愉しげに肩を竦めて、連れてきた「客」の背後へと退がる。
「おやおや、挨拶より先に刺されるとはね、リリィ。あちら側で首を吊り損ねていた迷い子を、拾ってやっただけさ。あんたなら、温室育ちの綺麗な指が、いつまでこの泥に馴染めるか、正確に測ってくれると思ったのさ」
奴は懐から不揃いな時計を取り出し、指先で弄んだ。相変わらず、他人の残りの寿命でも数えて愉しんでいるような、吐き気のする仕草だ。
「指が馴染むか、だと? あんたの指を一本ずつ折って、その円筒帽と一緒にドブに沈めてやってもいいんだよ。……私の店は、あんたが拾ってきたゴミの鑑定所じゃない」
「くくっ、相変わらずだ。……だがリリィ、今回の持ち込みは少しばかり厄介だぜ。……ほら、お嬢さん。いつまでそこに突っ立っているんです? 灰色の魔女を怒らせれば、明日の朝にはあんたの心臓も薬瓶の中ですよ」
店内に踏み込んできたのは、見事なまでに場違いなお嬢さんだった。
頭巾を深く被ってはいるが、その足元の皮纏の仕立てや、隠しきれない立ち居振る舞いの端々に「正典」の内側で育てられた温室の香りが染み付いている。
お嬢さんは、店内に満ちる魔力糖の焼け焦げた異臭に、一瞬だけ顔を顰めた。
無理もない。
鼻腔を灼くようなこの鉄錆の匂いは、世界の綻びを無理やり繋ぎ止めている、この澱の末期症状そのものなのだから。
ふと、彼女の視線がカウンターの隅、一脚の椅子に止まった。
そこには、つい先ほどまで座っていた「あの男」の残香が、まだ熱を持って沈殿している。
お嬢さんの瞳が、微かに揺れた。
驚き、戸惑い、そして――羨望。
それは、平穏な檻を捨ててまで深淵を覗き込もうとする、救いがたい阿呆の目だ。
「……リリィ・ガナッシュさん。私は……」
震える声で私の名を呼ぶ彼女の拳は、白くなるほど固く握られていた。
私は煙管を灰皿の縁で叩き、ゆっくりと身を乗り出す。
かつて、正典編纂の枢要に座り、世界の裏側に触れすぎたが故に追放された薬師。
王国が彼女を殺せないでいるのは、慈悲などではない。
彼女を殺せば、世界の不具合を処理する唯一の窓口が消えてしまうからだ。有用性という鎖でこの澱に繋がれた、生ける禁忌。
――――リリィ・ガナッシュ。
私は、その名に相応しい冷徹な眼差しで、目の前のお嬢さんを射抜いた。
「知ってどうするんだい、お嬢さん。あいつはもう、半分は『向こう側』の住人だよ。……あんたのような綺麗な指じゃ、あいつが背負った澱は、一欠片も持ち上げられやしない」
突き放す言葉に、彼女は怯むどころか、固く閉ざしていた掌を晒してみせた。
そこにあったのは、銀色の包み紙。
王国騎士図書館の地下、選ばれた者しか触れられぬはずの「保管品」だ。
「……ほう。あそこの連中が溜め込んだ、特上の毒じゃないか」
私は思わず、乾いた笑いを漏らした。
どうやら、見かけによらず相当な跳ね返りらしい。
「まあいいさ。どうせあんたも、こんな場所まで踏み込んだんだ。明日には紛失物と一緒に、王国中から追われる身になる。罪が一つ増えたところで、今更どうってことはないだろう?」
お嬢さんは、まっすぐに私を見据えた。
その瞳には、かつて私が正典を捨てた時に抱いていたものと同じ、青白い炎が宿っている。
「……覚悟の上です。私は、あの人の……余白の記録者になりたいんです」
記録者、か。
私は再び煙管に火を灯し、深い紫煙を吐き出した。
この澱の底まで落ちてきて、なおそんな正義感の残り香のような言葉を吐く。
滑稽を通り越して、寒気すら覚える純粋さだ。
私はカウンターに肘をつき、煙管を指先で弄びながら、改めてこの小娘を観察した。
震えている。
細い肩も、銀色の包み紙を握る指先も。
だが、その瞳だけは、この店に漂う停滞した毒気に冒されていなかった。
かつて私が見捨てた「正典」の内側。
そこには、磨き抜かれた大理石と、美しく整列した知識だけがあった。
この娘は、そこにあるすべてを捨ててきたのだ。
地位も、名誉も、明日という確実な安寧も。
それらをすべて投げ打ってまで、あいつ。
あの壊れかけの掃除屋が背負う「不具合」の一部になろうとしている。
本気だね、この阿呆は。
ただの好奇心や同情じゃない。
これは、あいつの孤独に自分を捧げようとする、歪な羨望だ。
あいつが孤独な戦場を往くなら、自分はその最期を書き留める墓標になろうという、死を孕んだ覚悟。
私は、冷えた肺に最後の一服を深く吸い込み、天井へと細く長く吐き出した。
この店の外側では、明日になれば王国騎士団が血眼になってこの娘を追うだろう。
ここにある「境界線」を越えるということは、二度とあちら側の光の下には戻れないことを意味する。
「……いいだろう、お嬢さん」
私は煙管を灰皿に置き、自嘲気味に口角を上げた。
あいつのような呪いと、この娘のような祈り。二つの歪みが重なるのを、私は止める気も、止める権利も持ち合わせていない。
「お嬢さん。……なら、まずはあいつの『名前』から教えようか。……騎士の誇りを剥奪され、世界に捨てられた、最後の追放者の名を」
エルヴィン・ラグナ・ゼノヴィア。
その名を口にした瞬間、店内の秒針が、わずかに狂ったような気がした。
その名を告げたあとの沈黙は、澱の底に溜まる泥のように重く、粘り気があった。
お嬢さんは、その名を反芻するように唇を微かに動かした。
その姿を眺めながら、私は帳場の下から小さな小瓶を取り出し、石畳の机へと放る。
中では澱の欠片が、まるで生き物のように蠢いていた。
「驚いた顔をするね。……これはあいつがさっき置いていった、世界の不具合の成れの果てさ。あいつが鉄手甲を灼き、心神を削ってまで吸着した、この世界の膿そのものだよ」
私は煙管を燻らせ、お嬢さんの顔を白く塗りつぶすように煙を吐き出す。
「お嬢さん。あんた、さっき。記録者になりたいなんて言ったね。……だが、ここは慈悲も情緒も枯れ果てた澱の底だ。生きて隣にいたいのなら、相応の理由が必要になる」
私は逃げ場を塞ぐように、言葉を重ねた。
「エルにとって、あんたの有用性は何だい?」
守られるだけの存在。
連れ歩く危うさ。
死線を往く男にとって、ただの記録者など、足枷にしかならない。
「あいつが背負っている喪はね、あいつ自身の正気を喰らって育つ。不具合を吸着するたび、あいつの内側は摩耗し、記憶も、自分という形も、欠落していくんだ。あいつはいつか、自分の名前すら忘れる。……そんな男の隣に、ただの女がいて何になる?」
お嬢さんの拳が、さっきよりも強く握りしめられる。
その瞳に宿ったのは絶望ではなかった。
「……なら、私が作ります」
掠れた、けれど芯の通った声。
「作動させるたびにあの人の心が欠落していくのなら、私がそれを補完する魔力糖を、より純度の高い『記録』として精製します。あの人の記憶が、戦いのたびに塵となって消えるなら、私がそれを物質として定着させて、あの人の脳に直接返してあげる」
「―――私には、それができる」
驚いた。この娘、ただの女じゃない。
煙草を吸い込み、彼女の瞳の奥を覗き込む。
「図書館で、あの人の戦いを見た時。……皆にはモヤとしか見えない欠落の向こう側に、私は『文脈』を見ました。私には、それが正典の一節のように、明確な意味を持って見えるんです」
お嬢さんは帳場に身を乗り出し、私を真っ直ぐに見据えた。
「ガナッシュさん。私に、その毒の扱い方を教えてください。あの人が自分を忘れても、私がその断絶を埋めることができます。……それは、ただの薬売りよりも、今のあの人に必要なことではないですか?」
私は思わず、乾いた笑いを漏らした。
だが、その傲慢なまでの「有用性」の提示こそが、この腐り果てた世界で唯一、不具合に対抗しうる狂気だ。
「……面白いね。王国の飼い犬が、狂犬の餌係になりたいってわけかい」
私は、わざとらしく煙管の煙をお嬢さんの顔に吹きかけた。
だが、彼女は目を逸らさない。
それどころか、帳場に置かれた小瓶の中、蠢く黒い澱の欠片を、まるで失われた聖典の断片でも見るような、慈しむような目で見つめ返したのだ。
震えていた指先が、迷いなく小瓶の冷たい硝子に触れる。
その瞬間、彼女の瞳の奥で青白い炎が静かに爆ぜた。
綺麗事で塗り固められた正典の内側では、決して芽吹くことのなかった「個」という名の歪な情動が、今、この澱の中で形を成した。
恐怖を羨望で塗り潰し、絶望を執着で飼い慣らす。
綺麗事で綴られた正典の文字をすべて読み飛ばし、行間に隠された真実の毒を自らの喉で飲み込もうとする者の顔だ。
いい面構えだ。
破滅に向かって全力で駆け抜ける時にしか見せない、あの美しくも醜い、剥き出しの命の輝きのような。
「……ははっ! その傲慢さ、嫌いじゃない。あんたを、この澱の住人と認めてやるよ」
「なら、改めて聞こうか。……この澱の中で、あんたは何と名乗るんだい?」
お嬢さんは、私を真っ直ぐに見つめ返し、一度だけ深く息を吐いた。
その唇が、自らの新しい運命をなぞるように動く。
「……フィア。この世界の余白を余さず観測し、記述す。私は、余白の記録者セリス・フィアです」
――ガシャアァァン!!
店の表、硝子障の一枚が、内側からの衝撃に耐えかねたように粉々に砕け散った。
鋭い破片が石畳に散らばる音を、地響きのような唸り――聞き慣れた鳴動が掻き消す。
お嬢さんが短い悲鳴を上げて振り返るのと、その影が店内に転がり込んできたのは、ほぼ同時だった。
「……リリィ、……糖を、出せ」
掠れた、死者のような声。
床に片膝をつき、肩で荒い息を吐いているのは、先ほど出ていったあの男だ。
深い灰色の長外套はさらにボロボロに引き裂かれ、右腕の鉄手甲からは、見たこともないほど濃い青色の光が、猛々しく火花を散らして漏れ出ている。
お嬢さんは息を呑み、絶句した。
濁った灰色の瞳は、焦点が合わぬまま虚空を彷徨い、その瞳孔は警告の赤色へと変色していた。
「あいつ……あの短時間で、どれだけの不具合を吸着してきやがったんだ」
私は、心臓を蹴り上げるような焦燥を押し殺し、帳場を飛び越え、奴に駆け寄る。
砕けた硝子の向こう側、ジギタリスだけは微動だにしなかった。奴は倒れ伏すエルの惨状に同情する素振りすら見せず、ただ、セリスの方を、獲物を狙う猛禽の鋭さで見定めているように見えた。
この地獄のすべてを他人事として愉しんでいるような、あの薄ら寒い目だ。奴にとって、目の前の男が死のうが、小娘の運命が狂おうが、知ったことではないのだろう。
だから私はこいつが嫌いだ。
「……おやおや、リリィ。驚くには値しませんよ」
ジギタリスは胸元の不揃いな時計をカチャリと鳴らし、愉しげに肩を竦めた。
「今夜は『大剥落の予報』が出ている。明日、この下層が丸ごと消し飛ぶのを防ぐために、あの掃除屋は街を這い回って、前兆の喪を全部ひとりで飲み干してきたのさ」
私は奴の言葉に視線すら向けず、ただ煙管の吸い殻を床へと叩き落とした。
「……チッ。どいつもこいつも、人使いの荒い世界だね」
鉄手甲からは、肉が焼けるような異臭と、脳を揺さぶるような不協和音が鳴り響いていた。
おそらく、限界だ。
吸着した世界の歪みが、濾過の速度を上回っている。
「お嬢さん、ぼさっとするな! さっきの『保管品』をこっちへ寄越しな。あいつの脳が焼き切れるのが先か、あんたのその力が間に合うのが先か……死線の競り合いだよ!」
エルヴィンの右腕が、カシャカシャと音を立て、装甲が熱を吐き出し始める。
そこから溢れ出した漆黒の澱が、まるで蛇のように彼の首筋を這い上がっていく。
「……あ、……ぁ…………」
エルヴィンの口から、言葉にならない呻きが漏れる。
忘却の深淵に沈みかけながら、それでも、鉄手甲に覆われた無骨な指先が、装甲を軋ませながら軍刀の柄を血が滲むほどの力で握りしめていた。




